番外 夏の夜長に
時計の針が、とうに天辺を越えた時間。
安アパート特有の軽薄なドアベルが、静まり返った室内で鳴り響いた。
……ようやくベッドに入ったところだったのに。
私は小さくため息をつき、重い体を起こしてドアスコープを覗き込んだ。
案の定、扉の向こうには顔を真っ赤にした稔くんが突っ立っていた。
「……いま何時だと思ってるの?」
開口一番、苛立ちをぶつけると、稔くんは何を言われているのか分かっていない顔で、へらりと笑った。
普段はムスッとしている稔くんの笑顔は確かに可愛いけれど、泥酔している時のそれはちっとも可愛いと思えないから不思議だ。
「わかんない……。ゆかり、いれて……お願い」
ろれつの回らない声で、稔くんは私の肩にすがりついてきた。
ひょろりと大きな身体が、容赦なく私に覆いかぶさってくる。重い。
私は諦めて、彼を狭い玄関から部屋の中へと引っ張り込んだ。
「ベッドには上がらないでね」
我が家の絶対ルール。シャワーを浴びていない人間はベッド禁止である。
稔くんは心得たように、床に敷いた厚手のラグの上にそのまま倒れ込んだ。
うちにソファなんて洒落たものはない。
大人しくラグの上に転がった稔くんは、たった六畳しかない私の部屋でやたらと面積を取っていた。
「うん……うん……」
私の小言をまるで聞いていないくせに、律儀に相槌だけは打っている。お酒というのは、ここまで人間を骨抜きにするものらしい。
最初はこんな姿も新鮮で少し面白かったけれど、流石に何度も繰り返されるとちっとも笑えない。
そもそも、稔くんがこんなにお酒を飲むようになったのは、大学のある「悪い先輩たち」のせいだった。
稔くんは無駄に背が高く、顔立ちが幼い。要するに、めちゃくちゃ女の子ウケが良いのだ。
「稔がいると女の子に声をかけやすい」「飲んでるだけで向こうから女子が寄ってくる」
なんて理由で頻繁に呼び出され、付き合い程度で帰ろうとする彼を引き止めるために、毎度潰れるまで飲ませているのだと、稔くんの友人から聞いていた。
「ねえ、先輩たちってさ……あーもう! 寝る前にちゃんとお水飲んで!」
もっとはっきり断ればいいのに。
すやすやと寝息を立て始めた彼の頬を軽く叩き、氷の入ったグラスを差し出した。
けれど稔くんはグラスを受け取ろうとせず、ぼんやりと潤んだ瞳で私をじっと見つめて、「のませて」と強請ってきた。
赤らんだ頬に、乱れた黒髪。
「嫌に決まってるでしょ。どこで覚えてくるの、そういうの」
可愛いけれど、調子に乗らせてはいけない。
私は無理やりグラスを握らせ、零さないように隣に座ってそっと手を添えてあげた。
稔くんはごくごくと音を立て、喉仏を大きく動かして一気に水を飲み干した。
そうして近くのサイドテーブルにグラスを置くと、そのまま隣に座る私の手をぎゅっと握りしめてくる。
「ゆかり、手繋いでて……。怖い夢、見ないように」
ずるずるとラグの上に横たわり、宝物を抱きしめるみたいに私の手を両手で抱え込んだ。
すぐに規則正しい寝息を立て始めた彼の頭を、私は反対の手で撫でてやる。
見た目はすっかり大人になったのに、相変わらずお香の匂いで白昼夢を見るし、素直じゃないくせに変なところでガードが緩いのだ、彼は。
☆☆☆
稔くんに大きめのタオルケットを掛けてあげて、私自身はベッドに潜り込んだ。
翌朝、稔くんのスマホの激しい振動で目を覚ます。
横たわっている彼に画面を見せると、寝ぼけた手つきでロックを解除された。電話に出られる状態にしてから、彼は再び深い眠りへと落ちていく。
「……本当に危機感がないんだから」
ディスプレイに表示された相手の名前を見て、代わりに出るか、と液晶をスライドする。
「もしもし、稔くんのお母さん。すみません、ゆかりです」
『やっぱり、ゆかりちゃんのところにいたのね! 昨日帰ってきた形跡がないから心配してたのよ』
稔くんは実家から大学へ通っている。本人は一人暮らしをしたがっていたけれど、お母さんが一人になってしまうことと、実家から通う方が経済的だという理由からだ。
