第三十七話 夜の迷子と、小さなランタン(中編)
「……ハァ、ハァ、ハァ……っ! う、嘘……、真っ暗、で……っ!」
ランタンの頼りない灯りだけを頼りに、私は木の根が複雑に絡み合う暗闇の原生林を、ただひたすらに、一目散に走り続けていた。
ただ焦りで頭が真っ白になりながら、無我夢中で足を前に動かすことしかできない。
だけど、一歩、また一歩と森の奥へ突き進むにつれて、私の心は凄まじい恐怖にガタガタと支配されていった。
(怖い……っ! 怖いよ……っ! ランタンの光が、闇に吸い込まれて全然先が見えない……っ!)
前世ののほほんとした普通の女子高生だった私の記憶が、頭の中で狂ったように悲鳴を上げ続けている。
夜の魔物の森に、ただの一般人が灯り一つで飛び込むなんて、ただの自殺行為だ。冷たい夜の風がヒタヒタと肌を刺し、不気味な葉擦れの音が、まるで怪物がすぐ耳元で囁いているかのように響く。踏みしめる濡れた土の感触さえ恐ろしくて、木の影がすべて、今にも襲いかかってきそうな魔物の姿に見えてくる。恐怖で心臓が口から飛び出しそうで、涙が次から次へと溢れて視界を滲ませた。
それでも、私は走るのをやめられなかった。
(お願い、無事でいて……っ! どこにいるの……!? 二人とも……っ!!)
私に純度100%の「ありがとう」をくれた、あのお口ツヤツヤの男の子たちが、今このおぞましい暗闇のどこかで怯えているのだ。そう思っただけで、恐怖を上回る焦燥感が、すくみそうな私の足を無理やり前に突き動かしていた。
「――う、うわぁぁぁん……っ! おかあさぁん……っ!」
どれほどがむしゃらに、泣きそうになりながら暗闇を彷徨っただろう。
生い茂る茂みの奥から、かすかに、けれどはっきりと、小さな子供たちの泣き声が聞こえた。
「……っ! あっち……!?」
夢中で茨を掻き分け、ランタンをかざしながら必死に目を凝らす。
すると、大きな大木の根元に、お互いを小さく抱きしめ合いながらボロボロと大粒の涙を流している、あの二人の姿がようやく、ようやく視界に飛び込んできたのだ。
(あぁ……よかった……!! 見つかった……っ!!)
その姿を目にした瞬間、全身の血がドッと一気に温かくなるような、言葉にできないほどの圧倒的な安堵感が胸を突き上げていった。生きていた。無事だった。張り詰めていた恐怖が安堵の涙へと変わり、私はランタンを地面に放り出すと、二人に向かって駆け寄った。
「アイちゃんおねえちゃん……っ!」
「こわかったぁぁぁ……っ!」
「よかった……! 本当に無事でよかったぁ……っ!!」
私は泥だらけになって震える二人を、もう離さないとばかりに強く、強くその腕の中に抱きしめた。
その温かい体温に、心からホッと息を吐き出した、まさにその瞬間のことだった。
「――ギ、ギギッ」
後ろから背筋が凍りつくような、どす黒い悪意の混じった鳴き声が響いた。ハッとして顔を上げると、ランタンの光に照らされた暗闇の向こうから、醜悪な緑色の肌をした不気味な魔物――ゴブリンが、ニタァと耳まで裂けた口で下品な笑みを浮かべながら、四匹も武器を片手にのそりと這い出てくるところだった。
(嘘……でしょ……っ!?)
ゴブリンたちの濁った瞳が、獲物を見つけた残酷な歓喜に歪む。
突然の出来事に、私の脳はショートを起こし、一歩も動けなくなった。
チート能力なんて何一つない、魔法も剣術も使えない、ただの元女子高生。戦う手段なんて、私にはこれっぽっちも無かった。
ゴブリンたちが、いやらしい足音を立てて、一歩、また一歩と私たちとの距離を詰めてくる。
私の腕の中で、子供たちが「ひぃ……っ!」と短い悲鳴を上げて、恐怖に小さな体をガタガタと激しく震わせた。
(どうすればいいの……!? 私が逃げたら、この子たちが殺されちゃう……っ!)
お面を張り付けて生存ルートを計算していた王宮の私なら、真っ先に自分の身の安全を考えていたかもしれない。
だけど、今ここにいるのは、お面を脱ぎ捨てて、この村で本当の生きる喜びを知った、ただのアイリスだ。
「――こっちに来ないで……っ!!」
後先なんて、何も考えられなかった。
私は恐怖で手足がちぎれそうなほど震えながらも、小さな二人を自分の体の後ろへと必死に押し込み、その小さな命をかばうようにして、自分自身の体を大きく盾にして立ちはだかった。
目の前に、ゴブリンの振り上げた錆びた剣の冷たい光が迫る。私は恐怖のあまりギュッと両目を強く伏せ、訪れるであろう衝撃に歯を食いしばった。
(お願い……っ、誰か……っ!!)
ドンッ……!!!
凄まじい衝撃音と共に、私の目の前で、ゴブリンの一匹が不気味に宙を舞って一瞬で消し飛んだ。
恐る恐る目をあけると、そこには、抜剣された美しい銀色の剣を携え、月光を浴びて私の前に毅然と立ちはだかる、背中の大きな騎士の姿があった。
「ギ、ギルバート……さん……っ!?」
「ハッ――!」
ギルバートさんは言葉を発するよりも早く、鋭い気合いの一閃と共に銀色の剣閃を闇の中に走らせた。
目にも留まらぬ速さの流麗な剣技。
お庭で泥だらけになってクワを握り、不器用に畑仕事を手伝ってくれていた、あの優しそうなお兄さんの面影なんて、そこには1ミリも無かった。襲いかかってきた残りのゴブリンたちは、反撃の隙すら与えられないまま、あっという間に一瞬で地面へと斬り伏せられていく。
(すご、い……っ。この人、本当に、本物の騎士様なんだ……っ!)
圧倒的な強さと、その気高すぎる剣技の美しさに、私は息をするのも忘れてただただ呆然と見惚れてしまった。
剣についた血を鋭く払い、鞘へとカチリと収めたギルバートさんは、肩で大きく息をしながらゆっくりと私の方へ振り返った。そして、いつものあの誠実で、一寸の曇りもない温かい笑顔を向けて、そっと手を差し伸べてくれたのだ。
「……無事で、本当によかった」
口数少なく、ただ真っ直ぐに私たちの身を案じてくれたその実直な一言。
その瞬間、私の張り詰めていた恐怖と緊張が一気に解け、子供たちをもう一度しっかりと抱きしめながら、私はこの誠実な騎士に、心の底から救い上げられるのだった。




