第七十五話 それぞれの正しさと、旅立ちの涙 (第二部 完)
エデン村での過酷な看護生活から、幾日かが過ぎた。
「――ユア様、見てください! 俺、もう一人でこんなに歩けます!」
納屋の前で、あの初日に一番の重傷だったイケメンの聖騎士が、少し照れくさそうに笑いながら、自分の足でしっかりと大地を踏みしめて歩いてみせた。
魔法で傷を塞いだあとも、シャルロットの指示通りにみんなで血痰を吐き出させ、数時間おきに体をひっくり返し、アイちゃんが作ったジャパイモの麦がゆで血と水分を補った、あの彼だ。
「すごい……! 本当に、本当によかった……っ!」
私の言葉に、彼は深く深く、今度は義務ではなく心からの敬意を込めて頭を下げてくれた。
他の聖騎士たちも、すっかり元の健康的な血色を取り戻し、骨がくっついた後に足を動かすリハビリを頑張っていた聖騎士も、松葉杖をつきながら出発の準備を進めている。落盤で塞がれていた街道の土砂も、村の人たちや滞留していた聖騎士たちの手で綺麗に片付けられ、いよいよ教国の巡礼の旅へと戻る日がやってきた。
出発の朝。
眩しい太陽の光が降り注ぐ中、馬車の前に集まった私たちに対し、聖騎士隊の隊長と数人の神官たちが、静かに歩み寄ってきた。
そこには、この数日間、寝る間も惜しんでかいがいしい介護を行ったシャルロットとアイちゃん、そして私。さらに、食材を惜しみなく提供してくれたエデン村の農家の人たちが並んでいる。
そして、彼らが私たちの目の前まで来ると、次の瞬間、白銀の鎧をまとった隊長が、地面に勢いよく膝をついた。
そのまま、頭が大地についてしまうのではないかと思うほど、深く深く頭を下げたのだ。神官たちも、それに続くように腰を折る。
「ユア様、そしてシャルロット様を始め村の皆様方、私が間違っておりました……!!」
隊長の声は、張り裂けんばかりに激しく震えていた。彼の目から、大粒の涙が一粒、また一粒と溢れ落ち、乾燥したエデン村の大地を濡らしていく。
「他国の領地に留まるリスクや、聖女様を預かる身としての責任……そればかりに目を奪われ、一番大切な部下たちの命の現実が見えておりませんでした。もし、あのまま私の独断で出発していれば、我が小隊は全滅していたでしょう。私の無知と傲慢を、どうか、どうがっ、お許しぐだぁあい……!」
隊長は大地に額をこすりつけたまま、嗚咽を漏らして泣き続けた。
最後のほうは、しゃくり上げと涙のせいで、もう何を言っているのか言葉としては聞き取れない。だけど、彼がどれほど自分の過ちを心の底から悔いているか――。そして、誰一人として欠けることなく、この村を出発できることにどれほど深く感謝をしているのか――。その想いは、言葉にならなくとも、ここにいる全員の胸に痛いほど真っ直ぐに伝わってきた。
彼は悪い人だったわけじゃない。ただ、大人の「責任」という重圧に押しつぶされて、焦って空回りしていただけなのだ。その背中を、隣に立つシャルロットが優しい眼差しで見つめていた。
「頭を上げてください、隊長さん。……もう、誰も怒っていませんよ」
シャルロットが凛とした、だけど昨日までとは違う柔らかな声で言うと、隊長は顔を涙と泥でぐしゃぐしゃにしながら、ゆっくりと顔を上げた。
馬車の周りを見渡してみる。
あの日、泥と血の海の中で、のたうち回って死にかけていた聖騎士たちが、今は全員、自分の足で立って元気に笑っている。
「う……、うぐっ……、うあああぁん……っ!」
誰一人として欠けることなく、みんなで一緒にここを出発できる。
その圧倒的な事実に、私はもう我慢できなくなって、子供みたいに声を上げて大号泣してしまった。
日中の看護では疲れ果てて泣けなかったけれど、今あふれてくる涙は、怖くて流したあの日の涙とは全く違う、感無量の、最高の涙だった。
「あはは! ユア、泣き虫さんだなぁ。ほら、鼻水出てるよ!」
アイちゃんがいつもの陽だまりのような笑顔で、私の顔をハンカチで拭ってくれる。シャルロットも、困ったような、だけど本当に愛おしそうな顔で、私の頭を優しく撫でてくれた。
「……ありがとう。私、行ってくるね」
私は2人に手を振り、ゆっくりと動き出した豪華な馬車へと乗り込んだ。
