12話 思惑
今日の仕事は、飼い犬のお世話を代行してほしいというものだった。
所長はなにやら忙しくパソコンとにらめっこしたまま、依頼主のお家の地図と、依頼内容をわざわざチェックリストにした紙を稔くんに渡した。
依頼主のお家はすぐ近く。
歩いていける距離にある。
「ね、どうしたの? 調子悪い?」
「別に悪くない」
稔くんはいつにも増して、ムスッとしていた。
所長と話す時は普通だったのに、私と二人になるとあからさまにこちらを見ない。
「いつもならもう少し返事くれるのに」
「……別に」
道中が短くて良かった。私は稔くんの機嫌を取ることをやめて、黙って歩いた。
クラスでの一悶着も、それを掘り返した榎並くんのこともあって疲れていたし、黙っていたら、それはそれで居心地が悪くない。
稔くんと一緒にいることに慣れたからかもしれない。
依頼主の安田おじいちゃんは、しゃっきりした人だけれど、すごく耳が遠い。私たちは庭から顔を出して挨拶した。
掃き出し窓の前で、近所中に聞こえるくらい大声で自己紹介していると、カーテンの隙間からぬっと顔を出したのはフレンチブルドッグのゴンタロだった。
ゴンタロも高齢らしい。たるんたるんの顔を撫でるのが、癖になる。
「ゴンタロ、お散歩行こ。稔くんはご飯のストック作っておいてね」
私はゴンタロと遊びたかったから散歩係を買って出た。
稔くんは私の考えを見透かしたように、ため息交じりに頷いた。
「安田さん、ゴンタロくん、お散歩行ってきますね」
安田のおじいちゃんが、シワシワの手でゴンタロの頭を撫でる。ゴンタロは白内障で白く濁った目で、一生懸命安田のおじいちゃんを見上げていた。
安田のおじいちゃんの腰には真っ白で分厚いコルセットが巻かれている。腰の手術をしたから、今は安静にしないといけないらしい。
明日からは息子が来てくれる。でも、今日は散歩に行ける人がいないからと、依頼をしてくれたようだった。
「ゴンタロ、歩くの遅いね」
河川敷を歩く。いつもの散歩コースだと安田のおじいちゃんから教えてもらっていた。
ゴンタロの歩みはゆっくりだ。草の匂いを嗅いで立ち止まることも多い。
目の見えないゴンタロは耳に頼っているのか、耳がパタンパタンと動いている。
「ゴンタロはさ、目があんまり見えないんだよね。……でも、いっそ見えなければいいことって沢山あるし、ちょっと羨ましいなぁ」
犬って不思議だ。人間相手には絶対言えないことも、ゴンタロには言える。
時折私を振り返るゴンタロは不思議そうな顔をしていた。いつもとリードを持つ人が違うからだろうか。
安田のおじいちゃんはこの道をどんな風に歩くのかなと、夕陽の中を歩きながら想像していた。
安田のおじいちゃんの家に戻ると、稔くんがいつものカメラ鞄をごそごそと探っていた。
ふわりと漂う甘い香り。
「ただいま。……それ、事務所のお香?」
背後から話しかけると、稔くんは大げさなほど大きく肩を揺らした。
ゆっくりと振り返るさまは、悪戯がばれた小さい子どものようだった。
「これは、その、所長に頼まれてるから」
くゆる煙。甘い匂い。私は不思議とリラックスしていく。
「幻覚が見える危ないお香なのに。……そういえば井出のおばあちゃんの家でも変な白昼夢見たし。いつもやってるの?」
手つかずの汚れから這い出す虫、玄関に並んだ紳士靴。
あの時、私の知りようもない記憶が白昼夢に浮かび上がってきたことを思い出す。
「しょうがないだろ。大抵は何の効果もないし、所長には借りがある」
ゴンタロの持ち帰った葉っぱや小石が玄関の隅に散らばっている。
私たちはそれを避けるように並んで腰を下ろした。
「借り、ね」
「言わないからな。そもそも俺たちの給料だって所長の精神分析が評価されてるから貰えているのであって、お前だって同罪だし」
水を飲んだゴンタロが、口の周りをビショビショに濡らしてやってくる。顔を包むように撫でると、生き物の生温かい湿り気が感じられた。
なにか拭くもの、と周りを見渡すと、鞄の中に端切れの手拭いが何枚かあるのを見つける。
「……これは何? ゴンタロの口拭いても平気?」
稔くんは私の濡れた手を見て、ポケットからハンカチを取り出した。
「駄目。これは、お香の匂いを焚きしめた布。所長の半纏みたいなやつ」
稔くんのハンカチはしっかりしたタオル生地のものだった。くしゃくしゃにもなっていないし、柔軟剤の香りがする。
私は軽く手を拭いて、少し迷ってから、ハンカチをそのまま返した。
「所長は、髪とか、服にお香の香りがついてるよね。……ハンカチありがと」
稔くんは怒ることもなく頷いて、ハンカチを再びポケットに仕舞う。
汚したんだから「洗って返せよ」くらいは言いそうなのに、変なところ懐が広い。
