14話 沈む泥舟
事務所でいつものように部屋の掃除をして、所長の散らかしたファイルを片付けていた。
ふと、見上げた時計はすでに夕暮れ時を示している。
「あれ? 今日は稔くん来ないんですか?」
私はパソコンの齧りつく所長に尋ねた。
所長はキリが良かったのか、長い腕を天井に向かって伸ばし、身体をほぐしてから「そういえば」といった調子で頷く。
「テスト期間なんだって。義姉が稔は血眼になって勉強してるって教えてくれたよ」
テスト期間。そういえば、私の学校もそろそろ部活が休みになる。クラスの子たちが勉強はそっちの気で、どこに出かけようかと色めき立っていたことを思い出した。
稔くんが通っているのは、この辺では名のしれた進学校。私達とは見ている世界が違う。
きっと、テスト期間は机に張り付いて勉強に取り組む必要があるんだろう。
私はガリガリとシャープペンシルを走らせる稔を思い浮かべて、少し可哀想だと思う。青春を勉強に費やすとはどんな感じなのだろうか。
「進学校ですもんね。大変そう」
私の返事に、所長は口元に手をやって、何かを考え込んでいた。
二人きりの部屋の中でカチコチ、カチコチと振り子時計の音が響く。
時間にすれば、数秒だったはずなのに、瞬く間に部屋の雰囲気が冷たく、重く変質していくのを感じる。
「ゆかりちゃんは? テスト期間なんてどこもそんなに変わらないでしょ」
所長の声はトライトーンのように歪んで私の耳に届いた。
心臓がだんだんとその速度を上げていく。
つまらない授業でうたた寝をしていて、気がつけば設問を解く時間になっていたのに、私だけが数ページ前の教科書を開いて黒板を見ているような。
「……私は、全然。偏差値低いところ入りましたから、中学の復習みたいなものなので」
声は震えていた。所長の顔は見られない。
皆がペンを走らせる音だけが聞こえて、私は為す術なく何かを書くふりだけを続けている。
そんなイメージが頭の中で止めどなく流れ続けていた。
「偏差値が低いところに入るしかなかったんだよね。件の事件がニュースになって、保護期間が少し延びて。……受験生の秋冬、君は隔離されて、世俗から離されていたわけだもの」
私の顔は今青褪めているだろうと思った。
所長は大柄な身体をゆらりと揺らして立ち上がる。長い足がぐん、ぐん、と私との距離を開いていく。
カラカラと音を立てて、所長がキッチンの窓を開けた。
私の頭は霧が晴れるようだった。緊箍児が緩んでいくような爽快感と、血が巡る忙しなさを感じる。
所長の向こう側に夏の空が広がっていた。
「本当に、よく知ってますね」
私は、水のようなサラサラとした汗を床に落とす。
いつの間にか重力に負けたように這いつくばっていた。
得体のしれない甘い香りが風に流れて去り、生温い風が濡れた肌を冷やしていく。
☆☆☆
週末の天気は雨だった。黒い雲が空を通っている。
家から出て5分もしないうちに靴の中に水が滲んで、足先がひやりとした冷たさに包まれた。
「仁美さん、おはようございます」
仁美さんは、いつもと変わらず綺麗だった。艷やかなチョコレート色の髪を上でまとめて、きりりとした眉をととのえている。
「おはよう、ゆかりちゃん。体調はどう?」
赤い口紅が弧を描く。
私もその顔を真似て、鏡写しのように意識して口角を上げた。
「とくに変わりないですよ。途中本屋だけ寄ってもらっていいですか。差し入れに本を買っていくので」
仁美さんが赤い車の運転席に乗り込む。私は傘をよく振って畳んでから、助手席に乗り込んだ。
車が唸りを上げてエンジンがかかる。
「もちろん。小説?」
運転が始まれば仁美さんは前を向いている。目を見て話さなくていいのは楽だった。
「はい。父はロマンス小説が好きなので」
私は鞄を抱きしめるようにして、車に揺られていた。
鞄の底には、密閉袋の中に厳重に封じ込めた「お香の手拭い」が眠っている。
☆☆☆
そこは、どこまでも殺風景な場所だった。
白い壁に、黒い鉄門。古びた役所のようでありながら、案内ポスターの一枚すら貼られていない。
意図して灰色の光景を作り上げたかのような無機質な建物。
「待合まで付いていきましょうか?」
仁美さんの目を見て、朝に浮かべた笑顔をトレースするように、笑みを貼り付けた。
「いいえ、一人で大丈夫です」
「分かった。近くのカフェにいるから終わったら連絡して」
深入りされないことに胸をなで下ろしながら、本屋で買った本と、鞄を抱えてガラスドアをくぐった。
室内はエアコンが効いている。