息子がどんなに大きくなろうと、母親の心配は尽きないらしい。こういう電話も、もう何度目かだった。
「大丈夫ですよ、ちゃんと預かってます。……深夜になって電車がなくなっちゃったみたいで」
『ごめんねぇ、毎度ご迷惑かけて。稔も一人暮らしさせたら、ゆかりちゃんみたいにしっかりするかしら』
電話の向こうで、お母さんが頬杖をついてため息をつく姿が目に浮かぶ。
「ふふ……それはどうでしょうねぇ」
仰向けで寝ている稔くんの丸い頬を指で突きつつ、私は風を通すためにベランダへ出た。
爽やかな朝風が吹き抜ける。夏の盛りが、もうすぐそこまで迫っていた。
『私もいけないのよね。……稔がまだ小学生の頃、離婚したあとに少し心を病んでしまった時期があってね。だからあの子、私を一人にするのが不安なのかもしれないわ』
お母さんは、時折この話をする。
奥教授からも、少しだけ聞いたことがあった。奥教授のお兄さんが、稔くんのお父さんにあたるらしい。
稔くんとお父さんの関係はどこかぎこちなく、傍から見ている奥教授はそれを面白がっていたけれど。
「そうでしたか……」
デリケートな話題だ。どう返すべきか迷い、私は差し障りのない相槌を打った。
『あ! もう今はすっかり何ともないのよ? あの頃は近くに気の知れた親戚もいなくて、一人で子育てするのが不安でねぇ』
繊細そうなお母さんだ。
一人で子どもを育てなければという責任感に押し潰されそうになっていたのだろう。
そして、そんなお母さんの傍らで、小さな手でお母さんの背中を撫でていた幼い稔くんの姿が思い浮かんだ。
「稔くんって、すごく優しい人だから。……こんな言い方は変かもしれないですけど、ワンちゃんみたいなところがあって。悲しんでいる人の隣に寄り添って、一緒に悲しんでくれるところがありますよね」
私は、稔くんの幼い頃の話を聞くのが好きだった。
今みたいに捻くれていなくて、天使みたいに底抜けに優しい。想像しただけで可愛らしかった。
『うん、うん……すごく分かるわ。私、ずいぶん幼い稔に救われたもの』
「そういう、自分を顧みない無防備な優しさが、私……結構好きなので」
口にしてから、ハッと息を呑んだ。
——猛烈に顔が熱くなる。
これでは、まるでただの惚気ではないか。恋人の母親相手に何を出しゃばって言っているのだ、私は。
『あら……朝から素敵な話を聞いちゃったわ。ありがとう、ゆかりちゃん』
「いえ! あの、稔くん、起きたらすぐ帰らせますね! ……あと、お酒を飲ませるお友達のことも、ちょっと私の方で探ってみますから!」
早口でまくし立て、逃げるように電話を切った。
熱を持った頬を手で扇ぎながら部屋へ戻ると、カーテンの陰で稔くんが正座していた。
「……ごめん。深夜に押し掛けて」
すっかり目が覚めたらしく、小さくなって反省している。
しおらしく首をすくめる姿が、なんだか無性におかしい。笑いそうになるのを必死で耐え、私は思いきり低い声を出した。
「私に謝る前に、お母さんに連絡して。すごく心配してたよ」
「……はい、すみません」
☆☆☆
「奥教授。香を焚き染めた手ぬぐいを、ひとつ貸してくれませんか?」
すっかり通い慣れた研究室の片隅で、書類の山に埋もれている所長——もとい奥教授に、私は交渉を持ちかけた。
「ん? なにに使うの? ゆかりちゃんにとっては、もうただの甘い香りでしかないと思うけど」
奥教授は「最近、ついに老眼がねぇ……」とベビーフェイスに似合わない愚痴をこぼしながら、丸と三角が合体したような変なデザインの老眼鏡をかけていた。
その眼鏡のインパクトに意識を引っ張られそうになりながら、私はあえて教授が好きそうな言葉を選んだ。
「うーん……ちょっとした『実験』というか」
実験。検証。観察。
この単語を散りばめておけば、この人は大抵のものを差し出してくれる。
「……稔かな? 研究協力なら大歓迎だよ。ただし、現場をカメラで撮影することと、どんな夢を見たか聞き取ることが条件ね」
「はーい」
何もかもお見通しといった底知れない瞳で、奥教授がニヤリと笑った。
無事に取引成立だ。
☆☆☆
「……稔の彼女さん?」
