第三十四話 泥と命と、生きる喜び(前編)
朝、私は髪を綺麗にブラッシングして整え、お気に入りのエプロンをきゅっと締めて、のどかなお庭へ向かった。
今日はおばあちゃんと並んで、お醤油の仕込みのために、大豆と小麦を大きなお鍋で香ばしく炒る作業をするのだ。パチパチと薪が爆ぜる音と一緒に、お豆の香ばしい良い匂いが辺りに広がっていく。
「アイちゃん、焦がさないようにゆっくり混ぜるのですよ」
「はーい、おばあちゃん!」
お面を外した素の自分のままで、ただお天道様の下でお豆の匂いに包まれる平穏。私は今、本当の幸せを心の底から噛みしめていた。
「シャルロット様――! アイリスちゃん! 頼む、手を貸してくれ……っ!」
そこへ、昨日のお使いで私の冷え切った両手を優しく包み込んでくれたお婆さん――あのお隣の老夫婦のお爺さんが、額から滝のような汗を流して息を切らせながらお庭に駆け込んできた。その顔は紙のように真っ白で、尋常ではない様子に私の心臓がドクンと跳ね上がる。
「大変なんだ、うちの牛の出産が始まったんだが、仔牛が大きすぎて途中で引っかかって動かんのだ! 婆さんも腰を痛めていて力が入らん、このままでは母子ともに危ない……っ!」
(牛の出産……!? 仔牛が引っかかって動かない……!?)
その瞬間、私の頭の中に強烈な緊迫感が走り、血の気が引いた。
乙女ゲームのシナリオのどこをひっくり返したって、牛のお産の手伝いイベントなんてどこにも書いていなかった。
(どうしよう、私なんかが行っても足手まといになるんじゃ……!)
一瞬、恐怖で足がすくみそうになった。
だって、私の中身はただの日本の女子高生なのだ。前世の私は、放課後に友達とフライドポテトをつまみながら「次のテストやばくね?」とか「あの服可愛い〜」なんて、明日の心配すらまともにせず、ただのほほんと平和に生きてきただけの普通の女の子。
そしてこの世界に転生してからは、いつ破滅させられるか分からない恐怖の中、心を殺して、自分を偽るお面を必死に張り付けて、ただ自分が生き残ることだけを考えてジーク殿下を攻略してきた。そんな息の詰まるような、冷え切った演技の記憶しかない。
血が流れるリアルな命の現場なんて、やり方どころか見たことすら一度もないのだ。
だけど、私の頭をよぎったのは、昨日隣のお婆さんが私の両手を包み込んでくれた、あの何度もマメができては潰れた、固くて温かいごつごつした手の感触だった。あんなに一生懸命生きてきた優しい人たちの、大切な家族の命が消えかけている。
シャルロット様に――おばあちゃんに全肯定されてお面を外した今の私は、私の心は、もう迷わなかった。
「私、行きます! やり方はわかりませんけど、何でもやります!」
後先なんて、何も考えられなかった。感情のままに叫んだ私の横で、おばあちゃんが「まぁ、一刻を争いますわね。ギルバート様、すぐに向かいますよ!」と、凛とした、でもとっても頼もしい声を響かせた。お庭で待機していたギルバートさんも、「はっ! 私もお手伝いいたします!」と、頼もしく後に続いてくれた。
老夫婦の牛舎の中に一歩足を踏み入れた瞬間、私はその圧倒的な「生の圧力」に息を呑んだ。
薄暗い牛舎のなかに充満する、強烈な藁と泥の匂い。そして、横たわって激しく苦しむ母牛の、お腹の底から絞り出すような地を這う荒い息遣い。
「アイリスちゃん、お前はこっち側で、母牛の頭を優しく撫でて落ち着かせてやってくれ! シャルロット様は温かい湯の用意を! 騎士の旦那、すまねぇが俺と一緒にロープを引いてくれ!」
「分かりました!」
お爺さんの必死の指示に、私は夢中で応えた。
牛舎の床に膝をつき、藁のなかに躊躇なく飛び込んで、必死に母牛の大きな頭を抱きしめる。
「がんばれ……! がんばれ……っ!」
母牛の体を必死にさするけれど、お産は想像を絶する困難の連続だった。
母牛が痛みに耐えかねて大きく暴れるたび、私の服も顔も、飛び散る汗と、血と、泥でぐしゃぐしゃに汚れていく。
(う、うわぁ……っ!)
一瞬、その生々しい血の匂いと泥の冷たさに、私の意識が悲鳴を上げそうになる。
王宮の、誰も傷つかないように、汚れないように綺麗なドレスを着て、お面を被って冷え切った笑顔を交わしていたあの世界とは、180度違う。ここは、必死に手足を動かして、血と汗と泥にまみれなければ、ひとつの命が目の前で簡単に消えてしまう、本物の「泥臭い現実の現場」なのだ。
(死なせない……絶対、死なせない……っ! 綺麗なお面なんか、もういらない! 私はここで、この人たちと一緒に、この命を絶対に助けるんだ……っ!!)
飛び散る血と汗を腕で拭いながら、私は母牛の大きな瞳をじっと見つめ、その震える体を必死に抱きしめ続けた。
後ろでは、隣のお婆さんの的確な指示の声と、ギルバートさんたちの荒い息遣いが響いている。
私の異世界転生ストーリーの中で、今、最も泥臭くて、最も必死な、命を賭けた戦いが始まっていた。




