第四十八話 氷の執着の源流と、完璧な檻
ヴァルハイト帝国の辺境でエドワードが独占欲の炎を燃え上がらせているまさにその頃、グランベル王国の首都にある新首相執務室の中では、アルベルトが静かに書類仕事に向き合っていた。
「……これで、実質的にシャルロットの敵はいなくなったな」
アルベルトはデスクの上に広げられた王国の全権書類を見つめ、氷のように冷徹な笑みを浮かべた。
不正貴族の粛清、おイモの利権による民衆の掌握、そして王太子の廃嫡と合議制への移行。一連の完璧なチェックメイトを経て、今やこのグランベル王国において、アルベルトに逆らえる者など、たとえ玉座に座る国王であろうと一人として存在しなかった。
だが、国家の頂点に登り詰めたこの男の脳裏を満たしていたのは、政治の勝利の快感などでは断じてなかった。
切れ長の瞳が冷酷に見つめていたのは、遠い過去――最愛の妹、シャルロットが十歳だった頃の記憶の残滓である。
シャルロットは十歳の誕生日、王太子ジークハルトの婚約者として抜擢された。それがすべての始まりであり、歪みの起点だった。
公爵家の娘として、未来の王妃として、シャルロットにはその日から常軌を逸した「王太子妃教育」という名の過酷な拷問が課せられた。朝から晩まで分厚い歴史書や礼儀作法の講義に追われ、一分の隙も許されない完璧なお面を被ることを強要される日々。
まだ幼かったシャルロットが、その厳しい教育の重圧にもがき、苦しみ、夜には誰にも見せぬ涙を流して張り詰めていた姿。
当時、兄であったアルベルトは、それをただ傍らで、拳を血が滲むほど握り締めながら見ていることしかできなかったのだ。
(あの時の私は……『これはシャルロットのためだ。公爵子息として、私も自分の義務を頑張らなければならない』と、自分に言い訳をして納得させていた……)
王太子妃という最高の栄誉を勝ち取り、宮廷の頂点に立てば、耐え抜いたシャルロットの前には必ずや幸せが待っているだろう。そう自分に言い聞かせ、手を伸ばすことを堪えていた。
「――だが、それは決定的な間違いだった」
パキリ、と、アルベルトの握る高級な万年筆に亀裂が入った。
冷徹な鉄面皮の奥で、どす黒い後悔と狂気的なまでの身内愛が、泥のようにドロドロと溢れ出す。
ジークハルトのような世間知らずの俺様若造に、最愛の妹を害する権利など最初からなかったのだ。あの理不尽な婚約破棄を聞き及んだ瞬間、アルベルトの中の「兄としての義務」は、完全に一線を越えて暴走を始めていた。
もっと早く、私がシャルロットをこの手で囲い込んでいれば。
王宮の羽虫どもに目もくれず、実家の権力を力尽くで奪い取ってでも、彼女を世界の誰の手にも届かない安全な場所に隠していれば。シャルロットがあんな過酷な教育に苦しむことも、追放されて辺境の開拓村で泥にまみれることも、最初からすべて防げたはずだったのだ。
「遅すぎたな。だが、ようやくすべてを片付けたぞ、シャルロット」
アルベルトは窓の外、自らの手で仕組みごと作り変えた王都の街並みを見下ろした。
お前を脅かす陰謀はこのグランベル王国にはもう何一つ存在しない。
過酷な宮廷で傷ついたお前の心を、今度は私が、この完璧に作り上げた絶対安全圏という名の「美しい檻」の中で、生涯をかけて甘やかし、守り抜いてあげる。
「お前はもう、何も頑張らなくていい。ただ私の用意した特等席で、のほほんと笑っていればいいんだ……」
次期当主の責任という仮面を被りながら、誰もが畏怖するほど有能で、世界で一番妹への執着の度が過ぎている兄は、確信に満ちた冷酷な微笑を浮かべた。
「……ヒッ、ひぃぃぃ……っ!!」
その時、静まり返った執務室に、情けない悲鳴が響き渡った。
デスクの横で、残りの書類を抱えて佇んでいた親友のクロードが、ガタガタと震えている。その青白い顔はもはや限界を突破しており、狂気に満ちたアルベルトの独白を聞いて、本気で恐怖のどん底に叩き落とされていた。
「ア、アルベルト……!君、今さらりと恐ろしいことを言わなかったかい……!?頑張らなくていいって何!?特等席で笑っていればいいって何!?国家の仕組みをまるごとひっくり返した大革命の動機が、ただ妹を私有化して一生自分のそばに閉じ込めておくためだったなんて、狂ってる、狂いすぎているよ……!!」
「閉じ込めるとは心外だな、クロード。私は一族の長として、シャルロットに至極真っ当な平穏を用意しただけだよ」
アルベルトは手の中で完全にへし折れた万年筆をゴミ箱へと放り捨て、真新しい白絹の手巾を取り出して、指先に付着した黒いインクを丁寧に拭い取った。そして、怯える親友を冷徹な瞳で見下ろしながら、淡々と言い放つ。
「身内から生まれる『不和』のリスクはできる限り排除しておかなければならない。元婚約者は潰した。次は我が公爵家の親類ども、そして……これから彼女に近づく全ての『身内候補』を精査する」
「顔が怖い!その冷静な顔のまま、恐ろしいことを言って平然としている君が一番怖いんだよ!誰か助けてくれ、この男の妹への愛情は、もう他人が触れていい領域を超えている……!」
クロードが諦めたように手元の書類に目を落としながら、ガタガタと机に突っ伏したが、アルベルトは冷徹な顔のまま当然のように無視した。
一刻も早く残務を片付け、国境のエデン村へ全権を以てシャルロットを回収しに行くために、次の決裁書類へとペンを走らせるのだった。




