第三章「猫田にゃこら、現る」
第三章です。
白雪しおりの配信が少しずつ広がり始めます。
そして、その配信を見ていた一人のリスナー。
数字ばかり追いかけていた彼女が、初めて素直な言葉をコメントします。
静かな変化のお話です。
白雪しおりの初配信から数日が経った。
俺の生活は、あの日から少しだけ変わった。
授業を受ける。
レポートを書く。
家に帰る。
そして、夜になると大学へ戻る。
母には、レポートを書くのにしばらくの間は忙しいと言ってある。
嘘ではない。
実際、配信が終わった後はゼミ室でレポートを書いている。
資料も豊富で一石二鳥ではある。
ただ、目的の順番が少し変わっただけだ。
◇
「あ、智也」
統計学の講義が終わったとき、後ろから話しかけられる。
「おはよ」
西園寺陽子だった。
片手にはスマホ。
もう片方にはいつもの大きなバッグを抱えている。
「あぁ、陽子か、おはよう」
「ねぇ、智也、見た?」
そう言って俺の隣の席に座ると、スマホを片手にこっちを見る。
「何を?」
「登録者」
「いや、見てない」
正直、見る習慣がなかった。
白雪しおりのアカウントは陽子が管理しているし、
俺は言われた時間にゼミ室へ行き、言われた通りに喋っているだけだ。
だから数字を確認することもほとんどない。
陽子はスマホを操作すると、画面をこちらへ向けた。
「五千人」
「……」
「五千人?」
「そんなにいるのか」
「そんなにいるのよ」
画面には白雪しおりのチャンネルが表示されていた。
登録者数。
確かに五千人を少し超えていた。
数日前の初配信では、確か数十人だったはずだ。
「増えすぎじゃないか?」
「だから言ってるの」
陽子は呆れたように言う。
「いくら空気がよかったからって、普通こうはならない。
ましてSNSでの宣伝だって最低限しかやってないし。」
「そうなのか」
「そうなの」
そう言いながら、今度はSNSを開いた。
そこには白雪しおりについての投稿が並んでいた。
『寝る前に聞くと落ち着く』
『声が優しい』
『仕事終わりに聞いたら泣きそうになった』
『何もしてないのにずっと見ていられる』
『白雪さんにお疲れさまって言われたい』
陽子は画面をスクロールする。
「見て」
「見てる」
「これ、全部勝手に広がってる」
「勝手に?」
「うん。切り抜きも出始めてる」
「切り抜きって何?」
「配信の一部を短く編集した動画ね、
それを別なチャンネルで公開する」
「ちょっとこれ見て」
陽子がまたスマホをいじる。
「これ」
画面には『【白雪しおり】初配信で天然発言連発www』という動画が映っていた。
「……誰?」
「白雪しおり」
「いや、それ俺だよな?」
「うん」
意味もわからず首を傾げた。
「なんで他の人が俺の動画を上げてるんだ?」
陽子は少し考えてから答えた。
「切り抜きっていう文化があるのよ。
長い配信の面白いところだけ編集して紹介する動画。」
「勝手に?」
「許可をもらってる人もいるし、ガイドラインで認めてる人もいるけど、
だいたいは勝手にやるかな」
「でも、なんでそんなことするんだ?」
陽子は指を一本立てた。
「理由はいくつかあるんだけど、一番多いのはその動画でも広告収入が入るから。」
「お金?」
「うん。それに、切り抜きチャンネル自体を育てたい人もいるし、『この人面白いからもっと広まってほしい』っていうファンもいる。」
少し黙った。
「……俺、まだ登録者五千人くらいだよな?」
「だからだよ。」
「え?」
「普通は何十万人、何百万人の配信者が切り抜かれる。
でも白雪しおりは急に伸びてるし、リアクションも独特だから、
先にチャンネルを作っておこうって人がいるんじゃない?」
「そんなことあるのか……」
「あるよ。株の先行投資みたいなものね。」
またスマホを覗き込む。
『白雪しおり、一瞬歌った美声』
『白雪しおり、マロ読みに天然回答』
動画が何本も並んでいた。
「……俺、こんなこと言ってたのか」
「本人が一番知らないパターンね」
陽子は吹き出した。
「それとね」
「まだあるの?」
「切り抜きから本人の配信に来る人も結構いるの。だから宣伝にもなる。」
「へぇ……」
「つまり今の智也は、自分の知らないところで勝手に営業してくれる人が現れ始めてるってこと。」
しばらく画面を見つめたあと、小さく呟いた。
「そんなことまでされるのか」
「されるのよ。人気が出ると」
そう言われても、あまり実感がない。