井出のおばあちゃんの家のお風呂場で、所長の車で、抱きついてきた時のことを聞いてみたくなったけれど、ぐっと堪える。
せっかく機嫌が直ったのに、また臍を曲げたら話してくれなくなりそうだ。
「所長は、幻覚を見たいあまり煙を絶やさないらしいから」
超長身の所長がいつも甘い匂いをさせている理由に、思わず笑う。
お香の幻覚を見るために必要なのは——
「共感性と、ロマンチック?」
「共感性と、空想に浸る精神的な傾向。ロマンチシズム」
難しい言葉を当たり前のように操る稔くんの横顔はいつもより賢そうにみえる。
鼻で草の根を掻き分けるゴンタロみたいに真剣だ。
「夢見がちってことね、見れる人は少ないの?」
「夢見がちじゃない、現実逃避のために認知を歪ませる思考回路がある人が見やすい。……自分に嘘をつこうとする人だとか。でも、精神状態による」
稔くんも嘘をついているのだろうか? 素直で他人や自分を偽るようには見えないのに。
「嘘をつく、ね。井出のおばあちゃんがおじいちゃんが生きてるって信じるみたいに?」
おばあちゃんの旦那さんが、夏の日差しに照らされてゴーヤの葉に影を映していた。
あの情景はキラキラと、思い出らしく美化されていたような気がする。
「……どこまで見た?」
煙を見つめていた稔くんの瞳が、不意に私を見た。小さく息を呑む。私は平然を装った。
「おじいちゃんが、靴を履いて行ってきますって、あとゴーヤ成ってるよって言ってたよ。……あとは、なんか部屋の影がざわざわした。影の中から虫が湧くような、」
うん、うん、と聞いていた稔くんが、おもむろに鞄を漁ってノートを取り出す。取材をする記者のようにペンを構えると、「ちょっと、待って。もう一回」と私に向き直った。
「……なんでメモするの?」
私は興醒めしたような気分だった。
「所長に頼まれてるから。お前が何を見たか、俺が何を見たか。どこまで共有されたか。そういうの研究に使うらしい」
「今さら?」
それなら、その時に聞いたほうが記憶も鮮明でしっかり話せた。
時間が経てば、白昼夢のような記憶は水を掴むように不確かなものになっていっている。
「初めの頃は仲良くなかったし、話しにくかったし」
稔くんは少し頬を染めて下を向く。斜め上から見る彼の顔はいつもより余計に幼く映った。
意地悪心が湧く。お香が彼に悪夢を見せるのなら、今の私の頭には悪魔のような角が生えて、黒ぐろとした尻尾が揺れているに違いない。
「ツンツンしてたのは、最初から稔くんだけだよ。……じゃあ、今はもう話しやすいってこと?」
「少しは」
私の問いに稔くんは、目を逸らしたまま短く答えた。
お香が悪夢を見せるから。私の能天気さがそれを緩和するから。
彼は合理で傍にいるのかもしれないけれど、そっぽを向きながらも離れていかないその姿が可愛らしいと思う。
「なんか嬉しいね、稔くんって猫ちゃんみたい」
「うるさい、猫じゃない」
煙が途切れた。
稔くんは立ち上がって窓を開けた。甘い香りは風に乗って逃げていく。
私は稔くんの目を盗んで、お香の焚き染められた端切れの手拭いをひとつ自分のポケットに盗み入れた。
☆☆☆
依頼を終え帰る道すがら、前触れなく「あの『きよはる』って奴と付き合ってんの?」と稔くんが言った。
「きよはる?……だれ?」
「今日事務所の前で話してただろ。自転車押してた男の方!」
私はすぐに榎並清春のことだと分からなかった。
学校での騒ぎも、その後のことも、稔くんとゴンタロに癒されてすっかり忘れていたからだ。
「ああ、榎並くんね。全然そんなんじゃないよ。同じクラスの子なの……なんで?」
「所長に頼まれてるだけ! お前がピンクの象なんか見るから、す、好きな人でもいるんじゃないかって」
先を歩く稔くんの耳が赤い。
私について根掘り葉掘り聞くようにと頼んだ所長が、今頃一人ニヤついているような気がする。
「別にいないけどなぁ。しいて言うならちょっと前に『ピンクの象を思い浮かべないで』って話が流行ったの、知ってる?」
養護施設の子どもたち、とりわけ奈々子が学校で流行ったのを気に入って、私に何度も仕掛けた問いだった。
「……知ってる。アイロニック・プロセス理論の実験だろ」
「なにそれ?」
大学教授の叔父を持つ稔くんは頭の構造も似ているのだろうか。小難しい名称ばかりを持ってくる。
「人間の脳は『〜しないで』っていう否定形を処理しにくいって話」
「そうなんだ。稔くんって頭いいね」
しかし、噛み砕いて教えるのが上手いのは、所長にはなくて稔くんだけの特技だなと私は思った。
褒められた稔くんが、笑みを堪えるように口元をまごつかせている。
私はポケットの中の手拭いに触れながら、彼がたまらなく可愛いと思った。




