2話 シルバー人材派遣
コンビニもない、各駅停車だけが止まる小さな駅で電車を降りた。
ホームドアのないレトロなホームを見渡す。
乗ってきた電車が走り去ってしまうと、あまりの静けさに、どこからか虫の音が耳に届く。
ここで降りたのは、どうやら私一人だけらしい。
「えーと、ここから徒歩は……」
カバンからスマホを取り出してマップを開く。バイト先の住所はあらかじめ登録してあった。
西日が目に刺さるように眩しい。指でスーッと画面をなぞって明るさを上げながら、目的地があるはずの方向へと視線を向けた。
「住宅街の中ね。遅くなっても危なくなさそうでいいかな」
春の風を肩で切って歩くのは気持ちがいい。
駅のそばを流れる川のフェンスの向こう、鬱蒼とした草むらの影に、小さな野鳥の姿がちらりと見えた。
それにしても、静かだ。
マップのナビゲーションに案内されるまま、結局誰一人ともすれ違うことなく、静まり返った住宅街をぐるぐると歩き続ける。
「ここ……? 合ってるかな?」
私は足を止め、眉をひそめて画面を見つめた。
あまり方向感覚が良い方ではないけれど、都内みたいに高いビルが立ち並ぶわけでもなければ、細道が沢山あるわけでもない。
この場所で、マップが間違った目的地を指し示すことはまずないはずだ。
……ということは本当にここが目的地。
怪訝な気持ちのまま、スマホの画面と、目の前にある「それ」を何度も見比べた。画面のピンは、確かにこの場所で静かに震えている。
「ここかぁ……」
ごくり、と喉が鳴った。
見上げた先にあるのは、剥げたトタン板と雑草に塗れた
――どう見ても人の気配がしない廃墟だった。
「こんにちはー? あのぉ、誰かいますか?」
インターホンは見当たらなかった。
仕方なく、すりガラスの扉をコンコンとノックしてみる。
日がどんどん傾いて、自分の影が地面に長く伸びていくのが見えた。
静かな住宅街に私の声だけがよく響いて、なんだか居た堪れない気持ちになる。空き巣と間違われたらどうしよう、なんて考えがふと脳裏を過る。
「はぁい! ちょっと待ってね」
ギシ、ギシ、ギシ……と床の軋む音が近づいてきて、すりガラスの向こうの影がぐんぐんと大きくなる。
横開きの扉が、重そうな音を立ててスライドした。
大きな手が扉の端を掴んでいる。
まっすぐ前を見ていた私の視界には、はじめその人の顔が入ってこなかった。
半纏を着たひょろりと高い体躯を、私は体ごと反るようにして見上げる。
玄関口から屈むようにして顔を出したのは、白髪交じりのもっさりとした髪が顔の半分を隠した、見たこともないくらい長身の男の人だった。
「あの、私……」
近すぎる。もっと下がらないと、その姿が視界に収まりきらない。
「君、ゆかりちゃんね、そうでしょ?」
天然らしきウェーブのかかった髪が目元を隠していて、口元しか見えない。
けれど、ニッと上がった口角を見ていると、不思議と自分までつられて笑顔になってしまう。
「はい。宮脇ゆかりです。……ここ、シルバー人材派遣さんで合ってますか?」
少し体を反らしたまま、私は前髪に隠れた目があるであろう場所を見上げた。
男の人が大きく頷くと同時に、ふわりと甘い香りが鼻腔に届く。半纏からだろうか。それか、あのふわふわとうねうねの髪の毛からかもしれない。
「うんうん、合ってるよ。ボロっちくてびっくりするよね」
不思議だった。
この人が出てきてから、さっきまで廃墟のように見えていた建物が、急に「趣のある古民家」のように思えてくる。
「いえ、趣があっていいと思います」
本心からの言葉だったけれど、男の人は本気にしていなさそうだった。
首を傾け、肩をすくめて、皮肉気に笑う。
「ありがとう。中は綺麗だからさ、どうぞ入って」
私は一礼して、中に足を踏み入れた。
「お邪魔します」
玄関は意外にも広く、男の人の言葉通り本当に綺麗だった。横開きのドアを閉めようと、荷物を抱え直す。
そして、伸ばした右手を、空中でピタリと止めた。
触れてもいないのに、扉はすでにぴっちりと閉まっていた。すりガラスを、赤い夕陽が音もなく染め上げている。
「麦茶は好き?」
