17話 奥秀作
テスト期間は、やっぱり休んで勉強に集中することにします。すみません。
そんなメッセージを送って一週間。
もう言い訳もなくなって、私は観念するような気持ちで事務所にやってきた。
父にお香を使ったことは、多分バレていない。ただ私が所長や、稔くんと顔を合わせるのが億劫だった。
彼らは私の心の深いところを汲み取られてしまいそうで、いつも通りでいられる自信がない。
「……こんにちは」
私はすごく懐かしいような気持ちで、ボロボロの事務所の玄関を開けた。ガラガラと大きな音を立てる。相変わらず建て付けが酷く悪い。
「ゆかりちゃん、なんか久しぶりだね。テストは出来た?」
……え?
声は所長だった。
しかし、見た目がちっとも所長ではない誰かが、所長の定位置でパソコンや資料を広げている。
「あの……」
「あれ? あんまり出来なかった感じ?」
所長といえば、首が痛くなるほど見上げないと顔が見えない超長身で、頭をもさもさ、前髪も目を覆い隠してうねうねとしていたはずだ。
「いや……」
私の煮えきらない態度に目の前で首を傾げているのは、そこそこ小綺麗な中年の男性である。
私は何か引っかかりを覚えて、少し童顔で、くりっとした瞳の男性を不躾に見つめた。
「所長……ですか?」
私の言葉に所長(奥秀作)は、丸い目をきらりと光らせた。
「あれ? もしかして僕の姿が今までと違って見えてる?」
私は頷いた。全くの別人に見えている。
テスト期間を、挟んだだけだというのに化け物みたいな超長身から、ちょっと顔が可愛い系の中年男性に様変わりしていた。
そして、私は引っかかりの正体に辿り着く。
「あっ……。稔くんが年取ったら、こんな感じになるんだろうなぁって顔です」
そう。稔くんと同系の顔だ。それで既視感を感じたらしい。
「それは僕の顔だね。稔と僕はよく似てるんだよ。稔の父親よりずっとね。……まぁ、甥っ子だから別に不思議はないけど」
所長はからりと笑った。
私はいつもいた事務所がなんとなく居心地が悪いような気がして、初めてきた時のように、おずおずと座布団に腰を下ろした。
「ゆかりちゃん、多分、お香の幻覚見えなくなっちゃったんだねぇ」
所長はのんびりした声で、実に残念そうに言った。
「……どうしてですか?」
所長はくるりと私に向き直る。
私の声は震えていた。胸に満ちる喪失感に私自身が一番戸惑っている。
「もともと、不思議だったんだ。ゆかりちゃんはさ、こんな子供だましみたいなお香の催眠にかかるほど、人を信じやすいわけじゃないから」
お香の効果が薄れた事務所は、古びていて、それでいてやっぱり田舎の家のような長閑でゆっくりとした時間の流れを感じさせる。
薄汚れたパッチワークも、ところどころに飾られたレースもそのまま、色鮮やかさだけを失っていた。
「もともと、適応がなかったということですか」
「そうだね」
所長は、パソコンに何かを打ち込んだ。
真剣な横顔と、正面で見た時の微笑みで固まったような表情。
——私はこの人をもっと前から知っている。
ふと、そんな風に思った。
喉元までせり上がる記憶にもどかしさを感じる。
「……私達会ったことありますよね」
私のつぶやきに所長は頷いた。
「あるよ。ゆかりちゃんが初めてこの事務所に来た日に言ったじゃない」
そういえば、そうかもしれない。
まだ二月程しか経っていないのに、高校生活が始まった忙しなさのせいか、ここで見たもの、体験したことの濃厚さのせいか遠い昔に思える。
「私が、保護されていたときに、私に話を聞きに来たカウンセラーみたいな人。……一人だけ男性だったから、覚えてます」
「あの日は、仁美ちゃんにお願いされてね。こっそり紛れ込んだんだんだよ、服も新しいの着てたから香は香らなかっただろうね」
所長はパタンとパソコンを閉じた。
立ち上がるとキッチンに行って、冷蔵庫を開ける。
カランカランとグラスを氷が叩く音。
「水分取りながら話そうか。もう暑いしね」
所長は私の傍に氷の入った麦茶をパッチワークのコースターと供に置いた。
「……仁美さんは、私の嘘に気がついていたんですね」
私は罪を告白する罪人のような気持ちだった。
それでも不思議と悲壮感はない。心を開け放つのは気持ちがいい。
「そうだね、何かを隠している。それによってゆかりちゃんが苦しんでいる。……そういう事を僕は聞いたよ」
窓の外は薄い雲に覆われていた。
雲の切れ目からところどころ天使の梯子が降りている。
お香の幻覚といっても分からないほど神秘的で不思議な光景だった。
「そうですか。でも、私これは開けずに取っておこうと思うんです」
私は目を閉じた。黒い空間にぽつんと置かれた白い箱。
「私なりにラベルを貼ってみて、でも、それで良かったのか分からなかったんですけど……。なんていうのかな」
アクリル板越しの、父の顔を思い出す。ただの一度も目が合わなかった。
彼は本当に母以外どうでもいいのだ。
「別に悩むことでもなかったかなって。それより将来の進路とか、毎日の生活のほうが大切なことだなって思って。……私、もうここでバイトできないですか?」
所長は少し考える仕草をしてから、まんまるい目で私をじっと見た。
「うーん。ゆかりちゃんはさ、大学とか行く予定ある?」
唐突な質問だった。
まだ高校が始まったばかりだし、施設から進学するのは中々難しい。
「どうかな。勉強は好きですよ」
「そしたら、僕の研究の助手しなよ。ゆかりちゃんは、人をよく見てるから、僕に無いものを補ってくれそうなんだ」
所長はそれがいい、という言うように何度も頷いた。
そういえば、所長はシルバー人材派遣という、ギリギリ成り立っている生業の傍ら、大学の教授をしている。
「もちろん、僕にできるサポートはするし。金銭面でも何でも」
願ってもない話ではある、けれど、ずっと先のことだ。今返事をしていいものか。
所長の求める学力ってどれくらいだろう。
そこまで考えて、私は、自分がかなり前向きに所長の提案を飲み込もうとしていることに気がついた。
「向いてると思うんだけどな。君ほど人間を深く観察する人を僕は見たことがないもの。……それに、稔との接点も維持できるよ、ゆかりちゃん、あの子のこと好きでしょ」
決定打だった。
「国公立でも、何でも。私頑張ります」
私の言葉に所長はニコリと笑った。
人の良さそうな、でも底の見えない笑みだ。私はじわりと冷や汗をかきながらも、将来に続く道が拓けていくのを感じていた。
ガラガラと建付けの悪い玄関が広く音。
稔くんの足音が聞こえる。




