第七十三話 魔法なき戦い、本当の看護
「……え? もう、魔法の出番はない、の?」
翌朝、納屋の裏手にある簡易調理場で、私は思わず呆然とした声を上げていた。
私の問いかけに、銀髪を揺らしたシャルロットが、大真面目な顔で小さく頷いた。
「ええ。あなたの『ハイ・ヒール』は、傷口を塞ぎ、壊れた骨を元に戻す奇跡の力。ですが、失われた血や、乾ききった細胞を内側から生み出すことはできません。昨日で傷自体の治療はすべて終わりました。ここから彼らに必要なのは、地道な栄養補給と絶対の安静、そして介護です。――つまり、これ以降はもう、あなたの魔法が必要とされる場面はありません」
「必要、ない……」
シャルロットの淡々とした言葉が、私の胸に重く突き刺さる。
頭の中が真っ白になった。
女神様から貰った無限の魔力と、最強の回復魔法。この世界に召喚されてからの3日間、それこそが私のすべてだった。みんなに「聖女様!」と拝まれたのも、昨日あの血まみれの地獄で覚悟を決められたのも、私にしかできない『ハイ・ヒール』があったからだ。
なのに、もう必要ない。出番がない。
(じゃあ……魔法の使えない私は、ここで一体何をすればいいの……?)
ただの高校1年生。医療の知識も、特別なスキルも何もない子供。
自分の存在価値を急に奪われたような気がして、私はどうしていいか分からず、ただその場に立ち尽くしておろおろと自分の手のひらを見つめることしかできなかった。
そんな私を見て、アイちゃんが「ユア、何言ってるの!」と私の背中をバシッと力強く叩いた。
「魔法の出番がなくても、あなたの出番はこれからでしょ! ここからは体力勝負だよ! ご飯の準備に、騎士さんたちの汗拭き、やることは山ほどあるんだから! ほら、まずはご飯!」
アイちゃんが運んできたのは、このエデン村の名産品だという大量の『ジャパイモ』と麦だった。
お米がないこの世界では、すり潰したジャパイモと麦をコトコト煮込んだ、とろみのある『麦がゆ』が、血の足りない騎士たちに一番の栄養になるのだとシャルロットが教えてくれた。
慣れない手つきでジャパイモの皮を剥き、灰汁で手を真っ黒にしながら作ったお粥。それを木のお椀に分け、私は両手に抱えて納屋へと戻った。
ここからが、本当の、泥まみれの「戦い」の始まりだった。
納屋の中は、独特の生臭い体臭と、熱気がこもった重苦しい空気が満ちていた。昨日、私のハイ・ヒールで外傷は完全に治ったはずの騎士たち。だけど彼らは、ワラの上に横たわったまま、燃え尽きた灰のようにピクリとも動けないでいた。
「う……あ……」
まだ自力で起き上がることすらできない大男の騎士。
その枕元に腰掛け、私はスプーンでお粥をすくい、ふーふーと息を吹きかけて彼の唇に近づける。だけど、彼は飲み込むことすら億劫なように、弱々しく首を振った。
「ダメだよ、食べなきゃ。……ゆっくり、少しずつでいいから」
元の世界の学校では、他人にこんなに必死に声をかけたことなんてなかった。
だけど今は、彼の冷え切った手に自分の手を重ね、泥臭く語りかける。大事故のショックで心が折れ、生きる気力を失いかけている彼らの『心』を励ますのも、今の私の仕事だった。
お粥を食べさせ終えたら、次はもっと過酷な作業が待っていた。
「ユア、手伝って! このままだと床擦れになっちゃう!」
「う、うん……っ!」
アイちゃんに呼ばれ、寝たきりの騎士の体を数時間おきにひっくり返す『体位変換』を行う。重い鎧を脱いだとはいえ、鍛え上げられた大人の男の体は想像以上に重い。一人を寝返りさせるだけで、私の細い腕は千切れそうになり、腰にズキンと鋭い痛みが走った。
さらに過酷だったのは、肺を損傷していた騎士たちの排痰だった。喉の奥からゴロゴロと不快な音が響く。彼らは自力で痰を出せない。そのまま放置すれば、また息が詰まって死んでしまう。
「背中を叩くわ。ユア、吐き出されたものを布で受け止めなさい」
「は、はいっ……!」
シャルロットの指示の元、騎士の背中をポンポンと叩くと、口から血の混じったドロドロの汚い痰が激しく吐き出される。
ツンとする嫌な臭いが鼻を突き、吐き気が胃からせり上がってくる。元の世界の私なら、悲鳴を上げて逃げ出していた。だけど今は、涙目で必死にその汚物を布で拭い、彼の呼吸が楽になるのをただ見守った。
骨が折れていた騎士たちには、くっついたばかりの足を動かす『筋肉のリハビリ』の手伝いもした。
「痛い、動かん……」と弱音を吐く強面の騎士に、「大丈夫、ちょっとずつやろう? 骨はくっついているんだから、絶対歩けるようになるよ!」と、ぐしゃぐしゃの顔で笑いながら、彼の足をゆっくりと曲げ伸ばしする。
シーツについた泥や血、吐き出された痰を落とすために、裏手の川で何度も冷たい水に手を浸して洗濯をする。
指の爪はガリガリに削れ、カースト上位のグループにいるために現世であれだけ気を使っていたネイルなんて、あっという間に全部剥がれ落ちた。爪の間は泥とジャパイモの灰汁で真っ黒だ。全身から、汗と、煙と、男たちの体臭の匂いがする。
夕方、全ての作業が一段落して、私は納屋の裏の切り株に、文字通り魂が抜けたようにドサッと座り込んだ。
足の裏がジンジンと激しく痛み、腕はもう1センチも上がらない。
「……はは、マジでボロボロじゃん、私」
自嘲気味に呟いたけれど、不思議と嫌な気持ちはこれっぽっちもなかった。
お手軽に「奇跡」を起こしてチヤホヤされていた、あの薄っぺらい天狗の私は、もうどこにもいない。自分の手を汚し、腰を痛め、泥まみれになりながら、誰かの命の時間を確かに繋ぎ止めている。
その生々しくて過酷な現実が、今の私には、何よりも誇らしかった。




