第七十六話 ケミカル・スタートライン
「ここが、異世界の街、か……」
山崎隆司は、高くそびえ立つ石造りの大門をくぐり抜け、街の喧騒に包まれながらぽつりと呟いた。
頭上には、雲一つない青空が広がっている。しかし、その太陽の輝きはどこか地球のそれよりも鋭く、空気は微かに乾燥していた。行き交う人々は、中世ヨーロッパの映画から飛び出してきたかのような麻や革の衣服を身にまとっている。耳に飛び込んでくる言葉は日本語ではないはずなのに、なぜか脳内で完璧な意味として理解できた。
タカシがここへ来る直前の記憶は、白い神殿のような場所で出会った、金髪碧眼の女神の顔だ。
彼女は実に軽いノリで言ったのだ。
『あちゃあ......。ごめん! 私のミスだからさ、もとの世界には戻せないけれど、代わりに異世界に行かせてあげる。え? 科学系のチート能力が欲しい? よくわかんないけど地味ねぇ。まあ、高校生の知識だし、大したことはできないでしょ。しょうがないなあ、いいよ』
そう言って手渡されたのが、「ケミカルクラフト(化学錬成)」という能力だった。
(あの女神、本当に思慮が浅そうだったな……。まあ、本当に能力が使えるなら文句は言えないけど)
タカシは自分の右手のひらをじっと見つめた。
ここ、「リヒトウェル」は、ヴァルハイト帝国エドワード辺境伯領の北西に位置する街だ。近くに大きな鉱山があるらしく、街を行き交う人々の中には、泥や黒い油汚れを肌につけた頑強な労働者たちの姿が目立つ。
「さて、能力の実験をする前に……まずは路頭に迷わないための金を稼がないとな」
タカシは自分のポケットに手を突っ込んだ。入っているのは、使い古したスマートフォン、そして学校の指定ジャージの上着。異世界に転移する際、身の回りにあったものだけがそのまま持ち込まれたようだった。
タカシは街のメインストリートを歩き、ひときわ大きく「天秤と金貨」のマークが描かれた看板を掲げる、高級な質屋のドアを叩いた。
カランカラン
涼やかな鈴の音が響く。
薄暗い店内には、ガラスケースの中に怪しげな宝石や古びた剣が並んでいた。カウンターの向こうからタカシを睨みつけてきたのは、立派な口ひげを生やした、いかにも頑固そうな老店主だった。
「ふむ、見慣れぬ異邦の身なりだな。坊主、ここに何の用だ? 冷やかしなら帰れ」
「これらを買い取って、現金にしてほしいんです」
タカシは緊張で強ばる手を隠しながら、紺色の学校指定ジャージと、液晶画面が真っ黒なスマートフォンをカウンターの上にコト、と置いた。
店主は最初、ひげをなぞりながら鼻で笑った。「なんだこれは。そんな小汚い布切れと、妙な鉄の板が金になるとでも――」
ブツブツと文句を言いながら、店主がジャージの袖に触れた。その瞬間、店主の指先がピクリと止まった。
「……ん? なんだ、この滑らかな感触は」
老店主の目が鋭く光る。彼はジャージをつまみ上げ、光に透かしたり、引っ張ったりし始めた。その顔から、瞬く間に余裕が消え失せていく。
「な、なんだこの生地は……!? 糸の細さが完全に均一で、どこにもダマがない。縫い目が寸分の狂いもなく、まるで定規で引いたようにまっすぐ縫われているぞ! 帝都の最高級絹織物職人でも、ここまでの芸芸しい仕事は不可能だ。それに、この驚異的な伸縮性と復元力……一体どんな魔獣の糸を編み込んだのだ!?」
「あ、いや、ただのポリエステルと綿の混紡ですけど……」
「ポリ……何だと? 聞いたこともない。希少な素材か?」
店主は興奮で鼻息を荒くしながら、次にスマートフォンを恐る恐る手に取った。
「この漆黒の鏡のような板はなんだ? あまりにも歪みがない。裏側は……信じられないほど軽い金属と、未知の結晶体で覆われているな」
