3話 初めてのアルバイト
るんたった、るんたった。
そんな感じのリズムで、ショッキングピンクの象が踊っている。
鼻をみんなで右へ、左へときれいに揃えて揺らすさまは壮観で、私は思わず小さく拍手した。
魔法にかかっている、と思う。
頭の中の、何かを司る一点だけは妙に研ぎ澄まされているのに、その他のすべてがぼんやりと融けていくような感覚。
まだ飲んだことはないけれど、お酒に酔うってこんな感じなのかもしれない。
所長の視線も、私と同じ方向を追っていた。
「可愛いですね」
私がにこりと笑いながらそう言うと、所長は大の大人がするにはちょっと幼い仕草で、小首を傾げた。
「可愛いのか。やはり君は素晴らしいね」
所長の返事に何か引っ掛かりを覚えて、私も同じように小首を傾げる。
「……? 所長と私は、同じものを見ているんじゃないんですか?」
てっきり、所長にも同じものが見えているのだと思っていた。
「同じものを見てるさ。何の変哲もない煙をね。ただ、同じものでも――」
口角をニイッと上げた所長が、種明かしをするように話し始めたとき。
ガラガラガラ、と玄関から扉を開ける重い音が聞こえてきた。
早速、お客様が来たのかもしれない。
シルバー人材派遣。つまりは働きたいお年寄りか、あるいは何かお困りごとの相談だろうか。
私が座布団から立ち上がろうと腰を浮かせた、その瞬間。
「うわああああ!」
引き裂くような悲鳴が響いた。恐怖に完全に引きつった声だった。
「間が悪いな」
所長はのんびりと頭を掻いていた。長い身体を振り子のように大きく左右に揺らしながら立ち上がる。
やっぱり、見上げるほどに大きい。
緊急事態なのか、そうでないのか。判断がつかないまま、私も慌てて立ち上がった。
足元の荷物を横目で見て、とりあえず置いたままでいいかとスマホだけを手に取る。
「ゆかりちゃん、付いて来てもらっていいかな」
動きはのっそりとしているのに、大きな一歩でずんずんと進む所長が、居間の鴨居をくぐりながら私を促した。
「はい」
所長の後ろをついて廊下へ出る。
古い床板が、歩くたびにギシギシと音を立てる。足を擦って歩くと、ささくれ立った板の繊維に靴下の糸が引っ掛かりそうだ。
扉の向こうの玄関口は、夕闇というに相応しい薄暗さだった。
そういえば、この辺りは街灯があまりなかった気がする。帰りは遅くなるようなら、スマホのライトをつけて歩いたほうがいいかもしれない。
私は手元のスマホの充電を確認しようと、画面を点灯させた。
そのとき、外から吹き込んできた風がふっと、身体にまとわりついていた甘い香りをかき消した。
――あれ?
さっきまで意識の外にあったものが、突然目の前に現れたような、奇妙な違和感に襲われる。
一瞬の瞬きのあと、黒い学ランを着た、まっすぐな黒髪の男の子が、玄関口にうずくまっているのが鮮明に視界に入った。
「稔くん、大丈夫……ではなさそうだな」
所長は目の前の事態と噛み合わない呑気な様子で、「困ったなぁ」とばかりに男の子を見下ろしている。
近づいて、その男の子の異様に早い呼吸と、全身をガタガタと震わせる姿を見て、私は目を見開いた。
過呼吸だ。中学のとき、なっている子を見たことがある。
「どうしよう! 所長、なにか袋とか……!」
私は靴下のまま三和土に駆け降りて、尻餅をついたような体勢で俯く男の子の横に腰を下ろした。
カバンを持ってくればよかった。ハンカチがあれば口元に当ててあげられたのに。
同じ高校一年生だろうか。
糊の効いた学ランの背中を、呼吸を誘導するように、ゆっくりと上から下へ手を滑らせる。
男の子は、涙の滲む瞳を私に向けた。
――あ、可愛い顔。童顔で、目がくりっとしている。
「稔、どう? 初めて『可愛いですね』って言われたんだけど、何が見えた?」
所長は相変わらず焦る様子もなく、徐々に落ち着きを取り戻し始めた男の子を、木偶の坊のように見下ろしていた。
居間に繋がる廊下からふわりと甘い香りが追いかけてきて、外の空気と混じり合う。
所長の半纏が動くと甘さが増した。あの半纏には、すっかりお香の香りが染み込んでいるようだ。
(この子、稔くんっていうんだなぁ……)
稔くんは玄関の三和土にお尻をつけたまま、所長を鋭く睨みつけていた。
「……象。ピンク色のやつ」
呼吸を整えた稔くんは、絞り出すような声で呟いた。
同じだ、と思った。
ということは、彼は本当に、るんたった、るんたったと所長の足元で踊る、あのピンク色の象が見えているのだ。
「真面目に言ってる?」
所長は何故か、疑うような返事をした。今まさに、あんなに楽しそうなピンク色の象たちに囲まれているというのに。
「嘘ついてなんか得があんのか。……怪しい香のこと、警察に言いつけるぞ」
不機嫌そうな稔くんの声に、所長はヘラヘラと笑う。
「ごめんね、勘弁してよ」
不規則な呼吸はすっかり治まったみたいだった。背中を撫でていた私の手が、唐突に空を振る。
稔くんは私を振り返ることもなく、無愛想に靴を脱いで、重そうなリュックを担ぎ直した。
私は置いてけぼりを食らったような気持ちで、中途半端に浮いたままの手をそっと膝に戻す。
「ピンクの象、見えるんですか?」
私は膝についた土埃を祓いながら、学ランの後ろ姿に尋ねた。汚れてしまった靴下はどうしよう。部屋に上がるのに脱いだほうがいいだろうか。
パンパンと足の裏を叩いて、「まぁいいや」と室内に上がった私を、稔くんはじろじろと、上から下へ、下から上へとスキャンするみたいに見てきた。
「何なのこいつ。今まで会ったなかで一番頭おかしい」
「……え」
流石の私も、あんまりな言いように顔を上げる。この子の前で頭がおかしいようなことは何一つしていないはずだと、少し前の自分の行動を頭の中で振り返ってみる。
いや、もしかして汚れた靴下でズカズカと室内に入ったのがいけなかったのかも。
でもそれを言うなら、稔くんだってお尻に土埃がついたままだ。
「いい拾いものでしょ」
所長はくるりと踵を返して、居間の方へ歩き出した。稔くんも、まるで私の存在が最初から見えていないかのように、その背中に続く。
「あの……」
置いていかれた私の声は宙ぶらりんのまま。居間に消えていく二人の後ろ姿に、ため息が溢れた。
職場の人間関係は難しいと聞くし、こればかりは入ってみないことには分からないものだ。
クラスでも、バイト先に怖い先輩がいるだの、店長の頭がおかしいだの、そんな話が日常的に飛び交っているのだから。
私は、玄関に乱雑に転がった稔くんの靴を、踵をそろえてきれいに置き直した。
玄関が開いたままになっている。
外はもう真っ暗だなぁ、と月を見上げてから、立て付けの悪い扉をガラガラと閉める。
居間に向かう道すがら、あの甘いお香の香りが、また少しずつ濃くなっていくのを感じていた。




