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第七十七話 魔法の泡と、激変する生活

「お、客人。それは一体、何なのだ……?」


街で一番大きな質屋の店主である老商人――ガルフは、カウンターに置かれた「純白の固まり」を凝視していた。


数日前、タカシから未知の衣服と、魔鏡を買い取った男だ。ガルフは立派な口ひげを何度もなぞりながら、怪訝そうな目をタカシに向けている。


「これは石鹸ですよ、ガルフさん」


タカシは不敵な笑みを浮かべたまま、そう答えた。

公衆浴場からそのままこの質屋へ足を運んだタカシは、手に入れたばかりの『ケミカルクラフト』の成果を、この街で一番鼻が利く商人に持ち込んだのだ。


「石鹸だと……? 馬鹿なことを言うな。石鹸と言えば、獣の脂と灰を混ぜた、あの茶色くて硬い塊のことだろ。そんな雪のように白く、しかもこんな、鼻が突き抜けるような清々しい香りがする石鹸など、この世にあるはずがない!」


ガルフは信じられないといった様子で首を横に振る。

タカシは待っていましたとばかりに、あらかじめ用意しておいた水の入った手桶と、鉱山の油で真っ黒に汚れた麻の布切れを取り出した。


「口で説明するより、見てもらった方が早いですね。ちょっとその汚い布を水に浸けてもらえますか?」


ガルフが不審がりながらも布を水に浸すと、水は一瞬で泥と油で濁った。繊維の奥まで真っ黒に染まった、どう見ても修復不可能なゴミクズのような布だ。

タカシは笑みを深くし、手の中の白い石鹸をその布に数回、軽くこすりつけた。そして、ガルフの目の前で、両手を使って布を優しく揉み洗いし始める。


「――なっ、なんだこれはっ!?」


ガルフの口ひげが、驚愕で跳ね上がった。

タカシの手元から、まるで生き物のように真っ白でキメの細かい泡が、モコモコと爆発的な勢いで溢れ出してきたからだ。


「あ、泡が……!? 湧き出ておるぞ! 魔法か!?」


「いいえ、ただの石鹸の力です。この泡が、繊維の奥に入り込んだ頑固な油汚れを包み込んで、引き剥がしているんですよ」


十分に泡を行き渡らせた後、タカシは手桶の綺麗な水で一気に泡を洗い流した。

ガルフはカウンターに身を乗り出し、その結果を凝視した。そして、次の瞬間、彼は言葉を失って凍りついた。


「バ、カな……。そんなことが、あってたまるか……」


そこにあったのは、今さっき織り上がったばかりのような、純白の布切れだった。鉱山の油汚れも、泥も、嫌な獣の臭いも、何一つ残っていない。ただ、爽やかなレモンのような香りが、洗い立ての布からふわりと漂っている。


「落ちておる……。魔法でも絶対に落ちなかった、あの鉱山特有の油汚れが、跡形もなく消えている……! しかも、布地が全く傷んでおらん!」


「これが、俺の『ケミカルクラフト』で作った石鹸です」


タカシはニヤリと笑った。

ガルフは商人の勘で、この白い塊が持つ「恐るべき価値」を瞬時に理解した。このリヒトウェルは、鉱山で働く労働者が数千人もいる街だ。誰もが落ちない汚れと臭いに悩まされている。


「お客人……いや、タカシ殿! これは売れる! 間違いなく売れるぞ! 街中の人間が、金を積んででもこれを欲しがるはずだ!」


ガルフの目が、獲物を見つけた肉食獣のように爛々と輝き始めた。


「ですよね。ガルフさん、これを使って、俺と一緒に一儲けしませんか?」


「ぜひとも! ぜひとも頼む! 販売ルートの確保、宣伝、すべてワシの店と、ワシのツテがある商人ギルドに任せてくれ!」


ガルフの快諾を得たタカシは、その場で具体的なビジネスの話を進めることにした。


「よし、ではさっそく商品を揃えなければならんな。タカシ殿、この『魔法の石鹸』は、一度にどれくらいの量を作れるのだ?」


タカシは自分の体内に流れる魔力の残量を確認した。高校生の知識をもとに、魔力を使って物質を組み立てる『ケミカルクラフト』。純度100%の石鹸を一個作るのに消費する魔力は、思ったよりも少なかった。