「電波がないのでただの板ですけど、一応、鏡みたいに顔は映りますよ。裏はアルミ合金と強化ガラスです」
「ガラスだと!? 傷一つない完璧な透明度を持つガラスなど、この世界には王族の宝物庫にしか存在せんぞ! 坊主、この魔鏡と、未知の繊維で作られた伸縮衣、合わせて金貨五十枚でどうだ!?」
異世界の正確な貨幣価値は分からない。だが、金貨五十枚という響きと、店主の血走った目を見れば、それが破格の大金であることくらいはタカシにも分かった。
現代日本の大量生産品が、この世界ではオーパーツ(超高度な古代遺物)レベルの職人技に見えるらしい。
「……分かりました。そのお値段で手を打ちましょう」
タカシが平静を装って頷くと、店主はまるで家宝を手に入れた子供のように喜び、震える手で現代の品々を奥の金庫へと運んでいった。こうしてタカシは、異世界に降り立ってわずか一時間で、当面の間は贅沢に遊んで暮らせるだけの大金を手に入れたのだった。
それからの数日間、タカシのリヒトウェルでの暮らしは、予想を遥かに超えて快適で、不満のないものだった。
「お待たせしました! 本日の特製、豚肉の赤ワイン煮込みと、焼き立ての白パンですよ!」
タカシが滞在している宿屋『琥珀の蹄亭』の食堂は、いつも活気に満ちあふれていた。運ばれてきた料理を口に運ぶたび、タカシは感動を覚えた。
じっくりとスパイスで煮込まれた肉は、臭みが一切なく、口の中でホロホロととろける。
案内された二階の客室も素晴らしかった。
床の木板は丁寧に磨かれており、部屋の隅々まで掃除が行き届いている。毎晩、心地よい眠りに落ちることができた。
お金はある。ご飯は美味しい。ベッドは快適。
「これなら、この世界で一生スローライフを送るのも悪くないな」
タカシはそう思っていた。
――たった一つの「致命的な問題」を除いては。
「……限界だ。服が、めちゃくちゃ臭い。それにドロドロだ」
数日間、異世界の観光を楽しみ、街を歩き回ったタカシは、自分の部屋で絶望していた。
このリヒトウェルは鉱山の街だ。風が吹けば微細な炭粉や鉄の混じった泥が舞い、ただ歩いているだけでも服の繊維にそれらが容赦なくこびりつく。現代のジャージを売ってしまったタカシは、質屋で手に入れた金でこの世界の一般的な麻のシャツとズボンを買い直していたのだが、そのおろしたての服が、わずか三日で黒ずみ、汗の臭いと脂でギトギトになっていた。
食事も美味い、ベッドも綺麗、金もたっぷりある。
すべての生活水準が高いからこそ、この「服が汚い」という事実だけが、綺麗好きな現代人であるタカシの精神をガリガリと削っていく。
「これ、洗濯ってどうやればいいんだ?」
耐えかねたタカシは、宿屋の女将に洗濯について尋ねてみた。すると女将は、困ったような顔をして、街の南側にある「公衆浴場」の場所を教えてくれた。そこには共同の洗濯場も併設されているらしい。
タカシは着替えを抱え、逃げ込むようにその浴場へと向かった。
しかし、その公衆浴場の暖簾をくぐった瞬間、タカシは自分の選択を激しく後悔することになった。
「うわ……、これはきついな……」
脱衣所を抜けて浴場に入った瞬間、タカシを襲ったのは、むっとするような熱気と、それに混ざった強烈な獣の脂の臭いと男たちの汗の臭いだった。
床の石畳は、鉱山帰りの労働者たちが持ち込んだ泥と油でぬるぬると滑り、白く濁ったお湯が張られた湯船には、汚れが浮いているのが目視できる。
そして何よりタカシを驚かせたのは、男たちの体の洗い方だった。
彼らは、茶色くて固い、まるで泥を固めた粘土のような塊を、自分の肌や服に直接ゴシゴシと力任せに擦りつけていた。
「おいおい、あんちゃん、見慣れない顔だな。そんな貧弱な体じゃ、鉱山の泥は落ちねえぞ!」
一人の筋骨隆々な労働者が、タカシに声をかけてきた。その手には、あの茶色い塊が握られている。
