15話 回想
「大丈夫、大丈夫だよ」
母が私の目を気にする余裕もなく、泣き崩れて、喚いて、頭を掻きむしる。
そんなパニックに陥った彼女を抱きしめて、血の滲む指先を包み込むのが父であった。
「ごめんなさい! ごめんなさい! おかあさん!」
パニックを起こした母はよくそう叫んでいた。
昔は不思議だった。
だって「おかあさん」はお母さんのことなのに、自分に向かって自分で謝るなんて変なの、と思ったことを覚えている。
私の人生は早めに熟していた。
ある程度の夢を見て、挫折をして、諦念を覚えて、日々を上手くやり過ごす術を思春期が終わる頃には、既に身に付けていた。
だけど、私はまだ知らなかった。
自分の感情をいくらコントロールできるようになったって、他人の未熟な隙を悪意で突くような、そんな他人がいることを知らなかった。
夏休みが終わったばかりの気怠い夏の日だった。
毎日通りかかる公園に、突如一人の老婆が現れた。
気温は連日、三十五度を超えている。
彼女は手ぶらだった。水筒一つ、日傘の一つすら持たずに公園のベンチから私たちの歩く歩道を見ていた。
「大丈夫ですか?」
そう、声をかけたのは、彼女を見かけてから一週間ほどのことだった。
その日はいつもならピンと伸ばしている背筋が、ぐったりと曲がっていた。
「ああ……。優しい子だね。名前を教えてくれるかい」
老婆は私の目元や鼻、耳を焦点の合わない瞳でじろじろと、不躾に、つぶさに見つめた。
私は彼女の気味の悪さを、体調不良で視点が定まらないのだろうと飲み込んで「宮脇ゆかりです」と名乗った。
老婆の、その時の顔をよく覚えている。
濁った瞳に光が宿り、まるで神様をみたかのように目を細めたのだ。ゆるい微笑みは天に向けられていた。
「本当に救急車呼ばなくて良いんですか?」
中学へスマホを持っていくことを禁じられていた。だから、私は交番へと走るか、通りがかりの人に救急車を頼むつもりだった。
しかし老婆は頑なに首を振る。
「冷たい水を一杯だけ貰えたら、それで十分だよ」
私は「水を飲んでも体調が、戻らなければ家で救急車を呼びますからね」と言い含めて、足元の覚束ない老婆に手を貸して歩き出した。
家はすぐ近く。五分も歩かなかった。
老婆は私が鍵穴に鍵をさして扉を開けようとすると、なぜか落胆した様子で「お家の方は留守なのかい」と尋ねた。
「母はパートでそろそろ帰る頃です。父は遅いんじゃないかな。最近忙しそうだから」
私の答えに老婆は「そうかい」とシワの深い顔で笑みを見せた。
玄関を開けて「居間に上がってください」とスリッパを出した私に老婆は「ここでいい」と土間に座り込んだ。
居間ならば冷房が早く効くのにと思ったが、もう動く気力もないのかもしれないと私はキッチンに冷水を取りに行った。
——何もかもが間違いだった。
でも、私は私が悪くないことをちゃんと分かっている。
玄関の開く音、母がパートから帰ったのだと思った。
知らないお婆さんがいたら驚かせてしまう。
「お母さん、そのお婆さんね——」
私はグラスの中で揺れる水が、縁を越えて溢れだすのも構わずに玄関に走った。
そして、そこで見た光景に言葉を飲み込んだ。
「あ……ああ……。お、おかあ、おかあさん」
母は玄関に背中を預け座り込んでいた。顔からは血の気が引いて真っ白な顔と目玉が落ちそうなほど目を見開いて、立ち上がった老婆を見ていた。
そこからのことは一瞬のうちに起こった。
老婆は何かを聞き取れないほど大声で叫んだ。
母は絶叫し、昔のように「ごめんなさい! ごめんなさい!」と髪を振り乱していた。
母に掴みかかった老婆を、母は狂乱になって突き飛ばした。
母の顔は涙と鼻水でぐちゃぐちゃになっていた。
老婆はぐらりと体勢を崩して、後ろに倒れた。
私は微動だにせず、ただそれを見ていた。
上がり框に老婆の頭がぶつかって、とても大きな音がした。
細い首がおかしな方向に曲がって、身体がぐたりと沈む。
老婆は「がっ」だとか「ぐぇっ」だとか、そんな声を最後に動かなくなった。
——死んだ。
人が死ぬところを私は初めて見た。
ああ、死んじゃった。
それで、これは、そうか。
母が殺したことになる。
「お母さん……」
母は私の声なんて聞こえないようだった。
おかしな呼吸をして、か細い声で何かを呪文のように唱えている。
「お母さん、」
私は母のもとに行けなかった。
死んだ老婆が私と母の間に横たわっていた。
死がこんなに悍ましいなんて知らなかった。
少しも近寄れない。老婆の後頭部に赤い液体が見えた。
私は踵を返して駆け出した。
衝動だった。そこに理性はなかった。
後ろから「ゆかり」と呼ぶか細い声が聞こえた気がしたけれど、私は立ち止まれなかった。
私はキッチンの向こう側に何かから隠れるようにしゃがみ込んだ。
目を離した現実が、目の前から失せてもなお、大きな異物感を主張していた。
その異物はあまりに醜悪で、人間の根源的な恐怖を絶え間なく揺さぶった。
私は居間に置いていたスマホを震える手で手繰り寄せた。
「お、お父さんに……電話……」
私の脳裏には、昔見た光景が浮かんでいた。
泣き叫ぶ母と、それを宥める父。
今必要なのはお父さんだ。
手の震えが酷くて、スマホの操作は思ったように行かなかった。
時計の音と、すすり泣く母の声が、耳に突き刺さるようだった。そして、老婆の死体も眼前になくとも私の頭の中心に居座っている。
「お父さん、お母さんが……大変なの。お婆さんがお母さんに掴みかかって、お母さんがそれを振り払ったら、お婆さんが倒れて……それで……それでね、お婆さんが多分、し、し、死んじゃって」
電話はでなかった。私はピーという音のあとに留守番電話に私が見たものを見たまま話した。
私はこの時の記憶がいつまでも忘れられずにいる。
——私は、お婆さんを私が連れてきたことを、この時言わなかった。
父からの折り返しは程なくしてあった。
私は、同じ話を何度も何度もした。
声は涙で潤み、震えていた。
父は、終始母のことを聞いた。
私は、なんて答えただろう。
酷く心臓が痛かった。
玄関の開く音がして父が帰ってきて、慌てて玄関を閉める音に私は、老婆の死体がまだそこにあることを悟った。
父は母を抱き抱えてソファに座らせると、キッチンの隅に隠れた私の元にやってきた。
大きな腕が身体を包むと、私はようやく身体の力を抜けた。
「……お父さん」
父は眉を下げて、安心させるように笑みを見せた。
「大丈夫、大丈夫だよ。もう少しここに居られるな?」
父は私を見ているようで、ずっと母を見ていた。
いつだってそうだ。父の一番は母だった。
私は頷いた。
父が私を罰しないことに安心していた。
「少し出てくる」
父は震える母に上着を着せて、抱き抱えた。そうして掃き出し窓から外に出た。しばらくしてから、車のエンジン音がして、車の遠ざかる音がした。
私は老婆が、祖母であることを薄々気づき始めていた。
だから、彼女はあの公園で私の名前を聞いて、目を輝かせたのだろう。
私の顔の造形から、母を見出そうと私の顔を見つめ「宮脇ゆかり」の名に天を仰いだ。
私が善意で、招き入れたものは悪魔だった。




