10話 羊を数えて
休日の午前中。まだ朝と呼べる時間帯に私は事務所に来ていた。
単発的な仕事があると連絡をもらったからだ。
小さな子たちの世話を亜紀に一任してしまうのは申し訳ないと思ったものの、今日の給料は今日のうちに渡されると聞いて、お土産を約束することで外に出てくることができた。
「あ、稔。今日はそれ、持って行かなくていいよ」
事務所の勝手口で、カメラの入った鞄を抱えようとした稔に、所長はひらひらと軽い手を振る。
「……屋外だから?」
ぴたりと動きを止めた稔くんが怪訝な顔で、所長を見返した。
「そ、表の仕事だから」
「言い方が怪しいだろ……。いつもは裏の仕事なのかよ」
この二人はすごく仲がいい。
単なるバイト先の上司と部下とは思えないほどに。
不服そうに唇を尖らせる稔を横目に、私は所長が用意した段ボールを覗き込んだ。
中には冷えた経口補水液のペットボトルがぎっしりと詰まっている。
「今日、車で行くんですか? 所長の運転?」
ボロ屋の庭、生い茂りすぎた庭木に隠れるようにして、丸いヘッドライトのモダンな軽自動車があったことを思い出す。
この大男が、あんなに可愛い車に……。
私は失礼だと思いつつ、所長を下から上まで、改めて見てしまう。
「そうそう。ボランティアのゴミをそのまま町のごみ収集所まで持ってくからね。ゆかりちゃんは車酔いとか大丈夫?」
所長は私の不躾な視線を気にした様子もない。
相変わらず分厚い前髪のせいで、彼の考えていることはいまいち掴めないでいる。
「私、運転が荒くても平気ですよ」
「僕、運転は荒くないよ、多分。……稔も車酔いは平気だったよね?」
黙々と積み込み作業に徹していた稔くんが振り返る。午前中に彼に会うのは初めてだった。
普段より少し眠たげな目元をしているから、夜型なのかもしれない。
「スマホ見なければ平気」
稔くんのぶっきらぼうな返事を所長は慣れたように流して、助手席のドアを開けた。
「なら、ゆかりちゃん、助手席にどうぞ。稔はいつも外を見てばっかりで、話し相手にもならないから、つまらないんだよね」
ドアを開けて待つ所長に急かされるようにして、私は素早く助手席に乗り込んだ。
「そういうことなら、お邪魔しますね」
他人の車の匂いがする。
所長が大きな体をなんとか畳んで運転席に乗り込んだ。
私は慌ててシートベルトを引いた。なんだか新鮮で、気持ちが落ち着かない。
のんびりと軽自動車が走り出して数分。バックミラーを覗き込んだ所長が、おかしそうに口元を綻ばせた。
「稔寝たね」
振り返ると、後部座席の隅で、稔くんが窓に頭を預けてこっくりと眠りに落ちていた。
細い睫毛が影を落とすその寝顔は、普段の刺々しい態度が嘘のように無防備で、少し幼く見える。
「本当だ。なんか、こうしてると幼くて可愛いですね」
「稔の顔は母親似だよ。顔は可愛いよね、性格はともかく」
所長が前を見たまま、穏やかな口調で当たり前のように話すから「へぇ」と流しそうになって、はたと止まる。
仲がいいとは思っていたけれど、家族ぐるみだなんて。それは私が入り込めない空気があるわけだと、腑に落ちた。
「稔くんのお母さんと、お知り合いなんですか?」
いつもなら他人の家族事情に首を突っ込んだりしない。
それなのに、所長の気安さのせいか、車という決して向かい合うことのないシチュエーションのせいか、つい口が軽くなる。
「言ってなかったっけ。稔は僕の甥っ子だよ。兄の子どもなんだ……。まぁ、兄夫婦はもう離婚してるんだけどね」
「離婚……」
珍しいことじゃない。でも、軽く扱う話でもない。
私は今度こそ口を噤む。
所長の出方を伺うけれど、彼の口調も声のトーンも少しも乱れていなかった。
「そう。稔は今、母親と、母方の祖母と暮らしてるんだ」
――母親と、おばあちゃん。
それはどんな暮らしなんだろう。
少し想像しかけて、やめた。
他人の生活を詮索するようなことは気を悪くさせることはあっても、誰のためにもならない行為だ。
「ちょっと、分かります。稔くん、素直じゃないけど、年上の女の人に可愛がられる感じがするので」
井出のおばあちゃんも、稔くんに実の孫に向けるような柔らかな視線を送っていたことを思い出す。
するりと人の懐に潜り込むことが出来るのは、そんな家庭環境の影響なのかもしれない。
「君は大人だねぇ」
バックミラー越しに、所長が観察するような、それでいて感心したような瞳をチラリと向けてくる。
「そんなことないです。ただの分かったフリというか、立ち回りが上手いだけですから……」
「しかも謙虚だ。本当にいい子だよ、ゆかりちゃんは」
信号に差し掛かった車に私は体を強張らせた。今は所長と目を合わせたくなかった。
祈りが通じたかのように信号が青になる。
緩んでいたブレーキが再び強く踏み込まれた。
「……ありがとうございます」
褒め言葉をのらりくらりとかわしながら、私は車の窓から、流れていく見慣れた木津町の景色を見つめた。
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車は大きな公園の傍のパーキングに停まった。エンジン音が止まると、後部座席から、小さく、けれどひどく苦しそうな声が漏れ聞こえた。
