18話 新しい春
今年の桜は少しだけ遅咲きで、キャンパスへと続く並木道には、薄桃色の見事なアーチが架かっていた。
「ゆかり、写真撮ろう! ここ、すっごい綺麗だし!」
私の入学式に「大学ってどんなところか見てみたいの!」と付いてきたのは、亜紀だった。
わざわざ有給休暇を取って、ビシッと正装までして来てくれた彼女が、ただの好奇心だけで来たのではないことくらい、私はちゃんと分かっている。
「なら、亜紀も一緒に撮ろう」
「ゆかりの写真を撮り終わったらね! 奈々子に怒られちゃうんだから。今日、本当はすっごく来たいって駄目こねてたんだから」
奈々子も今年で、もう中学生だ。
幼い頃の「本能のまま生きる自由人」ぶりはすっかり影を潜め、今ではすっかりお洒落で今時な女の子へと成長している。
私が施設を退所して一人暮らしを始める時、一番悲しんで泣いてくれたのも奈々子だった。
「若者はいいわねぇ、キラキラしていて」
桜並木の下で写真を撮り合う私たちを、眩しそうに見つめていたのは仁美さんだった。
大切に世話をしてきた子の門出を祝い、見届けたいからと、スーツ選びも入学手続きの書類準備も、私は仁美さんに助力を頼んだのだ。
大学でのスポンサーを名乗っておきながら、自分の研究以外はまるでポンコツな奥所長より、よっぽど頼りになる存在だった。
「仁美さんも、一緒に入りましょうよ」
「私はいいわよ、裏方に徹するわ」
遠慮する仁美さんの手を、亜紀が半ば強引に引っ張ってくる。
カシャッとスマホのシャッター音が響き、液晶画面の中には、舞い散る桜を背に笑顔を浮かべる私たちの姿が収まっていた。
大学の正門に近づくにつれ、オフィスカジュアルに身を包んだ保護者や、慣れないスーツを着た新入生たちの姿が増えていく。
「じゃあ、私たちは保護者席にいるからね」
「うん。ありがとう」
亜紀と仁美さんに大きく手を振って、私は新入生の人波の中へひっそりと合流した。
『令和7年度 入学式』と書かれた大きな立看板の前には、記念撮影の行列ができている。
何気なくそこへ視線を向けると、人混みの中でヒョロリと頭ひとつ飛び出した見知った顔を見つけた。
気まずさに顔を背けようとしたけれど、向こうも私に気づいてしまったようだ。
私は観念して、稔くんのいる場所へと足を向けた。
「スーツ、似合ってるね。……稔くんのお母さん、本日はおめでとうございます」
私は何か言いたげな稔くんの胸元をぽんっと叩いてから、その後ろに立つ上品な女性へ丁寧にお辞儀をした。
「あら、ゆかりちゃん! おめでとう。パンツスーツなのね、とってもかっこいいわ」
稔くんのお母さんは、春の桜に合わせたような優しい薄桃色のセットアップを身に纏っていた。耳元で光る真珠のピアスが、とても似合っている。
「ありがとうございます。稔くんのお母さんもすごく素敵です」
稔くんのお母さんとは、彼の実家に伺った際に何度か顔を合わせていた。もうすっかり打ち解けている。
「こんな素敵な彼女がいるなんて、うちの息子は本当に幸せ者ねぇ」
稔くんのお母さんがうっとりと呟く。私は否定も否定もせず、ただニコリと微笑みを返しておいた。
会話から置いてけぼりにされた稔くんが、耳まで真っ赤にしてお母さんに詰め寄る。
「ちょっと、母さん……!」
「嫌だわ、この子ったら。大学生にもなって照れちゃって」
からりと笑うお母さんの隣で、稔くんが気まずそうに咳払いをした。
看板の前が空き、私たちはまるで家族のように並んで写真を撮った。
式場へ向かう道中、私と稔くんは保護者席へ向かうお母さんと別れ、新入生用のホールへと足を進める。
大勢の学生が行き交う中でも、稔くんの背格好は頭ひとつ抜け出ていた。初めて出会った頃はそこまで身長差を感じなかったのに、いつの間にこんなに大きくなったのだろう。
「……うちの母さんと、あんまり仲良くするなよ」