建物内は清潔だけど、至る所に傷や劣化が見える。
硬いフォントで案内が貼られていた、私は案内そって歩く。
リノリウムの床が軋んだ音を立てる。『面会の方はこちら』と書かれた長机には面会申込書があった。
私は紙とボールペンを手に取って慎重に必要事項を記入していく。ボールペンはところどころ掠れ、出来栄えはあまり綺麗とは言えない書類を戸籍謄本とともに受付に渡す。
「アナウンスで呼ばれるまであちらでお待ちください」
受付は淡々としていた。
一度も私と目を合わせず、粛々と書類を点検していく。
「差し入れはどこに」
職員は私の顔ではなく、手に持っていた文庫本へと視線を落とした。
「あちらです。……物品見舞いのルールはご覧になりましたか?」
職員の指し示す方を見れば、その周囲に細々としたルールが掲示されている。
「確認します、ありがとうございます」
再び視線を下げた職員にお礼を言って、本を預ける。
その先にはパイプ椅子が並んでいた。
アナウンスを待つ面会者たちがぽつり、ぽつりと座っている。
重苦しい雰囲気と、ただ整然と並ぶ蛍光灯が、この空間の空気を薄くしているような気がする。
私は何気なく壁に目を走らせてから、ずっと感じていた違和感に気がつく。
窓がほとんど見当たらない。
あっても鉄格子や、強化ガラスのような光が入りにくい頑強なものばかりだった。
昼間なのに地下にいるように薄暗く、誰も彼も不幸そうな顔をしている。
アナウンスに顔を上げる。
重い鉄扉をくぐり、案内の職員の背中を追って薄暗い廊下を歩いた。
「こちらです。今より15分となります」
面会室の手前で職員が口を開いた。扉の向こうは小さな個室になっており、分厚いアクリル板で仕切られている。
私はパイプ椅子に腰を下ろして、鞄から手拭いを取り出した。
隣りにいた記録係はふわりと香る甘い香りに顔を顰めたが、私は素知らぬ顔で手拭いを胸元で握りしめた。
まるで、それが震える心を支える唯一のよすがであるかのように演じながら。
「お父さん」
アクリル板の向こうには顔色をなくし、痩せこけた男が俯いている。
私は自分の父親が目の前の男の人であることに未だ確信が持てないでいた。
父とはどんな会話をしていただろう。
家族と離れてから、記憶は穴だらけで、家族の顔は皆黒塗りになっている。
「痩せたね、しっかりご飯食べなきゃだめだよ」
父はこちらを見ない。貝のように口を閉ざしたままだ。私は監視員の視線を感じながら、罪を犯した父親を案じる健気な娘を演じ続けた。
「本買ってきたの。『冷静と情熱のあいだ』好きだったでしょ」
母と父の出会いの本。ひとつの恋愛模様を、男と女、ふたつの違う視点から描いた物語。
私は綺麗すぎると思ったけれど、二人は「いつか年を取ったら本の舞台であるミラノへ旅行しよう」とよく話していた。
甘い香りが立ち込めている。
アクリル板の小さな穴から少しでも向こうへ流れていけばいい。私は祈るように項垂れて、手拭いをアクリル板に近づけた。
時間だけが過ぎていく。
「お金も少し置いていくね、余計なお世話かもしれないけど」
15分はあまりにも短い。アクリル板に空いた小さな穴では香りは流れなかったのか、父にお香の香りが適応しなかったのか。
稔くんの言葉を思い出す。「共感性と、空想に浸る精神的な傾向」と言っていた。父や母は私よりもずっとそういう傾向にあると思えた。
——だから、きっとこんなことになったのだ。
この場所では言葉で確かめられない事を私は知らないといけない。
目をきつく閉じる。真っ暗な空間に白い箱。
二人の死体と一人の殺人犯。
私の貼ったラベルが正しいものだったと知りたいだけなのに。
不意にガタンと、大きな音がした。アクリル板の向こう父が目を見開いて椅子を揺らした音だった。
「……お父さん?」
父の後ろに控えていた監視員が険しい顔で父の肩に手を置いて「静かにしろ」と囁いている。
「ひっ……。な、なんだ、これ……」
父は喉をヒューヒューと鳴らし、ガタガタと全身を激しく震わせ始めた。血の走った両目が、何もない空域を恐怖に満ちて見つめている。
私は立ち上がって、父を凝視した。
本当は触れたかった。彼の見ているものを一つ余さず私もこの目で見なければいけないから。
「うわあああッ……!!!」
父が狂気じみた悲鳴を上げた瞬間——
チカッ、と私の視界の裏側で青白い火花がスパークした。
母の涙に濡れた笑み、力なく崩れる身体。
過去の記憶の破片が、父の悲鳴と同調するようにして、アクリル板を越え、私の脳へと映し出される。