(魔力の燃費が良すぎるだろ。これなら、一度にかなりの量を作っても問題ないな)


タカシは頭の中で、より泡立ちが良く、水に溶けやすい「合成界面活性剤」の分子構造式を組み立てた。大量生産に向いており、異世界の硬水でも高い洗浄力を発揮する、特製の配合だ。


「ガルフさん、少し下がっていてください。ここで用意できるだけ作ります」


ガルフが息を呑んで見守る中、タカシは質屋の大きな作業台の上に両手をかざした。


「――ケミカルクラフト、連続錬成」


タカシの体から、温かい魔力がどっと溢れ出す。

右手のひらからまばゆい純白の光が放たれ、作業台の上の空間がぐにゃりと歪んだ。

光の中から何かが次々と「物質化」していく。


ポン、ポン、ポン、ポン!


光が収まった時、作業台の上には、正確に同じ形、同じ大きさに切り分けられた純白の石鹸が、整然と積み上げられていた。その数、およそ二百個。部屋全体が、一瞬にして爽やかなシトラスの香りで満たされる。


「おお……おおおお……!」


ガルフはその光景に圧倒され、ただただ感嘆の声を漏らすしかなかった。これほど精巧で、全く同じ規格の「工業製品」を、無から一瞬で大量に生み出す魔法など、見たことも聞いたこともなかった。


「素晴らしい……! まさに奇跡の技だ!」


「とりあえず、第一弾としてはこれくらいでどうですか? 価格設定や売り方はガルフさんに任せますよ」


「十分だ! これだけあれば、一気に噂を広めることができる。タカシ殿、数日後を楽しみにしておいてくれ。ワシの商人の名にかけて、この街をひっくり返してみせる!」


「期待していますよ、ガルフさん」


タカシはガルフとがっちりと握手を交わし、不敵な笑みを浮かべながら質屋を後にした。


(さて、数日後が楽しみだな……)


タカシはワクワクしながら、お気に入りの宿屋へと戻っていった。



数日後。

タカシが宿屋の部屋の窓を開けた瞬間、思わず「うわっ」と声を上げた。


「……街が、眩しい」


そこには、数日前とは完全に見違えるような光景が広がっていた。

これまで灰色と茶色に濁っていたリヒトウェルの街が、まるで生まれ変わったかのように白く、輝いて見えるのだ。


通りを見下ろすと、あちこちの家の軒先や窓辺に、洗濯されたばかりの衣服が所狭しと干されていた。それらの服は、どれもこれも不自然なほどに真っ白で、太陽の光を反射してきらきらと輝いている。


「ねえ、見てよこれ! 旦那のあの汚い作業着が、新品みたいに真っ白になったのよ!」

「本当に! うちの息子の服も、あの嫌な動物臭さがすっかり消えて、なんだか凄くいい匂いがするわ!」


川沿いの洗濯場からは、大勢の主婦たちが集まり、お互いの服を見せ合いながら歓声を上げているのが聞こえてくる。あちこちの路地から、タカシが仕込んだあの爽やかなシトラスの香りが風に乗って漂ってきた。


「おい、あんちゃん! 聞いたか!?」


タカシが宿の食堂に降りると、数日前に公衆浴場で声をかけてきた大柄な鉱山労働者が、嬉そうに駆け寄ってきた。彼の着ている麻のシャツは、見事に汚れが落ちて真っ白になっている。


「あのガルフの店で売り出された魔法の泡石鹸、マジでヤバいぜ! 街中の男たちがこぞって買いに走ってよ、一瞬で売り切れちまったんだ! これを使うと洗濯が楽しくて仕方がねえんだよ!」


