第三十九話 寒仕込みの朝と、薫り立つ至高の肉じゃが
「はぁー、やっぱり冬の終わりの朝の空気は、ピリッとしていてお肌が引き締まりますね」
私は大きな縁側で温かい緑茶をずずっと啜りながら、白く染まる息と一緒に満足なため息を漏らしていたの。
エデン村の我が家の周りには、まだうっすらと冬の残雪が白く輝いているけれど、お日様の光にはほんのりと春の気配が混じり始めていて、なんとも心地いい季節だこと。ふと大きな庭先に目を向ければ、パチパチ、パチパチと、小気味いい音が朝の静寂に優しく響き渡っているわ。
「おばあちゃん、これくらいの色合いで大丈夫かな……? 焦げついてない?」
「あらあら、アイちゃん。どれどれ……まぁ、なんて上手なのかしら! 完璧に綺麗なきつね色。普通の元女子高生だったなんて信じられないくらいですわ。手際が良いわね」
大きな焙烙を熱心に揺すりながら、お顔を煤でちょっと黒くしたアイちゃんが、はにかむように嬉そうに微笑んだわ。あの秋の大激動の夜、王宮での破滅の恐怖からボロボロになって逃れてきて、わたしの出来立ての麦みそ汁にボロボロと涙を流していた少女がね。今ではこうしてわたしの「可愛い孫」として、のんびりとお醤油の仕込みをお手伝いしてくれている……。
この穏やかな朝の光景を見るだけで、おばあちゃん、あの時アイちゃんを丸ごと抱きしめてあげて本当によかったなぁって、胸の奥がじんわり温かくなっちゃうのよね。
「よかったぁ。おばあちゃんのお醤油、本当に美味しいから、次の二代目の仕込みの年中行事、絶対に失敗したくなかったんだ。初代のお醤油も、お家の中でプクプク育ってるもんね」
「そうなの。秋に仕込んだあの子は、今もお家の薄暗い特等席で、冬の寒さに耐えながら静かに美味しく発酵を続けている真っ最中なのです。だけどお醤油は完成までに一年以上かかる息の長い調味料だから、来年や再来年のために、こうして次のロットの大豆を使って新しい仕込みをしておくのが大切なのですよ」
冬の終わりから春先にかけて仕込むこの「寒仕込み」はね、余計な雑菌が繁殖しにくくて、お醤油がじっくりと極上の旨味を蓄えるために、おばあちゃんの知恵袋として最も理にかなった最高のタイミングなの。
「よし! じゃあ次は大麦を煎るね!」
と、すっかりここの家族として定着したアイちゃんが、足取りも軽く次の作業へと移っていく。
あの迷子事件を乗り越えて、少し坂を上った隣の老夫婦のところで、泥まみれになりながら本物の命の誕生に立ち向かったアイちゃんの背中には、もう怯えていた頃の影なんて一ミリも残っていなくて、本当に頼もしい限りだわ。
そこへ、庭先の大きな畑から、パチパチとお豆を煎る香ばしい匂いに誘われるようにして、ギルくんがこちらへ歩いてきたわ。
「ふぅ、シャルロット様、アイリスさん。こちらの畝の整えは、ひとまず終わりました!」
見れば、袖をまくり上げた逞しい腕には黒い泥がつき、額にはキラリと健康的な汗が光っているの。手にはクワをしっかりと握りしめていて、その佇まいはもう、辺境領のエリート騎士様というよりは、どこからどう見ても生粋のプロの農家さんそのものじゃないの。知ってるのよ。これぞまさにギャップ萌えってやつでしょう?