「……う、うう……」
振り返ると、稔くんの眉間に深い皺が寄っている。うっすらと額に汗を浮かべ、呼吸は浅く、何かに怯えるようにその指先が小刻みに震えていた。
「……魘されてますね。起こしていいですか?」
「起こしてやって。稔はいつも悪夢ばっかり見てるんだよ」
私はシートベルトを外し、助手席から降りて後部座席のドアへと向かった。
「稔くーん。日浦稔くーん、起きてください。着きましたよー」
施設の子どもたちが喜ぶからと、いつの間にか癖になった病院のアナウンスの真似で声を掛ける。
肩を軽く揺すれば、稔くんの瞼がぴくぴくと痙攣する。
「はっ……」
大きく息を吸い込んで、稔くんの瞳がカッと見開かれた。
ゆら、ゆら、と視線が、何か恐ろしいものから逃げるように彷徨う。
まだ寝ぼけているのだろうか。私はもう一度彼の肩に触れようと手を伸ばした。
その瞬間、彼の細い両腕が、私の身体を、折れそうなほどの力で強く抱きすくめた。
あまりの勢いに、私は体勢を崩して、上半身を後部座席に突っ込むような不安定な格好になる。
――あのお風呂場の時と同じ。
数秒の後、ハッと我に返った稔くんが、顔を真っ赤にして私を突き飛ばした。
「っと……危な」
後ろにたたらを踏んでどうにか転ぶことは免れた。呆然と私を見つめる稔くんを、私も似たような顔で見返した。
「あはは、ごめんね、ゆかりちゃん。うちの稔が寝ぼけて抱きつくだなんて。一体、どんな夢を見てたんだかねぇ」
所長が愉快そうにハンドルを叩く。
運転席からただ見ていたようだ。
趣味が悪いと思う半面、施設の職員のように男女関係に敏感にならない大人に、私はどこか居心地の良さを感じる。
「ち、違う……! 違う! 今の、お香の、香りのせいで……っ!」
耳まで真っ赤にして怒鳴る稔くんを、私はただ、見つめることしかできなかった。
触れられた背中に、まだ彼の縋るような手の温もりが残っている。
「はいはい、言い訳はそこまで。ほら、町内会の皆さんがもう集まってるよ。草むしりの範囲と時間の紙、配ってきてくれる?」
所長がダッシュボードから出した書類の束を差し出した。
「はい。……あそこの方々ですね」
「ついでに挨拶もしてきてね。外ではよく動いてくれる良い方々だから」
「行ってきます」
まだ呆然としたままの稔くんを置き去りに、私は書類を持って駆け出した。
なんだか無性に走りたい気分だった。
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2時間ほど汗を流し、すっかり綺麗になった公園の入り口で、私たちは町内会の人たちを見送った。
「皆さん、本当にお疲れ様でした! お気持ち程度ですけど、こちら代表の方から。報酬、受け取ってくださいね」
所長がにこやかに町内会長にお札の入った封筒を手渡す。
「さて、2人も本当にお疲れ様。はい、これ。二人にはちゃんとした『時給』が出るからね」
手渡された茶封筒を受け取りながら、私はふと、井出のおばあちゃんの依頼のことを思い出した。
彼女からは1000円頂戴して、時給2000円で二人分の給料計算がされている。
今回も、そうだ。大した金額がこの草むしりのために用意されていたわけでもないことは、知っている。
「ありがとうございます。……でも、これ、元取れてないですよね? こんなボランティアみたいな草むしりで、私たちに時給まで払ってたら、赤字になりませんか?」
所長が笑みを浮かべ、口を開く前に、所長の影から顔を出した稔くんが鼻で笑った。
「心配することない。怪しい論文で高給取りをしてるんだ。俺たちの給料も、全部所長のポケットマネーから出してるんだろ」
まだ少し不貞腐れた様子の稔くんが、呆れたように吐き捨てる。
「稔……。僕だってそんな大金持ちってわけじゃないんだよ?」
「嘘つくな。大学教授もやってるくせに」
「まぁね。こっちは実益を兼ねた趣味、かな。人脈でなんとか形にしてるだけだからね」
所長はそう言って、悪戯っぽく笑う。
なんとなく、あの分厚い前髪の裏でウインクでもしていたような気がする。
お茶目な人。
私はつい気が緩んでいた。
「だから、仁美さん。――『ここなら面倒な手続きがいらないから』って言ったんだ」
それなら、ルールの厳しい施設にいながら、私のような身元の曖昧な存在がこうしてゆるくバイトをやらせてもらえていることにも、説明がつく。
仁美さんと所長は、考えてみれば年齢も近いように思えた。
言葉を吐いたあとで、どういう繋がりなのか。聞きたいような、聞かないでいる方がいいような、そんな葛藤がじわじわと湧いてきた。
「……仁美さんから何か聞いていますか?」
所長は、否定も肯定もせず、ただ静かに微笑んだ。
怖気とともに皮膚が粟立つ。産毛が逆立ってちくちくと肌を刺すような気がした。
——どこまで知られているんだろう。
「さて、行こうか。お昼ご飯、何でも奢るよ。何が食べたいか、車の中で考えておいてね」
車窓は次々に景色を映し出していく。
5月の澄んだ風が、私の背中を寒々と通り抜けていった。




