第七十九話 未知の奇病、広がる
「うう……、お腹が、お腹が痛え……」
「おい、しっかりしろ! 誰か、回復魔法を使える神官様を呼んでくれ!」
タカシが買い取った豪華な屋敷の外から、そんな悲痛な叫び声が頻繁に聞こえるようになったのは、魔法の石鹸が街に普及してから二週間が経った頃だった。
リヒトウェルの街では、謎の奇妙な病気が爆発的な勢いで流行り始めていた。多くの住人たちが、突然の激しい腹痛と下痢に襲われ、ベッドから起き上がれなくなっていたのだ。
屋敷の窓からその惨状を見下ろしながら、タカシは優雅にハーブティーをすすり、深く眉をひそめていた。
「……一体何が原因なんだ? なんでこんなに急に、みんなお腹を壊し始めてるんだよ」
タカシは必死に頭を回転させた。現代の知識を思い出そうとしても、テレビのニュースで見た公衆衛生の断片的な情報くらいしか出てこない。
(いや、待てよ。ここは中世ヨーロッパみたいな文化の街だ。手洗いうがいの概念すらまともにないから、鉱山帰りの汚れた手で何か変なものでも食べたか、粗悪な生水でも飲んで恐ろしい感染症が広がっているに違いない!)
そう結論づけたタカシは、お世話をしてくれている召使いたちに、すぐに命じた。
「いいかい、みんな。病気にならないためには『予防』が一番なんだ。俺の作ったあの泡立つ石鹸を使って、こまめに手を洗うように街の人たちにも伝えてくれ! 手を清潔に保てば、絶対に病気の蔓延は防げるはずだ!」
街で一番の有名人であり、大富豪となったタカシの言葉だ。ガルフの質屋や商人ギルド、さらには宿屋を通じ、「病気の予防にはタカシ様の石鹸での手洗いが効果的だ!」という噂があっという間に街中に広がった。
住人たちは、腹痛の恐怖から逃れるために、競い合うようにしてタカシの石鹸を買い求め、今まで以上にガシガシと手を洗い、食器を洗い、調理器具を洗い始めた。
しかし、事態はタカシの予想を完全に裏切る方向へと進んでいく。
◇
「タカシ殿! 手洗いを徹底させているのに、一向に病気が収まらない! それどころか、症状を訴える人が増える一方だ!」
数日後、青ざめたガルフが屋敷に飛び込んできた。
「え? なんでだよ!? 手洗いうがいをしていれば、普通は感染症なんて収まるはずだろ!?」
タカシは信じられないといった様子で叫んだ。
現代の知識を総動員してアドバイスしているのに、なぜか街の病状は悪化していく。街を歩けば、あちこちの路地で人々がお腹を抱えてうずくまり、公衆浴場は体を洗うどころか、下痢に苦しむ男たちの阿鼻叫喚の地獄絵図と化していた。
「原因がさっぱり分からない……。一体この街に何が起きてるんだ?」
タカシは頭を抱えた。幸いにもタカシ自身や屋敷の召使いたちは無事だったが、外の世界は完全に未知の疫病に侵されているように見えた。
そしてその不気味な異変は、街の人間だけでなく、街の東方を走っている大きな川――下流のエデン村へと続くあの川にも現れ始めていた。
「うわ、なんだこの臭い……!」
タカシが川の様子を見に行くと、かつては綺麗だった水面がどす黒く混濁し、不自然な白い泡の山で完全に埋め尽くされていた。川底から湧き上がるように、辺りには鼻をつくような強烈な腐敗臭が充満している。
水面を覗き込めば、何百匹もの魚たちが苦しそうに浮かび上がり、口をパクパク、アップアップと動かしながら、窒息しかけて喘いでいた。
「おいおい、なんだよこれ……。街全体が、何か強力な魔物の呪いにでもかけられてるんじゃないか?」
タカシは顔をしかめながら、目の前で起きている怪現象に恐怖を覚えた。街に流れる水そのものが、急速に腐り果てていく。原因が全く分からないからこそ、その不気味さは増すばかりだった。
そんなある日のこと、タカシは屋敷にやってきた商人ギルドの職員たちが、ひそひそと噂話をしているのを小耳にはさんだ。
「なぁ、聞いたか? この上流の街はこんな地獄みたいな有様なのに、下流のエデン村のほうは、水が驚くほど綺麗らしいぞ」
「本当か? あそこはうちの街のすぐ下流だろう? なのに、腹痛や下痢に悩まされている人も誰一人いないというじゃないか」
その言葉を聞いた瞬間、タカシの脳内に激しい衝撃が走った。
「……、どういうことだ?」
タカシは職員たちの前に立ち塞がり、厳しい声で問い詰めた。
「それ、本当なのか!? 上流のこの街がこれだけ原因不明の病気で苦しんでいて、川もドブみたいになっているのに、なんで下流の村だけが平気なんだよ! おかしいだろ!」
「は、はい……。エデン村のシャルロット様というお嬢様が、何やら巨大な建造物を作って、上流からの水をすべて綺麗にしているとかで……」
ギルドの職員が怯えながら答えると、タカシの顔が怒りで一気に真っ赤に染まった。
「――っ、ふざけるなよ!!」
タカシは激しく床を蹴りつけた。
理系オタクでありながら、その中身はライトノベルやゲームの知識にどっぷりと浸かった高校生だ。タカシの頭の中では、彼が大好きなファンタジー小説によくある、卑劣な敵対勢力の陰謀劇が組み上がっていた。
(間違いない……! よくあるラノベの展開だ! 俺の石鹸ビジネスでこのリヒトウェルが爆発的に発展したから、それを妬んだ下流の貧相な田舎村の連中が、こっちの富を奪うために裏で『呪い』か『怪薬』を仕掛けたんだ! あいつらはリヒトウェルの評判を落として失脚させるために街を汚し、自分たちの村だけは先に対策をして、平気な顔で高みの見物を決め込んでるんだろ!)
上流がこれほど悲惨な状態なのに、下流の村がピンピンして綺麗な水を維持している。その事実が、タカシにとっては、「あいつらがこの異変を仕掛けた黒幕だ」という決定的な証拠だ。
「ガルフさん! 商人ギルドの私兵と、動ける冒険者をかき集てくれ!」
タカシは血走った目で、屋敷にいたガルフに怒鳴り散らした。
「俺たちの街をこんな目に遭わせた容疑が、下流のエデン村にかかっている! 乗り込んで、あの村の連中の化けの皮を剥ぎ取ってやる!」
原因不明の恐怖から生じた疑心暗鬼が、タカシに下流の村へと突撃する準備をさせた。