自分がやっていることは、夜のゼミ室でマイクに向かって話しているだけだ。
画面の向こうに五千人いると言われても、正直よくわからなかった。
「この調子なら、結衣ちゃんに対しても具体的に何かできるんじゃない?」
陽子が言う。
「人気VTuberの白雪しおりとして、猫田にゃこらに声をかけるとか」
「いや、それはまだいい」
「どうして?」
俺は少し考えた。
結衣を助けたい。
それは変わらない。
だが、白雪しおりの名前を使って、いきなり猫田にゃこらへ声をかければ、結衣はきっと喜ぶだろう。
たぶん登録者も増える。
だが、それでは結衣が欲しがっていた数字を、こちらが渡すだけになるんじゃないか。
「それを今やったら、結衣はまた数字を見るんじゃないか?」
陽子は黙った。
「登録者が増えたかどうか」
「再生数が伸びたかどうか」
「白雪しおりのおかげでどれくらい増えたか」
そこまで言ってから、俺は小さく息を吐いた。
「それだと、なにも変わらないんじゃないか?」
陽子はしばらくこちらを見ていた。
そして、少しだけ笑う。
「ほんと、変なところ見てるよね」
「そうか?」
「そうだよ」
陽子はスマホをしまった。
「じゃあ、まだ様子見でいいの?」
「ああ」
「りょーかい」
そう言いながらも、どこか楽しそうだった。
◇
その日の夕方。
一度家へ帰る。
夕食を済ませたあと、リビングを通ると、結衣がソファに座ってスマホを見ていた。
いつものように眉間にしわを寄せているのかと思ったが、今日は少し違った。
画面を見つめる表情が、以前より柔らかい。
横を通り過ぎる時、一瞬だけスマホの画面が見えた。
【白雪しおり 本日二十一時配信予定】
足が止まりそうになる。
意識して、そのまま通り過ぎた。
「お兄ちゃん、今日も出かけるの?」
結衣が顔を上げる。
「ああ。レポート」
「ふーん」
それだけ言って、またスマホへ視線を戻す。
俺は何も言わず、荷物を取りに自分の部屋へ向かった。
その途中。
結衣の部屋の前を通る。
扉は少しだけ開いていた。
中から小さく音が聞こえる。
『初めまして』
『白雪しおりです』
以前、陽子が作ったPVの音声だった。
俺は扉の前で少しだけ立ち止まる。
それから何も言わずに通り過ぎた。
結衣が白雪しおりを見ているのか。
その事実が、妙に胸に残った。
嬉しいのか。
不安なのか。
自分でもよくわからない。
ただ一つだけ確かなことがある。
最近の結衣は、数字を見ている時の顔ではなくなってきている。
少しだけ。
本当に少しだけだが。
何かを楽しみにしている顔をしていた。
◇
夜。
大学へ戻る。
ゼミ室にはすでに陽子がいた。
機材はほとんど準備されている。
白雪しおりのモデルも画面に表示されていた。
「お疲れ」
「ああ」
「今日は何を話す?」
「いつも通りでいいんじゃないか?」
「それが一番怖いんだけどね」
陽子は笑いながらも、配信画面を確認していく。
コメント欄。
マイク。
モデル。
SNS。
すべて問題ないらしい。
「そういえば」
「なに?」
「結衣が白雪しおりを見てた」
「え?」
陽子の手が止まる。
「ほんとに?」
「ああ」
「どうだった?」
「少し楽しそうだった」
陽子は小さく息を吐いた。
「そっか」
それだけ言って、椅子にもたれる。
「じゃあ、今日は大事かもね」
「何がだ?」
「知らない」
「知らないのか」
「でも、そういう日ってあるでしょ」
陽子はそう言って笑った。
俺はマイクの前に座る。
ヘッドホンを付ける。
画面の中の白雪しおりが、静かにこちらを見ていた。
配信開始まで、あと一分。
陽子がいつものようにハンドサインを出す。
俺はゆっくり息を吸った。
陽子が小さく頷く。
マウスをクリックした。
画面の右上に。
【LIVE】
の文字が表示される。
コメントがゆっくり流れ始めた。
『こんばんは』
『今日も来ました』
『仕事終わりです』
『寝る前に聞きます』
俺は小さく息を吸う。
「こんばんは」
「白雪しおりです」
「今日も来てくださってありがとうございます」
コメント欄がゆっくり流れる。
『こんばんは』
『癒やされる』
『今日は学校でした』
『残業でした』
俺は一つだけ読む。
「学校だった方、お疲れさまでした」
「残業だった方も、お疲れさまでした。大変でしたね」
「今日はゆっくり休んでくださいね」
コメントが少し増える。
『優しい』
『その一言で救われる』
『今日も頑張ってよかった』
その横で。