窓の外では、シャルロットとアイちゃん、そしてエデン村の農家の人たちが、小さくなるまでずっと手を振り続けてくれていた。
がたごとと揺れる馬車のシートに、私は深く腰掛ける。
数日前、初めてこの馬車に乗った時とは、見ている景色も、胸の温度も、何もかもが違っていた。
ふと、自分の手のひらを見つめてみる。
爪の端っこはガリガリに削れて、元の世界であれだけ気を使っていたお気に入りのネイルなんて、綺麗さっぱり剥がれ落ちている。爪の間には、泥とジャパイモの灰汁が今も黒く染み付いていた。全身から、うっすらと男たちの体臭と、お粥を煮込んだ煙の匂いがする。
「……ふふ」
自然と、おかしな笑みが漏れた。
元の世界の学校に通っていた頃の私が今の私を見たら、きっと「最悪、汚い、有り得ない」って言って、全力でドン引きして逃げ出しているに違いない。
あの頃の私は、本当に小さかった。
クラスの可愛いグループの端っこに必死でしがみついて、ハブられないように周りの顔色を窺って、流行りのコスメや服で自分を必死に飾り立てていた。そうやって中身の空っぽさを隠して、自分を大きく見せることばかりに命をかけていたのだ。
異世界に来て「魔力無限の聖女」になった時、私が一瞬で天狗になって調子に乗ったのも、結局は中身が空っぽのままで、周りにチヤホヤされることでしか自分の価値を確かめられなかったからだ。
外見を飾り立てることでしか安心できなかったあの頃の自分。
それに比べて、今の私はどうだろう。
この真っ黒に汚れた手は、生暖かい血まみれの傷口に直接触れて、必死にハイ・ヒールを放った手だ。
溢れ出る血痰を、嫌悪感も忘れて布で受け止めた手だ。
大人の男の人を何度も全力でひっくり返して床ずれを防いだ手だ。
慣れない小さなナイフでジャパイモの皮を必死に剥いた手だ。
ネイルはボロボロだし、服も泥だらけで最低の身だしなみかもしれない。
だけど、自分の手で、時間をかけて、泥まみれになりながら誰かの命の時間を繋ぎ止めてみせた。その事実が、私の心の中に、何よりも硬くて強い自信の根っこを張ってくれていた。
飾らなくたって、私はここにいる。私には、私の意志で救える命がある。
カーストや他人の目線なんて小さなものに怯えていたあの頃の自分と比べて、今の私は、自分の足でちゃんと大地に立てるくらい、一回りも二回りも大きくなれた気がした。
シャルロットが、最後に言ってくれた言葉が耳の奥で優しく蘇る。
『大人たちの都合よく利用されることだけは絶対に止めなさい。……これからは、あなたの好きにしなさい』
「うん、私の好きにするよ。ばあちゃん」
私は窓の外の、流れていく帝国の景色をまっすぐに見つめた。
教国の大人たちが、この後にどんな下らない政治や都合で私を操ろうとしてきても、もう絶対に流されたりしない。
私は私の意志で、私が助けたいと思った人を、このチート魔法と泥臭い根性で全員救って見せる。
ネイルの消えた真っ黒な手をぎゅっと握りしめながら、私は新しく生まれ変わった「本物の聖女」として、次なる旅路へと歩みを進めた。
窓の向こうから差し込むまっすぐな陽光が、私のボロボロの手と、迷いの消えた横顔を力強く照らし出していた。
ここまで読んでくださり、本当にありがとうございました!
本日の更新をもちまして、第2章、第二部が完結いたしました。
異世界に来て最強の魔法を貰い、最初は天狗になっていたユア。そんな彼女が、本物の血の海に鼻をへし折られ、お気に入りのネイルを真っ黒に染めながら『本当の看護』を経験していく姿が、皆様の心に届いていたら嬉しいです。
シャルばあの「あなたの好きにしなさい」という言葉を胸に、一回り大きくなって旅立ったユア。
彼女はきっと、教国の政治になんか負けない、本物の聖女になってくれるでしょう。
さて、明日からは第2章、第三部へと突入します!
第三部ではクラフトチートを授かって異世界に転移した高校生の物語が始まります。彼がどんな運命に巻き込まれ、どんな選択をしていくのか……。どうぞお楽しみに!
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