「へえ、そうなんですか。良かったですね」


タカシは平静を装いながら、心の中でガッツポーズを決めた。

予想以上の大ヒットだ。街のインフラや、人々の生活習慣そのものを変えてしまうほどの大革命が起きていた。


タカシがそのままガルフの質屋へと向かうと、店の前には信じられないほどの長蛇の列ができていた。タカシが裏口からこっそり店内に潜り込むと、そこには髪を振り乱し、大量の書類に囲まれたガルフがいた。


「おお、タカシ殿! 待っておったぞ!」


ガルフはタカシの顔を見るなり、飛びつくように駆け寄ってきた。その目は完全に血走っているが、顔は満面の笑みだ。


「とんでもないことになった! 最初に用意した二百個は、発売からわずか一時間で完売だ! その後も街中の宿屋、公衆浴場、さらには鉱山の親方たちから『定期的に数百個単位で納品してくれ』と、とんでもない生産注文が殺到しておる!店頭で店員が対応しているが、全く処理が全く追いつかん!」


ガルフは興奮を落ち着かせるように一度深く息を吐くと、机の上にある、ずっしりと重い革の袋をタカシの前に差し出した。中からは、ジャラジャラと小気味良い金属の音が響く。


「これは、今回の売上から諸経費を差し引いた、タカシ殿の取り分だ。受け取ってくれ。今回はワシの店だけでなく、正式に『商人ギルド』を通して流通させたからな。ギルドへの手数料や、ワシの取り分を引いて、タカシ殿の割合は全体の『三割』ということになっている。……だが、元の売上がとんでもない額だからな」


「これ、一体いくらあるんですか……?」


「金貨、三百枚だ。しかも、これは『最初の数日分』に過ぎん。注文は今も増え続けているから、これから毎日のようにこの額が入ってくることになる」


「金貨、三百枚……」


タカシの口元が、引きつるように歪んだ。そして、次の瞬間――。


「くっ……くくく……ははははははは!」


部屋の中に、タカシの狂ったような笑い声が響き渡った。

笑いが止まらない。ただの高校生の知識で、服を洗いたいからと作った界面活性剤が、異世界では大金を生み出す金の卵に化けたのだ。

思慮の浅い女神の『高校生の知識なんて大したことない』という言葉が、頭の中で再生されるたびに笑いが込み上げてくる。


「タカシ殿、これほどの額の金だ。宿屋暮らしでは防犯上もよろしくない。そこで提案なのだが、商人ギルドのあっせんを使って、この街にまともな拠点を構えてはどうか?」


「……最高ですね。すぐに手続きをお願いします」


そこからのタカシの生活は、まさに文字通り「激変」した。


数日後、タカシはガルフの言っていた大邸宅へと引っ越した。石造りの頑丈な外壁に囲まれた、広い庭付きの二階建ての屋敷だ。部屋数は十以上あり、どの部屋にも一級品の家具が揃っている。


さらに、商人ギルドのあっせんによって、屋敷の管理やタカシの身の回りの世話をするための「召使い」も数人雇うことになった。


「旦那様。本日の朝食のご用意ができました」


広いダイニングテーブルにつくと、綺麗に仕立てられたメイド服を着た若い女性の召使いが、恭しく頭を下げて料理を並べていく。すべて、タカシが何もしなくても、召使いたちが完璧なタイミングで用意してくれるのだ。


「うん、美味い」


タカシは背もたれの高い豪華な椅子に深く腰掛け、優雅にスープを口に運んだ。

数日前までは、泥だらけの服を着て、汚い公衆浴場で泡立たない石鹸にキレていた高校生だ。それが今や、街一番の富豪となり、大きな屋敷で召使いに雇われながら、毎日豪遊するような暮らしを送っている。


「いやあ、科学の力って本当に素晴らしいな」


タカシは窓の外に広がる、真っ白に洗濯された美しい街並みを眺めながら、贅沢なワインを一口含んだ。

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