エドワード様が国費で建設してくれた大規模な「大農園」の方は、派遣されたプロの職人さんたちが毎日見事な手際で回してくれているけれど、私の護衛としてここに駐留しているギルバート様たち五人の騎士様たちは、この我が家の庭先にある「結構大きめの畑」が毎日の大事な持ち場になっているのよ。大農園に負けじと、私の庭先の畑でも大豆や小麦をしっかり「輪作」しているから、彼らは毎日そこを大汗をかいて耕してくれているわ。
「まぁ、ギルバート様、お疲れ様です。どれどれ……まぁ、美しい畝ですわね! 土の盛り方といい、水はけの計算といい、完璧に職人の技です。これなら次の大豆も小麦も、気持ちよくすくすくと育ってくれますわね!」
「ははは、ありがとうございます。最初はクワの持ち方すら分からず、シャルロット様に一から叩き込まれましたが……今ではすっかり、土の湿り気を見ただけで、明日の天気が予想できるようになりました」
そう言って、白い歯を覗かせて快活に笑うギルくんの姿に、おばあちゃん、思わず目を細めちゃうわ。だってギルくんは本物の気高き騎士様なのよ?それが今や、大汗をかいて泥まみれになりながら、「いやぁ、今年の土は一段と良い肥え具合ですね!」なんて嬉しそうに語っているんだから。アイちゃんも「今のギルバートさんってすっかりエデン村の頼もしいお兄ちゃんって感じだよね」と大尊敬の眼差しを向けているわ。
「おっと、シャルロット様、そちらのお醤油の仕込み、私にも何か手伝う男の力仕事はありますか?」
「あら、ありがとうございます。それじゃあギルバート様、あっちの納屋から、次の仕込みに使う大麦の入った重たい麻袋を、ここまで運んできて頂けます?」
「はっ! お任せください!」
クワを置いて、逞しい青筋を浮かべながら大きな麻袋をひょいと肩に担ぎ上げるギルくん。エリート騎士としての圧倒的な身体能力を、これでもかと贅沢に「お醤油の寒仕込み」の労働力として使わせてもらえるんだから、おばあちゃん、本当に贅沢で大助かりですわ。
そんな風に、みんなで賑やかにお醤油の準備を進めていた、まさにその時よ。「ごめんくださいなー!」と、我が家の門のほうから、とっても賑やかで温かい声が響いてきたの。
「あら、まぁ……!」
驚いて縁側から覗き込んでみれば、そこに立っていたのは、坂の上の老夫婦の家のお爺さんとお婆さん、高地で遭難しかけたあの夜にお世話になったお隣の二人の子供たちとお母さん、さらには村長さんまで一緒じゃないの!みんな両手に、何やらこれでもかと大きな木箱や大きなツボを抱えているわ。
「シャルロット様、アイリスちゃん! ちょうど今朝、あの時の母牛から搾った、一番濃厚で極上の生乳をたくさんツボに詰めて持ってきたんじゃ! ぜひ最初にアイリスちゃんに飲んでほしくてな!」
「アイリスお姉ちゃん! これ、お庭で真っ赤に実ったとれたてのイチゴだよ! 一番大きくて甘いやつ、お姉ちゃんに食べてほしくて!」
お爺さんが誇らしげに白い生乳のツボを掲げ、二人の子供たちが満面の笑顔で、両手いっぱいのイチゴの箱をアイちゃんへ差し出したの。その瞬間、アイちゃんのお顔が、驚きと溢れんばかりの喜びでパァッと輝いたわ。
「おじいさん、おばあさん……! それに、みんな……! わぁ、なんて綺麗なイチゴ……ありがとう、本当に嬉しい……!」
子供たちと同じ目線になるようにしゃがみ込んで、イチゴの箱を大切そうに受け取るアイちゃん。その横顔を見ていたらね、村の人々の温かい言葉やお返しに触れるたび、彼女の瞳からかつての不安が完全に消え去り、村の真ん中で「本当の居場所」を見つけて会話を弾ませているのが、手に取るように分かってねぇ。おばあちゃん、胸の奥がじんわりと熱くなっちゃったわ。