「あ、あの、それって石鹸ですか?」
「おうよ! 獣の脂と、薪の灰をじっくり混ぜて固めた、特製の高級石鹸だ! これ一個で銅貨三枚もするんだぜ。ほら、貸してやるから使ってみな!」
親切心から差し出されたその塊を、タカシは恐る恐る受け取った。
水に濡らし、自分の腕に擦りつけてみる。しかし――全く泡立たない。
いくらこすっても、ぬるぬるとした油のような感覚が広がるだけで、現代の石鹸のようなふわふわとした泡は一粒たりとも生まれなかった。それどころか、石鹸自体から放たれるツンとした灰の臭いと、敗した獣の油の臭いが、逆に肌にこびりつきそうだった。
男たちは、この泡立たない泥の塊を服や体に擦りつけ、ただの「研磨剤」のように使って、力任せに汚れを削り落としているだけだったのだ。当然、そんな方法では繊維の奥に入り込んだ鉱物油や泥が落ちるはずもない。洗っているはずの労働者たちの服が、どれも黒ずんで独特の臭いを放っている理由が、タカシには完全に理解できた。
「こんなので服を洗ったら、汚れが落ちるどころか服が破けちまう……!」
タカシは抱えてきた汚れたシャツを見つめ、絶望に打ちひしがれた。
美味しい食事も、ふかふかのベッドも、この「不潔さ」の前にはすべてかすんでしまう。現代の、あのシトラスの香りがする、真っ白でふわふわに泡立つ洗剤が恋しくてたまらなかった。
(……待てよ)
その時、タカシの脳裏に、あの女神の軽薄な声がよみがえった。
『あなたに授けるのはケミカルクラフト。あなたが構造や仕組みを正しく知っているものなら、何でも生み出せる力よ』
タカシは理系オタクだ。高校の化学の授業で、現代の身近な化学物質の構造を覚えていた。
(現代の石鹸……洗剤の仕組みなら、完璧に頭に入っている。水と油という、本来なら絶対に混ざり合わない二つの物質を結びつけ、汚れを包み込んで引き剥がす化学の構造。――界面活性剤だ!)
物質の表面張力を失わせるから、界面活性剤。
その分子は、水になじみやすい「親水基」の頭と、油になじみやすい「親油基」の長い尾を持つ、まるでひょうたんのような形をしている。
(この世界の石鹸が泡立たないのは、製法が雑で、不純物だらけだからだ。余計な水分や灰が混ざり、分子の並びがバラバラなんだ。もし、完全に純粋な、不純物ゼロの脂肪酸ナトリウムの結晶を作り出すことができたら……?)
タカシは浴場の脱衣所の隅、誰も見ていない影に移動した。
そして、じっと自分の手のひらを見つめ、深く息を吸い込んだ。
頭の中で、完璧な分子構造式を組み立てていく。
炭素が長く連なった疎水性の鎖。その先端に結合する、親水性のカルボキシル基とナトリウムイオン。一寸の狂いもない、純白の結晶構造。
「――ケミカルクラフト、発動」
タカシが小さく呟いた瞬間、体の中から、これまでに感じたことのない温かくて瑞々しい「魔力」の奔流が流れ出し、右手に集束していくのが分かった。
手の中に、まばゆいばかりの純白の光が明滅する。
物質が再構成される微かな駆動音の後、光が収まったタカシの手の上には――。
「……できた」
そこにあったのは、縦横五センチメートルほどの、四角い固形物だった。
この世界の濁った茶色い石鹸とは似ても似つかない、雪のように汚れのない純白の塊。そして、不快な獣の臭いは一切なく、タカシがイメージした通りの、ほのかにレモンを思わせる清潔で爽やかなシトラスの香りが、脱衣所の空気を優しく満たした。
現代の科学知識が、異世界の魔力と結びつき、世界で初めて「純度100%の石鹸」として具現化した瞬間だった。
「よし……実験だ」
タカシは湧き上がる興奮を抑えきれないまま、その白い石鹸と汚れたシャツを持ち、浴場の隅にある水汲み場へと向かった。
