第三十五話 泥と命と、生きる喜び(後編)
「湯が沸きました! ――お爺さん、これでお湯の準備は万全です。産道の滑りは良くなりますよ」
牛舎の隅から、頼もしい叫びが響き渡った。シャルロットおばあちゃんが用意してくれた温かいお湯が産道へと注がれ、準備がすべて整ったその瞬間、後ろで見守っていた、腰を痛めている隣のお婆さんがキリッと鋭い声を張り上げた。
「お爺さん、母牛の息に合わせて、今だよ! 一気に引きな!」
長年この牛たちを育ててきた隣のお婆さんの的確な大号令。その合図と同時に、お爺さんとギルバートさんの逞しい腕に青い血管がこれでもかと浮き上がり、泥まみれのロープへと最後の力が込められる。
「モォォォォ――ッ!!」
母牛が天を仰ぐようにして、ひときわ大きく、悲痛な声を上げて身震いした。私はその巨体を必死に、壊れるくらい強く抱きしめながら、ただ祈るようにお腹の底から叫び続けた。
(がんばれ……! がんばれ……っ! 生まれて、生きて、生まれてきて……っ!!)
前世ののほほんとした女子高生だった私が、テレビの画面越しに見ていた綺麗な「命のドキュメンタリー」なんかじゃない。王宮でバッドエンドに怯えながら、張り付けたお面の中で計算していた、冷え切ったゲームの数値でもない。
目の前で脈打つ、熱くて、泥臭くて、必死な、本物の命のぶつかり合い。
どれだけの時間が経っただろう。全員が血と汗と泥にまみれ、息を切らせて限界を迎えそうになったその瞬間――。
ズブッ、ツルリと、大きな塊が藁の上に滑り出てきた。
「……ぁ」
お爺さんが手際よく仔牛の顔を覆っていた膜を破り、その辺にあったワラをひとつかみすると、生まれたばかりの仔牛の鼻の穴をツンツンと激しく刺激した。
「ブシュンッ! ゲホッ……モゥ……」
仔牛が激しくクシャミをして羊水を吐き出し、細い細い脚をぷるぷると震わせながら、一生懸命に自力で立ち上がろうと、頭を上げたのだ。
「産まれた……っ。無事に、産まれたよ……っ!」
隣の老夫婦が泥だらけの手を握りしめ合って、涙を流して喜んでいる。
その姿を見た瞬間、張り詰めていた私の足の力が一気に抜けて、その場にペタンとへたり込んでしまった。
私のエプロンも、お気に入りの服も、顔も、もう血と汗と泥でめちゃくちゃに汚れきっていた。
けれど、視界がボロボロと溢れ出す大きな涙で、みるみるうちに歪んでいく。
(生きてる……。本当に、無事に生まれてきてくれたんだ……っ)
涙が泥だらけの頬を伝って、顎からポタポタと藁の上に落ちていく。私は顔を両手で覆って、子供のように声を上げてワンワンと大号泣してしまった。
生きている。命が生まれるって、こんなに凄くて、こんなに尊いことなんだ。
自分の生存ルートを守ることだけに必死で、心を凍らせて演技を続けていたあの王宮の毎日では、こんなに心が熱くなるような生きている喜びなんて、1ミリだって実感できなかった。
老夫婦に何度も頭を下げられながら、私はシャルロットおばあちゃん、そしてギルバートさんと一緒に、へとへとになって我が家の縁側へと帰ってきた。
おばあちゃんは、血と汗と泥でめちゃくちゃに汚れきっている私とギルバートさんの姿を見ても嫌がるどころか、まるでお日様みたいな笑顔で、私たちの背中をそっと優しくさすってくれたの。
「とても、とってもよく頑張りましたね」
そう言って、愛おしそうに私の頭を何度も撫でてくれたおばあちゃんの手の温もりに、私の張り詰めていた体から心地よい疲れがふわりと抜けていく。
それからおばあちゃんが用意してくれた、たっぷりのお湯を絞った温かい濡れタオルで、顔や手の血と汗をきれいに拭い取ったあと、居間で温かい緑茶の入った湯呑みを差し出してくれた。そして、お醤油の仕込みの合間に作っておいてくれた、あのカリカリの、出来立てのハッシュドポテトをお皿に山盛りにして出してくれたのだ。
私は綺麗になった手で、おイモを一つ掴んで口に放り込んだ。カリッ、ホクッ、とお塩とおイモの香ばしい旨味が五臓六腑にしみ渡っていく。
「ふあぁ……っ、美味しい……、美味しいよぉ、おばあちゃん……!」
ハッシュドポテトをハグハグと頬張りながら、私はまたボロボロと温かい涙を流した。ゲームのシステムや破滅の恐怖に怯えていた私の異世界転生ストーリーは、この血と汗と泥の現場を経て、シャルロットおばあちゃんのくれる温かいご飯と一緒に、今度こそ本当の、私だけのハッピーエンドに向かって、力強く走り始めた気がした。