『生ビール250円! せんべろセットあります!』と派手な赤提灯が揺れる激安酒場。その暖簾をくぐった私を、学生たちが驚いた顔で見上げた。
「はい、すみません突然お邪魔して。向かいのカフェバーで友達と飲んでいたら、稔くんが見えたので」
あらかじめ作っておいた筋書き通り、道路の向かいにあるビルの二階を指さす。
テーブルを囲んでいたのは男ばかりだったけれど、店内のあちこちには若い女の子のグループも多い。
なるほど、稔くんをダシに声をかけようという腹積もりだったのだろう。
「全然いいよ! 一杯飲んでいきなよ。そのまま稔を回収していってくれたら助かるし!」
騒がしい店内で、仕切り役と思われる一つ上の先輩が顔を寄せてきた。
先輩が指さす先では、稔くんがテーブルに突っ伏してダウンしていた。彼の周りには空になったショットグラスがいくつも転がっている。
「ありがとうございます。……あ、すみません、レモンサワーひとつください」
急性アルコール中毒でも狙っているのかと言いたくなるような酷い飲ませ方に、喉の奥でカッと血が上るのを感じる。
私は冷静を装い、稔くんの隣に腰を下ろした。
そして、香りを深く染み込ませた手ぬぐいを手元に用意し、スマホのカメラを胸ポケットから少しだけ覗かせておく。
「うう……う……」
隣の稔くんが、すぐにうなされ始めた。
相変わらずあの香りで悪夢を見るらしい。
私はテーブルの上に投げ出された彼の大きな手を、そっと握りしめた。
「……ゆかり? なんで、ここに……」
混乱しながらも、悪夢から逃れるように、稔くんは私にぴったりと身を寄せてくる。
「お前、彼女の前だとそんな感じなの? べったりじゃん」
私の体温にすがるような彼の態度を、隣の先輩が面白がって茶化してきた。
答える余裕のない稔くんに代わり、私は肯定も否定もせず、ただ意味深に微笑んでおいた。
……まあいい。稔くんも少しは恥ずかしい思いをすればいいのだ。私の知らないところで女の子たちに鼻の下を伸ばしていたかもしれないのだから。
「でもまあ、気持ちは分かるわ。彼女さん、なんか……すごく良い匂いするもんな」
先輩の目が、トロリと眠たげに揺らぎ始めた。
私はそっと、手ぬぐいを彼の顔の近くへと寄せる。
「ふふ、これでしょうか。この香り、すごくリラックス効果があるんですよ」
お酒が回っている脳は、白昼夢の催眠に簡単にかかる。
……さて、この人は一体どんな夢を見るのだろう。
「なんか……頭がジンと痺れて……」
「良い香りでしょう?」
私は少しだけ羨ましかった。 あのお香が見せる世界は、残酷なのに、美しいから。
「やば……おれ、飲み過ぎたかも……っ」
先輩の顔から、急速に血の気が引いていく。
紙のように真っ白な顔になり、口元を押さえてガタガタと震え出した。
——相当な悪夢を見ているらしい。
「大丈夫ですか? 具合、悪いですか?」
私は素知らぬ顔で、心配するフリをして先輩の顔を覗き込んだ。
彼は何か恐ろしいものから必死に目を逸らすように、視線を泳がせている。
反対側にいる稔くんが、私の腕を痛いほど強くしがみついてきた。
共感覚の強い稔くんのことだ。もしかすると先輩と同じ『何か』が伝播して見えているのかもしれない。
あとでじっくり問い詰めてみようと、頭の中のタスクリストにメモを貼り付けた。奥教授に報告すれば、きっと目を輝かせて喜ぶはずだ。
「や、ううん……平気だけど……っ。か、帰る。ごめん、今日おれ帰るわ!」
先輩は青ざめた顔で立ち上がり、数人に声をかけるとお金を押し付けるように手渡した。
「え、いきなりどうしたんだよ? ってか顔色ヤバすぎだろ。……もう今日は解散にするか」
あまりの変貌ぶりに、周りの友人たちもギョッとして腰を上げた。
幹事の「解散」の掛け声とともに、ゾロゾロと店外へ人が出ていく。
私は、まるで目に見えない何かに怯えるように周囲をキョロキョロと見回す先輩の背中に近づき、そっと耳元で囁いた。
「——お酒の飲み過ぎは、駄目ですよ? うちの稔くんのこと、あんまり連れ回さないでくださいね」