周りでは、労働者たちが相変わらず茶色い粘土塊をゴシゴシと肌に擦りつけ、「痛えなちくしょう!」などと声を荒げている。
タカシは桶に汲んだ水に、汚れたシャツを浸した。数日間吸い込んだ鉱山の泥と油のせいで、水に濡れたシャツはどす黒い色に変色している。
そこに、錬成したばかりの純白の石鹸を、かるく二、三回ほど擦りつけた。
そして、両手で布地を優しく揉み込む。
「――っ!?」
次の瞬間、タカシの口から驚愕の吐息が漏れた。
シャツの表面から、モコモコと、まるで生き物のように真っ白でキメの細かい泡が、爆発的な勢いで溢れ出してきたのだ。
「す、すげえ……! 想像以上だ!」
ほんの少し手を動かすだけで、泡はどんどん膨らみ、タカシの両手を覆い尽くしていく。
雪のように軽いその泡は、シャツの繊維の奥深くまで瞬時に浸透し、頑固にしがみついていた黒い油汚れを次々と包み込んでいくのが分かった。
力なんて全く入れていない。ただ、泡を転がすように優しく衣服を揉んでいるだけだ。
浴場の中に、場違いなほどに爽やかなシトラスの香りが広がっていく。
近くで体を擦っていた大柄な労働者が、その香りと、タカシの手元で起きている「異変」に気がつき、動きを止めた。
「おい……おいおい、何だそりゃあ!?」
労働者の大声に、浴場にいた他の男たちも一斉に振り返った。
彼らの目が、一様に点になる。
タカシの手元では、見たこともない真っ白な泡の山が出来上がっていた。この世界の住人にとって、石鹸とは「擦りつける固形物」であり、このように泡が自発的に湧き出すなど、信じられない光景だった。
「なんだあの泡は!? 魔法か!?」
「いや、泡からものすごくいい匂いがするぞ! 薬草か何かか?」
男たちが騒ぎ立てる中、タカシは桶の綺麗な水をすくい、シャツの泡を一気に洗い流した。
ザザーッ
泡と共に、黒く濁った油泥が綺麗に流れ落ちていく。そして、水が切れたシャツの布地が露わになった瞬間、浴場全体がシン……と静まり返った。
「嘘、だろ……」
誰かが呆然と呟いた。
さっきまで鉱山の油でドロドロだった灰色の麻シャツが、まるで今さっき一流の織り職人が仕立て上げたかのように、繊維の奥の奥まで混じり気のない「純白」に染まっていたのだ。黄ばみも、黒ずみも、獣の臭いも、何一つ残っていない。ただ、清潔な柑橘類の香りが、洗い立ての布地から優しく漂っている。
タカシは、自分の手の中にある、まだほとんど減っていない白い石鹸を見つめた。
そして、周囲を見渡す。
そこには、泡立たない茶色い塊を手に持ち、汗だくになりながら、驚きと羨望の眼差しでタカシを見つめる何十人もの労働者たちがいた。彼らの衣服や肌は、今も汚れが落ちきらずに黒ずんでいる。
(……この街の人間はみんな、落ちない汚れと臭いに悩んでいる。もし、この一瞬で汚れを根こそぎ落とす魔法の泡を、彼らに提供したらどうなる?)
理系オタクとしての知識の充足感の後に、タカシの脳裏を走ったのは、一人の商人としての電撃的なひらめきだった。
これだけの水準の食事や宿がある世界だ。人々は決して貧しくない。ただ、「汚れを落とす正しい方法」を知らないだけなのだ。ならば、この石鹸の価値は、金貨何枚に化けるだろうか。
タカシの口元が、自然と不敵に吊り上がった。
「これ……、めちゃくちゃ金になるんじゃないか?」
あの思慮の浅い女神は、『高校生の知識なんて大したことない』と笑って、この力をタカシに与えた。
だが彼女は知らなかったのだ。地球の『化学』という知識が、ファンタジー世界の常識を根本から、跡形もなくひっくり返してしまうほどの、恐るべきチート能力であるということを。
タカシの異世界での大商売の歯車が、この汚い公衆浴場の片隅から、静かに、しかし力強く回り始めた。