背後から声をかけられ、私はハッとして慌ててローファーを脱いだ。まだ新しい革靴は、こういうときに脱ぎ履きに手間取ってしまう。
「はい、大好きです」
少し間を置いて答えると、男の人は満足そうに笑って頷いた。
——可愛い。
目の前に出されたのは、パッチワークのコースターに丸っこいガラスのコップ。透き通った琥珀色の麦茶に沈む氷も、まあるい形をしている。
居間の様子は、まるで田舎のおばあちゃんの家を彷彿とさせた。
私が小学生の時に亡くなったおばあちゃんは、なんでも手作りする人だった。
端切れの布を座布団にしたり、こうしてコースターにしたり。家の至る所に手作りの温かさがあったことを思い出す。
懐かしい居心地の良さに、じわじわと体の力が抜けていく。
ちゃぶ台の向こうで胡座をかいた男の人は、大きな喉仏をぐんと動かしておいしそうに麦茶を一口飲むと、私に向き直った。
「さて、自己紹介がまだだったね。僕が奥秀作。施設の先生から僕の名前聞いてたかな?」
スマホのカレンダーに打ち込んだ文字を頭の中に思い浮かべる。何度も見直した『秀作所長、シルバー人材派遣』の文字。
「秀作所長って方に会うようにって聞いてます」
「そうそう、それが僕ね。君と会ったこともあるんだけど、流石に覚えてないよねぇ」
この人が秀作所長。所長……?
今更ながら、生活感に溢れたこの場所が「事務所」ということなのだろうか。
混乱しそうになる思考に、私はそっと蓋をした。
いちいち話を止めていては、アルバイトの本題にいつまでも入れない。
私は、ちゃぶ台の向こうで美味そうに麦茶をすする秀作さんを、上から下までじっと眺めた。
「会ったこと……、私と秀作所長がですか?」
白髪交じりのもっさりした髪に、半纏姿の超長身。こんな、どこからどう見ても特徴の塊みたいな大男だ。
もし過去に一度でもすれ違っていれば、絶対に忘れるはずがないのに。
「うん」
会ったことないと思います――いや、相手が会ったことがあると言い切っているのだから、そう口に出すのは失礼かもしれない。
私は一度口を噤んで、頭の中で言葉を探し直した。
「ごめんなさい。ちょっと分からないです」
「いや、良いんだ。……さて、本題に入ろうか」
秀作さんは気にした様子もなく話を続けた。
ようやくアルバイトについて聞ける。私は、鞄からメモとボールペン、それから白封筒を取り出した。
「アルバイトですよね。面接とかしますか? 一応履歴書書いてきたんですけど……」
ネットで調べた通りに履歴書在中と書いた白封筒を、ちゃぶ台の上へスッと差し出す。
駅前で撮った証明写真の写りがちょっと納得いかなかったなとその中身を思い出しながら、アシナガグモみたいな大きな手が白封筒を受け取るのを落ち着かない気持ちで見送った。
「いい子だなぁ、ゆかりちゃん。履歴書一応預かるね。ありがとう」
秀作さんは口元だけで満面の笑みを見せた。そして、半纏の袂に白封筒を大切そうに仕舞い込む。
その大きな体が動いた拍子に、あの甘い香りがぐんと強く鼻腔を突いた。
私の想像していたアルバイト面接とはほど遠い。
けれど、そもそも特殊なアルバイトであると、私は事前にちゃんと聞いていた。
だから、取り乱さずにいられるのだと思う。
「面接はないよ。する必要もないしね。——だって君、これが見えるだろう?」
秀作さんが、ちゃぶ台の端で静かに煙を上げる香立てを、細い指で指し示した。
私は、部屋に入った瞬間からずっと、それを見ていた。
ふわりと鼻腔をくすぐる、あの独特な甘い香り。
白く細い煙は、まるで物語のランプの精霊のように、空中で見る見るうちに形を変え――鮮やかなピンク色の小さな象を作り出していく。
手乗りサイズの象たちは、楽しげに隊列を組んで、私の周りをくるくると回りはじめた。
——やっぱり、この部屋は可愛らしい。
廃墟がいつの間にか素敵な古民家に見えたのも、異常な居心地の良さに体が弛緩していくのも、すべてはこの煙のせいなのだろうか。
おかしな事が起きていると、私の頭は分かっている。
それなのに、凪いだ心で幻覚を見つめる自分自身を、どこか他人事のように心地よく受け入れていた。




