第六十一話 朝練と、太陽の女子マネ
静かな朝の空気を切り裂くように、宿舎にカンカンとけたたましい鐘の音が響き渡った。
紐を引いているのは隊長のギルバートだ。
「起床! 朝の訓練を始めるぞ!」
その力強い号令が響いた瞬間、小田圭はベッドの上でぼんやりと目を擦った。学校をサボりがちだった前世の引きこもりオタクにとって、早朝の目覚めはそれだけで頭が追いつかない。
だが、驚いたのはその後だった。昨日まであんなに陽気にバカ話をしていた二十歳前後の若い隊員四人が、恐るべき速さで身支度を整え、あっという間に宿舎を飛び出していったのだ。オンとオフの切り替えの凄まじさは、さすが領主直属のエリート騎士だった。
一人ベッドに取り残され、タンクトップと寝間着姿で固まっている圭に、ギルバートが優しく声をかけた。
「圭くん、朝飯の前にひと汗流すか? それともまだ眠いか?」
その問いかけを聞いた瞬間、圭の体はピクリと強張った。
運動が苦手だった前世の圭は、体育の時間に周りから遅れるたび、バカにされて笑われた苦いトラウマがある。それが原因で部屋に引きこもるようになった。
運動なんて、本来なら真っ先に逃げ出したい大嫌いなものだ。
だが、圭の心の中には、ずっと蓋をしてきた強い想いがあった。本当は、前世のグラウンドで汗を流していた奴らに、少し憧れていたのだ。自分には一生縁がないと諦めて、ネットゲームの仮想世界に逃げ込んでいたけれど、あの爽やかな輪に入れるものなら入りたいと、ずっと思っていた。
(昨夜のあの人たちなら……もしかしたら……)
過去の恐怖を、昨夜感じた温もりと、ずっと抱いていた熱い憧れが塗り替えていく。圭は生唾をごくりとのみ込み、震える声を振り絞るようにして答えた。
「……おれも、やり、ます」
それは、引きこもりだった圭が、ずっと夢見ていた眩しい世界へ向かって、必死に踏み出した大きな一歩だった。
着替えなど持っていない。圭はそのままの奇妙な格好で、外へと飛び出した。
一歩踏み出した瞬間に肌をなでた、ひんやりとした早朝の空気は、驚くほどに美味かった。
兵士たちの訓練は、まずマラソンから始まった。
彼らが軽く準備体操を済ませると、ギルバートを先頭に一斉に走り出す。圭はその一番後ろから、必死になって遅れてついていった。
女神からもらったチート能力で、筋力も俊敏もカンストしているはずだった。だが、走り始めてすぐに圭は残酷な現実に気がついた。
(スタミナが……全然、もたねえ……!)
一瞬のパワーやスピードは最強でも、長く走り続ける『持久力』は、前世の引きこもりオタクのまま全く変わっていなかったのだ。
鍛え上げられた兵士たちが涼しい顔で何周も走り込んでいく中、圭はたった一周を走り切るのがやっとだった。
数周遅れで、目の前を真っ白にしながら何とか戻ってきた圭は、倒れ込むようにして地面に座り込んだ。
激しい息切れのなか、バカにされるのかと身構える。しかし、戻ってきた兵士たちが圭を囲み、口々に声をかけてくれた。
「やるじゃねえか!」
「慣れてないと、最初は疲れるよな」
「気にするなよ、俺も最初の頃は吐きそうになってたからさ!」
そこには、圭をバカにしたり笑ったりする者は一人もいなかった。
前世の日本にいた頃の圭は、大の運動苦手だった。体育の時間にヘロヘロになって周りから遅れるたび、クラスの運動ができる奴らにバカにされ、クスクスと笑われた苦い経験がある。それが嫌で、ますます学校から足が遠のき、部屋に引きこもるようになったのだ。
だからこそ、今の兵士たちの言葉が、圭の凍りついていた心へじわりと染み渡っていく。
ただそれだけのことが、今の圭には涙が出るほど嬉しかった。
その後も過酷な訓練は続いた。
さすがに圭の体力では、エリート騎士たちのすべてのメニューについていくことはできなかった。それでも、圭は不格好なりに、自分のできる範囲で必死に頑張ることにした。バカにされないという安心感が、彼の背中を押していた。
彼らに比べれば大した運動量ではないはずなのに、一つのメニューが終わるたび、兵士たちは「いい動きだったぞ」「ナイスガッツ!」と声をかけてくれた。
学校でも家でも、ずっと自分の殻に閉じこもっていた圭にとって、誰かと一緒に汗を流し、認め合えるその『連帯感』は、人生で初めて経験する特別なものだった。
そんな訓練が終わりかけ、全員が心地よい疲労感に包まれていた時のことだ。
「はーい、皆さんお疲れ様です!」
宿舎の向こうから、明るい声が響いた。
やってきたのはアイリスだった。その手には、人数分の飲み物が入った木のコップがお盆の上に置かれている。
コップからは、ふわりと甘酸っぱい柑橘類とはちみつの良い匂いが漂ってきた。
アイリスは、まるで前世の日本の高校にあった、部活のマネージャーさながらの自然さで、汗をかいた兵士たち一人一人に「はい、どうぞ!」「お疲れ様!」と笑顔で手渡していく。
その光景を、圭は少し離れた場所からぼんやりと眺めていた。
前世の高校。サボりがちだった学校のグラウンドで、自分とは違う世界の住人である運動部員たちと、そのマネージャーがやっていたような眩しい日常の1コマ。
引きこもりだった自分には、一生縁がないと思っていた遠い世界の出来事だった。
そんなことを考えていると、ライトブラウンのふんわりとした髪を揺らして、アイリスがトトッと圭の前で足を止めた。
琥珀色の温かい瞳が、タンクトップ姿で肩で息をしている圭をまっすぐに見つめ、木のコップを差し出してくる。
「はい、圭くんもお疲れ様。よく頑張ったね!」
不意に飛び込んできた眩しい笑顔に、女子に不慣れな圭はそれだけで心臓が跳ね上がり、思わずドギマギして視線を泳がせてしまった。
「あ、えっと……お、俺にも、ですか……?」
「もちろん! ほら、冷たいうちに飲んで?」
「あ、うん。……ありがとうございます」
受け取ったコップに口をつけ、一気に喉へと流し込む。
キュンと酸っぱい柑橘の酸味と、はちみつの優しい甘さが、乾ききった体に染み渡っていく。
「どう? 美味しい?」
「……めちゃくちゃ美味い、です。生き返る……」
「よかった!おばあちゃん特製のシロップなんだよ。圭くん、初めての訓練なのに最後まで投げ出さないで本当に偉いね。みんなも驚いてたよ?」
そう言って、アイリスは自分のことのように嬉しそうに微笑む。
前世では運動ができないことをただ笑われるだけだった。こんな風に頑張ったことそのものを、誰かに真っ直ぐに褒めてもらえるなんて、人生で初めてのことだった。
「……別に、大したことないです。周回遅れだし……」
「ううん、その一歩が大事なんだよ。はい、おかわりもあるからね!」
屈託のないアイリスの言葉と、手渡された甘酸っぱいドリンクの余韻。
前世では遠くから眺めるだけだった『眩しい世界』の真ん中に、今、自分が確かにいる。
圭の胸の奥は、朝の太陽の光とはまた違う、心地よい熱さでじんわりと満たされていくのだった。