「おや、なんとも香ばしい良い匂いが漂っていると思ったら……シャルロット様、これは一体何の仕込みですかな?」
村長さんが白い髭を撫でながら不思議そうに鼻をピクピクさせているから、私はにっこりと微笑んで、袖をグッとまくり上げたわ。
「ふふふ、村長さん、皆さん、ちょうど良いところにきてくださいましたわ。畑にいる他の騎士様たちも呼んで、今すぐ縁側に集まってください。ちょうど、最高のご褒美が出来上がったところですのよ」
お台所から、私が大きなお皿にてんこ盛りにした料理を縁側へと運び出す。交易所から仕入れたお砂糖と甘味果実、前からお家の暗がりで静かに発酵を続けていた『初代のお醤油』を贅沢に使い、塩漬けの干し肉と我が家のおイモをコトコト煮込んだ家庭料理――『肉じゃが』よぉ!ここは山間の開拓村だから干し肉しかないけれど、薄く切ってお水でじっくり煮出してあげれば、旨味たっぷりのお出汁に早変わりするのよ。
甘じょっぱくて芳醇なお醤油の香りがふわぁっと広がった瞬間、縁側に集まった村の皆さんも、ギルくんたち五人の騎士様たちも、「な、なんという美味そうな匂いだ……っ!」と一斉に目を丸くしたわ。
「さぁさぁ、冷めないうちにみんなで召し上がれ。お爺さんたちがくださった牛乳も、今お鍋で温かくしてあげますわね。淹れたての温かい緑茶もたっぷりありますわよ」
みんなで縁側にずらりと並んで、賑やかにお箸を動かし始めたの。一噛みした瞬間、お爺さんもお婆さんも、村長さんも「なんという深みのある味じゃ……!」「おイモの美味さが完全に化けておる……!」と、大絶賛の声が上がったわ。
ギルくんなんて、これまでに見たこともないほどの熱い感動の涙目を浮かべながら、
「シャルロット様……っ! これは過去に食べた、いかなる高級食材を以てしても並び立つことのない『至高の奇跡』です……! お醤油のコクが干し肉の旨味を極限まで引き出し、おイモの芯まで染み込んでいる……! う、美味すぎる、美味すぎます……っ!」
と、お皿に残った汁まで最後の一滴まで、魂を震わせるようにしてごくりと飲み干しているじゃないの。でも、そこまで熱く語ってくれておばあちゃん嬉しいわ。
そんな大人たちの賑やかな大騒ぎの真ん中で、アイちゃんは子供たちに「これ、お醤油っていうんだよ。すっごく美味しいでしょ?」って優しく微笑みながら、自分もお口いっぱいにホクホクの肉じゃがを頬張って、嬉し涙をポロポロと零しているの。
「おばあちゃん……ぐすっ、本当に、本当に美味しい……! 私、みんなと一緒に、こんなに温かいご飯が食べられるなんて思ってなかった……!」
「まぁまぁ、アイちゃん、お鼻が真っ赤よ。本当に泣き虫さんですわねぇ」
私は縁側からアイちゃんの頭を優しく撫でてあげたわ。普通の女子高生だったこの子がね、理不尽な恐怖を乗り越えて、自分の足で一歩を踏み出したからこそ、こうして村の皆さんに心から愛され、温かいお茶の間の笑顔の輪の中にいる……。
お互いにお返しを贈り合い、会話を弾ませながら幸せそうに肉じゃがを頬張るアイちゃんと村の皆さんの姿を、わたしは縁側に腰掛けてニコニコと眺めていたの。これまでの全ての激動を乗り越えたからこその、この穏やかなお茶の間の光景こそが、おばあちゃんにとっては最高の宝物ですこと。
王都のお兄様はちょっと申し訳ないけれど、今日も世界一平和で美味しいユートピアなのよ。
「さぁ、皆さん。お茶も温かい牛乳もたくさんありますから、喉を詰まらせないようにずずっと啜りながら、召し上がってくださいね」
アイちゃんの元気な笑い声と、村の皆さんの賑やかな歓声を聞きながら、隠居スローライフに改めて優しく目を細めるのだった。