陽子が画面をじっと見ていた。
今夜の陽子は、何かを探すようにコメント欄をじっと見つめていた。
「……」
陽子が目配せする。
「どうした?」
マイクから少し顔を離して小声で聞く。
陽子は画面を指差した。
「来た」
「?」
コメント欄。
『猫田にゃこら:こんばんは!』
一瞬だけ思考が止まる。
その名前に心臓が高鳴る。
俺はコメント欄へ視線を戻す。
流れてくるコメントの一つとして読む。
「こんばんは」
「来てくださってありがとうございます」
陽子がこちらを見る。
小さく口だけ動かした。
「話しかける?」
首を横に振る。
その必要はない。
今ここにいるのは妹ではない。
猫田にゃこらという、一人のリスナーだ。
またコメントが流れる。
『猫田にゃこら:今日はテストでした』
「テスト、お疲れさまでした」
『猫田にゃこら:私も今夜は配信やりたいと思ってます!』
少しだけ考える。
「そうなんですね」
「無理をしないで、楽しんで配信してくださいね」
それだけ答えた。
コメント欄が一瞬止まり。
また流れ始める。
『好き』
『その返し好き』
『楽しんでくださいっていいな』
『数字より大事』
そして。
少し遅れて。
『猫田にゃこら:ありがとうございます!』
短いコメントが流れた。
『猫田にゃこら:白雪しおりさんの配信、楽しいです』
「ありがとうございます」
「そう言っていただけると、私も嬉しいです」
(あ……)
陽子は何かに気づいたように、
静かにコメント欄を見つめていた。
『猫田にゃこら:また来ます』
「はい」
「またゆっくりお話ししましょう」
その後も配信はいつも通りだった。
今日あったこと。
最近少し涼しくなったこと。
夜にホットミルクを飲むと落ち着くこと。
何でもない話を三十分ほど続ける。
ゲームもない。
歌もない。
企画もない。
ただ話しているだけ。
それなのにコメントは途切れなかった。
配信終了。
「今日もありがとうございました」
「皆さん、おやすみなさい」
配信を切る。
部屋が静かになる。
陽子は画面を見つめたまま、小さく笑った。
「ねぇ」
「ん?」
「今の完全に結衣ちゃん宛だったよね?」
「違う」
「違う?」
「猫田にゃこらさん宛だ」
陽子は数秒黙ったあと、
小さく吹き出した。
「そこは徹底するんだ」
「その方がいいと思う」
陽子は管理画面を開く。
そして目を丸くした。
「智也」
「なんだ?」
「見て」
画面には、
【猫田にゃこら チャンネル登録済み】
の表示。
さらにSNSの通知。
『白雪しおりさん、今日もありがとうございました』
『明日も配信を頑張りたいと思います!』
そんな短い投稿が表示されていた。
陽子は画面を閉じる。
「ねぇ、智也」
「ん?」
「猫田にゃこらさん、今日の配信やるってコメントしてた」
「そうだな」
「白雪しおりのチャンネルも登録してる」
「みたいだな」
「SNSにもコメントがあった」
「あぁ」
少しだけ画面を見る。
そして静かに返す。
「少し楽しそうだった」
陽子が首をかしげる。
「それだけ?」
「ああ」
「そろそろ何かしてもいいんじゃない?」
「登録してる」
「コメントもしてる」
「配信も見るようになった」
「十分条件は揃ってると思うけど?」
少し考える。
窓の外を見る。
夜の大学。
静かなキャンパス。
「VTuberのことは、まだよく分からない」
「だから何をすればいいのかも分からない」
少し間を置いて、
「でも」
「結衣は少し楽しそうだった」
「それだけは分かった」
陽子は智也を見る。
少しだけ笑う。
「相変わらず数字見ない人だね」
智也も小さく笑う。
「見ても分からないしな」
陽子は立ち上がる。
バッグを閉じながら、
「じゃあ、考えとくよ」
「何を?」
「結衣ちゃんがもっと楽しめる方法!」
何も答えない。
ただ――
パソコンの画面に映る白雪しおりを見る。
静かに微笑むその姿は、
どこか今夜の結衣に似ている気がした。
(第三章 終)
第三章を読んでいただき、ありがとうございました。
今回は大きな事件はありませんが、個人的にはとても気に入った回になりました。
智也たちは何か特別なことをしたわけではなく、ただいつも通り配信を続けているだけ。
それでも、少しずつ誰かの心に届いていく。
そんな空気を書いてみたかった章です。
そして、ついに猫田にゃこらが白雪しおりの配信へ。
ここから物語は少しずつ動き始めます。
次回は、いよいよ配信者同士のお話です。