稔くんが、少し子供っぽい表情で口を尖らせた。
体が大きくなっても、中身の可愛らしさは相変わらずだ。
「どうして? 私、稔くんのお母さんを奪ったりしないよ」
「……別に、取られると思って言ってるわけじゃない。ゆかりと母さんが話し出すと、俺の居場所がなくなるんだよ」
稔くんは語尾を消すようにボソボソと反論した。私には口喧嘩で勝てないと思っているらしい。
私はそんな意地悪な女であるつもりはないけれど、稔くんが可愛くてついつい少しだけ困らせたくなるのだ。
反省しつつ、彼のスーツの袖をキュッと引いた。
「……なに?」
少し不機嫌そうな彼の顔を、視界いっぱいに収める。
「……スーツ、すごく似合ってるよ。かっこいい」
掛け値なしに、稔くんは本当にかっこよくなった。
所長よりずっと背が高くなって、けれど、くりくりの澄んだ瞳はそのままだ。
稔くんは照れ隠しに、私の視線から逃げるように斜め上を仰ぎ見た。
「……もういいから! 早く行くぞ!」
やっぱり可愛い。稔くんにちょっかいを出すことは辞められなさそうだ。
☆☆☆
入学式は無事に執り行われ、その後は学部ごとに分かれて講義室でガイダンスが行われた。
私は教育学部、稔くんは情報学部だ。
分厚いシラバスや履修登録の手引きなど、大量の資料を抱えてガイダンスの教室を後にする。
人でごった返す廊下の先に、見知った姿がぽつんと立っていた。
「所長! ……あ、いえ、奥教授ですね」
あの古い事務所では威厳の「い」の字も感じられない所長だけれど、こうしてきちんとしたスーツを着てキャンパス内に立っていると、なんだかとても偉い教授に見えるから不思議だ。
「ふふ、どう呼んでも構わないよ。僕は僕だしね。……入学おめでとう、ゆかりちゃん」
「ありがとうございます」
奥教授は、大学内でもかなり有名な研究者らしい。並んで歩いていると、通りすがる学生たちからの視線を感じる。
「これで心置きなく、ゆかりちゃんを研究助手としてこき使えるねぇ」
「ええ、好きに使い倒してください。私が大学に進学しようと思えたのも、全部所長のサポートのおかげですから」
底辺高校から、それなりに倍率の高さで知られるこの大学に入るまでにかかった塾代や受験料、その費用の半分は所長が出してくれたのだ。
できることなら何でもやるつもりだった。まさに足を向けて寝られない存在だ。
「毎年のことながら、賑わっているねぇ」
所長が窓の外、キャンパスの大通りを見下ろした。
そこはサークルの勧誘ブースがズラリと並び、ビラを配る先輩たちと新入生でちょっとしたお祭り騒ぎになっていた。
「私、サークルには入りませんから、安心してください」
今年の春から施設を立ち去り、小さなアパートで一人暮らしを始めた。
ようやく同級生たちと同じスタートラインに立てたような心地はするけれど、どこかで「彼らとは分かり合えない」と感じてしまう部分も確かに残っている。
彼らが無邪気に楽しむ世界に、私が余計な冷や水を差してしまうような気がするのだ。
「僕の研究室に集中してくれる、って理解していいのかな?」
所長は、私のそんな胸の内を悟っているのか、それとも単なる天然なのか、ニコリと笑った。
私も、鏡写しのように静かな笑みを返す。
「もちろんですよ。私、すごく勤勉なんです。……というわけで、おすすめの履修登録の組み合わせ、教えてください」
私は抱えていたタブレットを持ち上げた。
友だち作りもせず、人脈もない今の私に一番必要なもの。それは正確な「情報」だ。
「本当に君は、どこまでも抜かりがないねぇ。……いいよ、特別に単位の取りやすい講義を教えてあげる」
所長が困ったように、けれど嬉しそうに目元を緩める。
風が吹き抜け、並木道の桜の落花が窓からチラチラと舞い込んできた。
私の中の『あの箱』は、きっとこれからも開くことはない。
けれど、私は私の足で、新しい春を歩き始めていた。




