13話 箱の中の猫
家に帰ると、亜紀がエプロン姿でキッチンに立っていた。すでに料理はテーブルに並んでいる。
小さな子どもたちが、まるで「待て」を命じられた犬のように定位置につき、湯気を立てる皿をじっと見つめていた。
いつもより早めの夕食。
けれど、そこに私の席の食器だけは並べられていなかった。
「おかえり。仁美さんが来てるよ。ゆかりに用があるみたい」
ぽっかりと空いた空席を見つめる私に、亜紀が訳知り顔を言う。
もしかしたら、という予感が的中する。
宍倉仁美は、いくつかの児童養護施設を巡回しているカウンセラーだ。
しかし、こんな時間にあえて足を運んできたということは、公的な面談ではなく個人的な話があるのだろう。
私はキッチンから密閉性の高いジッパー付きの袋を取り出し、香を焚き染めた端切れの手拭いをその中に仕舞い込んだ。
これを使いたいのは今じゃない。香りもしっかり取っておかないといけないから。
「なんだろうね。面談の時期にはまだ早いけど。……荷物を置いたらすぐ行くね。客間にいるの?」
「うん、お仕事しながら待ってるって」
私たちの家には、面談用の小さな客間がある。
普段はランドリールームとして使われているその場所に、仁美さんはいるらしい。
「悪いけど、小さい子たちがお腹を空かせちゃってるから、先にご飯にしちゃうね」
「気にしないで。夕飯、任せきりでごめんね」
亜紀に変わらぬ私のまま笑いかけ、表情が歪む前に背を向ける。
ようやくだ。
今夜もたらされるのは、きっと私にとって「いい知らせ」だろうと確信していた。
焦る気持ちを胸の奥へ押しつけ、何度も深呼吸を繰り返す。
心理カウンセラーを相手にするのだ。ほんの少しの心の揺らぎさえ悟られないよう、私は自分の中に厚く、強固な壁を築き上げる必要があった。
「仁美さん、こんばんは」
仁美さんは客間の小さな折り畳みテーブルで、タブレットを開いていた。
染みひとつない白い肌に、いつも艶やかに染め上げられたアンティークブラウンの髪。
柔らかい目元、洗練された所作、言葉遣いに至るまで、そのすべてに品がある。
うっとりするほど素敵な、大人の女性。この施設にいる女の子たちの、誰もが憧れる存在。
「ゆかりちゃん、ごめんね、夕飯時に。……少し出かけましょうか。内緒で美味しいものでも食べに行きましょう」
タブレットを革製のビジネスバッグに収めながら、仁美さんが微笑む。
目尻が下がり、口角が上がる。完全に左右対称のその笑顔からは、偽物臭さを微塵も感じられない。
「良いんですか」
「特別ね。二人きりでしたい話だから」
夕食の気配で賑やかな居間をこっそりと抜け出し、勝手口から外へ出た。
外食なんて、本来なら特例中の特例だ。きっと、ルールとしては破っているのだろうと思う。
養護施設の子どもたちを育てる上で最も大切なのは、「平等」だ。与えられる愛情も、支給される物品も、決して誰か一人に偏ってはならない。
すでに胸の内から最も大切な核を毟り取られた彼らには、これ以上、誰かの特別を羨んで傷つく余地など残されていないのだから。
仁美さんの車は施設に置いたまま、私たちは賑わい始めた駅前の飲み屋街を歩いて通り抜けた。
暖簾をくぐったのは、落ち着いた佇まいの割烹料理屋だった。
「父のことですか?」
座敷席に腰を下ろすなり、私はすぐさま口火を切った。
今日、仁美さんが何を告げに現れたのか。私にはもう、予測がついていた。
「ええ。面会ができるようになったの。刑務官の立ち会いはもちろんあるけれど……会いたい?」
「会いたいです。もう、一年近く経ちますから」
父が勾留され、裁判を経て刑務所に収監されるまで、私はただの一度も父と会うことを許されなかった。
中学三年生の夏にあの事件があり、世間からの保護期間を経て、私はすでに高校一年生の初夏を迎えている。
「そうよね。……どう? 最近はちゃんと眠れてる?」
仁美さんは表情を一切崩すことなく、施設の子どもたち全員に向けるいつもの決まり文句を口にした。
心理カウンセラーという人種は、どうしてこうも睡眠の質を気にするのだろう。
「はい。夢も見ずに、ぐっすり眠っています」
それは本当のことだった。
慣れない高校生活に加え、家へ帰れば幅広い年齢の女の子たちと、数人の職員との共同生活が待っている。
夢を見る隙間もないほど、日々は目まぐるしく流れ去っていく。
「良いことね。アルバイトはどう? 奥秀作のところは楽しい?」
こちらをにこにこと見つめてくる視線が、実は昔から苦手だった。
私の被害妄想なのかもしれない。
けれど、美しい姿で獲物を誘惑し、じわじわと蜘蛛の巣に絡め取ろうとする捕食者のように見えてしまうのだ。
——これは、罠だ。そう本能が告げている。
「……楽しいです。私の知らない世界が開けていくようで。所長とは、お知り合いなんですね」
動揺を見透かされないよう、あえてゆっくりと瞬きをした。
心理学なんて知らないけれど、彼らがちょっとした呼吸の間や、瞬きの回数、唇を舐める仕草、指先のわずかな動きで人間の内面を値踏みすることくらいは知っていた。
「ええ、大学の同期なの。人の心について、一緒に研究していた時期もあってね」
仁美さんは冷水を口に含んだ。
グラスの中で、氷が小気味いい音を立てて爆ぜる。
注文した料理が次々と運ばれてきて、私はその一つひとつに舌鼓を打つ振りを演じた。本当は、
味なんてまるで分からなかった。
ただ、刑務所にいる父のことに思いを馳せる。
お父さんは今、お腹いっぱいご飯を食べられているのだろうか。
「今夜のことは、みんなには内緒ね。面会は今週末。私が車で送迎と付き添いをするから」
「ありがとうございます、仁美さん」
子どもたちがすっかり布団に入った頃、私は家に帰ってきた。仁美さんは私を見届けると、確認の言葉を添えて車に乗り込む。
端正な彼女によく似合う、輝くような赤いボディ。
真っ黒な闇をヘッドライトが切り裂き、砂利道を踏み荒らすタイヤが獰猛な音を立てて去っていった。
私は、おかしなリズムを刻み始めた心臓を、服の上からそっとなだめるように撫でた。
——ようやく、お父さんに会える。
その夜、私は夢を見た。
暗黒の空間に、ぼんやりと光る箱がひとつ、ぽつんと置かれている。
この中に入っているのは、二人の亡骸と、一人の殺人犯。
箱の中身が何であるかは分かっている。けれど、彼らが何を思い、どうしてこんな結末を選んでしまったのか、その真意はすべて闇に包まれていた。
これはまるで水平思考クイズのようだけれど、私の質問に答えてくれる出題者はどこにもいない。
私の手には、一枚のラベルがある。
この箱には、私の好きに名前をつけていい。
——いや、名前をつけなければならないのだ。
たとえ真実がどうあろうとも。あの夜、私が手に入れたすべての欠片をかき集めて、箱の中の誰もが一番幸せになれるラベルを、私は選ばなければならない。




