第六話 多摩川の悪夢、格の違い
「とぼけるなよ! この悪役令嬢が!」
小川のほとりに建つ、奇妙な日本家屋の客間。タカシは座卓の前でイライラと体を揺らし、泰然と対面に位置するシャルロットに怒りをぶちまけていた。
「俺の石鹸ビジネスで大繁栄したリヒトウェルの街を妬んで、ラノベでよくある敵対勢力みたいに怪しい汚染毒や呪いを川に流して苦しめてやがるんだ! 証拠はあがってるんだぞ!」
タカシは完全にラノベ知識を爆発させ、目の前の銀髪の少女を名指しで罵倒した。
シャルロットを卑劣な黒幕だと決めつけている。
そのタカシの暴言の前に、シャルロットの隣に座る栗色の髪の少女――アイリスが、鋭い目でタカシをにらみつけた。彼女の琥珀色の瞳には、明確な敵意が宿っている。自分の大切な人をこんな若者に侮辱されて、黙っていられるはずがないのだろう。
シャルロットは表情をピクリとも動かさず、目の前にあるお茶を少しだけ、静かに口に含んだ。
お茶の器をコト、と静かに置いたシャルロットは、その氷のように冷たい氷藍の瞳を、まっすぐにタカシへと向けた。
「少し、落ち着きなさいな。怒鳴り散らしたところで、何も解決はいたしませんわよ」
シャルロットは静かに、しかし妙に重みのあるトーンで言葉を紡いだ。
「うるさい! 言い訳なんて――」
「それから、一つお聞きしたいのですけれど」
タカシの言葉を遮り、シャルロットは淡々と言い放った。
「――あなたは、昭和の日本における『多摩川の水質汚染』を知っているかしら?」
「え……?」
タカシの脳内が、一瞬で完全フリーズした。異世界。中世ファンタジー風の辺境伯領。他国のワケあり美少女。その口から飛び出したのは、あまりにも場違いで、あまりにも具体的な、現代日本の「多摩川」という単語だった。
タカシが呆然と口を開けて硬直する中、シャルロットは淡々と、しかし容赦のない長めのお説教をスタートさせた。
「昭和の高度経済成長期、人々はこぞって新しい合成洗剤を使い始めましたわ。衣服の汚れが劇的に落ちる魔法のアイテムだと、誰もが喜び、大量に消費したの。ですが、当時の日本には、それを処理するための十分な下水道や処理施設が整っていませんでした。その結果どうなったか、理系を気取るあなたなら分かりますわね? すべての生活排水がそのまま多摩川へと流れ込み、川は一面、消えない真っ白な泡の海で埋め尽くされましたわ。泡が水面を覆うことで水中の酸素が遮断され、さらに洗剤の成分が魚たちの繊細なエラを直接破壊し、呼吸を奪ったの。川の魚たちは窒息しかけて水面でアップアップと喘ぎ、次々と死に絶えて浮かび上がりました。川の自浄作用を担う大切な微生物たちも全滅し、辺りにはドブ川特有の凄まじい腐敗臭が充満した……。当時のニュース映像では、風に吹かれた巨大な洗剤の泡の塊が、不気味に空を舞う姿まで映し出されていたわ」
それは、紛れもない現代日本の――生々しい公害の歴史だった。それをシャルロットは、冷徹な声で延々と語り続ける。
「そしてそれは、人間にも牙を剥きました。十分な知識を持たない人々が、泡立ちが良いからとすすぎも適当に、食器や調理器具にその成分を残留させたまま食事を口にし、あるいは処理しきれずに水源に染み込んだ成分をそのまま体内に取り込んだ。その結果、何が起きたかしら? 多くの人々が、原因不明の激しい腹痛と下痢に悩まされることになったのよ」
シャルロットはそこで言葉を一度区切ると、タカシの目をまっすぐに見据えた。
「インフラも知識もない世界で、自分の利益のために合成洗剤をドバドバと無責任に流す……」
そして、タカシを射殺すような目で鋭く睨みつけ、言い放った。
「あなたのやっていることは、『公害テロ』よ!!」
「こ、公害……テロ……っ」
シャルロットが淡々と語るメカニズムと、その痛烈な一言を聞いているうちに、タカシの背中に冷たい汗がどっと噴き出した。
(待て……。泡の海。ドブの臭い。エラを痛めてアップアップする魚。裏で井戸や水源に染み込んだ成分……。それって、俺がこの二週間、リヒトウェルの街で見てきた光景と……完全に、全く同じじゃないか……!?)
タカシの脳が、焦りと屈辱でパンクしそうになる。自分の石鹸は、汚れを落とす完璧な「正義のアイテム」だったはずだ。それが、まさか最悪のテロ行為だなんて認められるはずがなかった。
自分が原因だった。自分のせいで、リヒトウェルの川が死に、人々が地獄の苦しみを味わっている。
その動かしがたい事実を突きつけられ、精神的に完全に追い詰められたタカシは、羞恥心とプライドをズタズタに引き裂かれ、若者らしく必死にキレた。
「そっ、そんなの、そんなの知るかよ!!」
タカシは座布団の横の木の板を拳で叩きつけ、怒鳴り散らした。
「多摩川だか何だか知らないけど、俺の世界の歴史なんてこの異世界に関係ないだろ! 俺はケミカルチートで、誰も作れなかった最高の石鹸を作って、この街を発展させてやったんだ! お前は、俺が金持ちになって大富豪として豪遊してるのが羨ましいんだろ! それだから、他国の落ちぶれ令嬢のくせに、俺にそんなイチャモンを――」
タカシが興奮して充血した目で身勝手な言葉を口にした、その瞬間。
ピキリ、と。シャルロットの中で、かろうじて保たれていた理性の糸が、完全に破裂した。
「――ああ、本当にめんどくさいですわね」
シャルロットの口から、お上品な令嬢の言葉遣いが完全に消え失せ、底冷えするような口調が漏れ出た。
「な、何だと……お前が……っ」
タカシが怯えながら言いかけた瞬間、シャルロットは座ったまま、その氷藍の瞳を極限まで冷酷に細め、凄まじい威厳を込めて一喝した。
「――お黙りなさい!!」
ドォン! と、物理的な衝撃波でも走ったかのように、客間の空気が一瞬にして凍りついた。
それは、魔法でも呪いでもない。
九十二年間という、激動の時代を泥臭く生き抜いてきた者だけが持つ、圧倒的な人生の重み、そして本物の「激怒」がもたらす凄まじい威圧感だった。
タカシは、息をすることさえ忘れて硬直した。
一言の言葉はおろか、指先一つ動かすことができない。口を開くことができないほどの、圧倒的な格の違いによる緊迫感が、部屋全体を完全に支配していた。
「ひっ……、あ……」
たかが十数年しか生きていない高校生のタカシなど、その絶対的な威圧感の前に、一瞬で心がへし折られた。
額からは脂汗がダラダラと滝のように流れ落ち、両手はガタガタと目に見えて激しく震えている。喉が完全に恐怖で閉塞し、声を出すどころか、まともな呼吸をすることすらできない。
目の前にいるのは、ただの可憐な美少女ではない。自分など足元にも及ばない、圧倒的な『格』を持つ本物の怪物だ。タカシはただその事実に圧倒され、絶望的な恐怖の中で、震え続けることしかできなかった。




