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16話 くゆる幻覚





「仁美さん、終わったから駐車場で待ってますね」


 私は仁美さんに電話をかけた。

 父との面会は即時打ち切りとなっていた。

 

 父は泣きながら母の名前を呼んでいた。この後、精神鑑定とかに掛けられたりするんだろうか。


 ……それで、刑が軽くなったりしないかな。


 私は、思ったより楽観的に今を生きている。

 悲惨な出来事はすでに過ぎ去った後だった。


「暑かったでしょ、中で待たせてもらったらよかったのに。タクシー呼ぶところがあるくらいだから待たせたてもらえたんじゃない?」


 仁美さんの声は明るい。

 

 カウンセラーをするくらいだから、そこにわざとらしさはないけれど、私の気分を良くしようという意図は感じられた。


「そうですね、待たせてもらえたと思うんですけど……」


 私は車窓から外を見た。殺風景だった刑務所から離れていくほどに、住宅が増え、人々の活気が感じられる。


 人間が生きている。その営みが集まる場所に慰められる、この気持ちはなんて名前が付くんだろう。


「あそこ、辛気臭くって。外の空気吸いたくなったんです」


 仁美さんは、初夏の強い日差しにサングラスをかけた。

 

 とても似合っている。

 車内からは車のボディが見えないのが残念だ。赤い車にサングラスをかけた美女が乗る姿は、さぞ絵になっただろうなと思う。


「分かるわ。私もなんどか付き添いで行ったけれど、空気が重いのよね」


 それから、家に着くまで私たちの間に会話はなかったけれど、気持ちのいい沈黙だなと、私は流れる景色を見つめていた。


「おかえり、ゆかり」


 進路を就職と定めてから、肩の荷が下りた様子の亜紀がいつものように出迎えてくれる。


「ただいま。今日は夕飯作るの手伝うね」


 今日ほど、ここに帰って来れたことを感謝する日はないかもしれない。


 荷物を自室に置いて、手を洗う。

 今日のメニューを聞いて、野菜の皮を剥いた。ゴミをまとめ、お皿を出す。


 生活は心地良い。生きるということは、小さなタスクを絶え間なくこなし続けることである。


「いただきます」


 小さな子たちと食卓を囲む。


 皆可愛い。可愛いくて、こんな所にいるのが可哀想だ。


「ゆかり……。ゆかり、どうしたの。そんな苦しそうな泣き方しないでよ。……ほら、大丈夫。大丈夫だよ」


 亜紀の温かな体温が私を包む。

 小さな手が、私の頬を濡らす涙を拭っていた。


「悲しいの?」


 奈々子がなぜか泣きそうになりながら、私の隣にぺたりとくっついた。

 私の腕に抱きついて、頭を擦り付ける。


「ごめんなさい、ごめんなさい……」


 私はあの日の母のように、無力に謝り続けていた。


☆☆☆

 

 私の企みは、己の安心のために、無責任に父の傷をえぐって幕を閉じた。


 夏の日に、私は祖母の死体と二人きり、息を詰めて、震えながら何時間も膝を抱えていた。


 終わりを知らせに来たのは父ではなかった。


 窓の外が暗くなった頃、玄関の開く音がして複数人の足音がした。


 私は顔を上げなかった。無遠慮に人の家に入ってきた彼らは警官の服を着て、私の前に膝を付いた。


「お父さんが、警察に捕まったんだ。怖かったね。もう大丈夫だよ。一緒においで」


 ——おかしい。そんなはずない。


 警察に捕まるのは母のはずだった。

 父は母と警察に自首をしに行ったのではなかったのか。


 私は母の正当防衛を証言するはずだったのに、今、何を言うべきで、何を言ってはいけないのかが、分からない。


 私は震えて口を閉ざした。

 口がきけなくなったようなふりをして、パトカーに乗り込んだ。


 耳を澄ませていた。

 もう知らずに誰かを傷つけてしまうのは嫌だった。

 

 全部、余すことなく隅の隅まで知った上でしか、話さない。そう思っていたのに。


 警察署に父はいた。私は手錠をかけられた父とすれ違いざまに警察署に入った。


 目が合ったのは一瞬だった。


「ゆかり」


 縋るような声。返事をする余裕はなかった。

 父は別の場所へと連行されていく。


「……搬送先で死亡が確認されました」


 私の傍にいた警察官に、内勤らしい少しラフな格好の職員が耳打ちした。


 警察官は、哀れむような瞳で私を見た。


「おばあちゃんと、お母さんのところに行きたい?」


 私はここで初めて母が殺されていたことを知った。


 なぜだろうと思った。

 父がついていて、母が自殺するはずもない。もし自殺をしたなら、父が捕まる必要もない。


 何か、全てが噛み合わないまま状況は動き続けた。


 病院には行かなかった。

 夜遅く、児童相談所の職員だという人に引き会わせられた。


「お父さんは、普段暴力をふったり、怒鳴ったりはしなかった?」


 職員は見当違いな質問をした。

 私は、黙って下を向いていた。


 なぜ、父が殺したことになっているのか。

 なぜ、母が死んでいるのか。


 箱が一つ。

 ラベルを貼る役割は私がやらなければいけない。

 時間は大して残されていなかった。


「父が、祖母を突き飛ばして、母と二人出ていきました」


 震える声で私は証言した。

 

 父の瞳を思い出して「これで良いんだよね? お母さんの罪を無かったことにしたかったんだよね」と問いかけた。


 私は答え合わせがしたかった。

 父はこれから十年以上檻の中にいることになる。

 

 取り返しのつかない選択を重ねてしまったと思いたくなかった。

 

 甘い香りは幻覚を見せた。


 母は自ら、父の手を自身の首に添えた。

 父の見る世界はキラキラとしていて、幻想的だった。


「お願い……。全部無かったことにしたいの」


 母の瞳は夕日を浴びてなお、真っ黒に染まっていた。

 ボロボロの姿で妙な落ち着きを払っている。


 今、断れば、次の瞬間には父の手を振り払って、車の走る大通りに飛び出していくだろう。


 そんな妙な落ち着きだった。


 父は、じわじわと手に力を込めた。

 母は笑っていた。安心しきったように笑って、声にならない声で「ありがとう」と言った。


 ……映像はそこで途切れている。


 

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