第三十二話 おばあちゃんのお使いと、初めての「ありがとう」(前編)
「はい、アイちゃん。これをご近所の皆様へお裾分けしてきてちょうだいな」
お気に入りのエプロンを締めたおばあちゃんから、竹籠にたっぷりと詰められた、出来立てで温かい『ハッシュドポテト』を手渡された。手づかみでポイポイと手軽に食べられる、おばあちゃん直伝の最高のおやつ。香ばしいお油とお塩のいい匂いが、秋の爽やかなお庭にふんわりと広がっていく。
「皆様へのお裾分け、ですか……?」
私は寝癖のついた頭を抑えながら、ずっしりと重い籠を抱えて、胸の奥をチクリと刺すような痛みに唇を噛んだ。
……本当に、私なんかが、この村の人たちに会いに行っていいのだろうか。
前世はただの日本の女子高生。死にたくない一心で、お面を被ってジーク殿下を攻略して、ゲームのシナリオ通りにシャルロット様を辺境へと追いやった、その原因のひとりは間違いなく私なのだ。
なのに、当のシャルロット様――おばあちゃんは、この辺境の村に驚くほど自然に、まるで昔からここに住んでいたかのように優しく溶け込んでいる。村を大農園に大改造しちゃうくらい、みんなに愛されて、のんびり幸せに暮らしている。
おばあちゃんがここで幸せであればあるほど、私の仕でかしたことの重大さと、身勝手な負い目が、胸の中でぐるぐると渦巻いてたまらなくなる。後先なんて何も考えずに、罪悪感と恐怖に突き動かされるまま、感情だけで王都を飛び出してきちゃったけれど……私は、この村でどう生きていけばいいんだろう。
「いってらっしゃい。道中、気をつけるのですよ」
おばあちゃんは、そんな私の複雑な負い目なんて全部知っているはずなのに、ただお日様みたいな笑顔で私の背中を優しくぽんっと押してくれた。
「……うん! 行ってくるね、おばあちゃん!」
私はあふれそうになる感情をギュッと堪えて、籠を抱え直すと、最初のお使い先へと歩き出した。
最初に向かったのは、おばあちゃんちのお隣(と言っても、辺境の村だから結構離れているんだけど)にある、小さくて賑やかなお家。そこには、元気いっぱいの小さな子供が二人いる、若いご夫婦が住んでいるとおばあちゃんに教えられていた。
お家の屋根が見えてきた瞬間から、私の心臓は破裂しそうなほどバクバクと高く脈打ち始めた。手足が、冷たく固まっていくのが分かる。
(怖い……。どうしよう。もし、私がシャルロット様を追放した悪い女だって、この村の人たちに知られていたら……? 『お前なんか出て行け』って、生ゴミみたいに塩を撒かれて追い返されたらどうしよう……!)
ドレスの裾を泥で汚しながら、一歩近づくごとに足がすくんで、引き返してしまいたくなる。後先考えずに感情だけでここまで来てしまったツケが、一気に押し寄せてくる。
私はただの、普通の女子高生だったんだ。王宮でお面を被って演技をしていた時だって毎日死にそうだったのに、お面を外した素の自分のままで、他人に拒絶される恐怖に立ち向かうなんて、怖くて、怖くてたまらない。
気がつけば、私はお家の前で、ハッシュドポテトの籠を腕がちぎれそうなほど強く抱きしめたまま、ガタガタと激しく震えて立ち尽くしていた。
「――あれ? おねえちゃん、だあれ?」
不意に、お庭の草むらから、木の実を拾っていた小さな男の子がひょっこりと顔を出した。その無垢な瞳と視線がぶつかった瞬間、私の喉は完全にひっついて、声が出なくなった。
「どうかしたの? ……おや、見ない顔だね」
家の中から、お母さんらしき若い優しそうな女性が、不思議そうにこちらへ歩いてくる。もう逃げられない。頭が真っ白になりながら、私は、消え入りそうな、今にも泣き出しそうな震える声を、喉の奥から必死に絞り出した。
「あ、の……! 私、シャルロット様の……その、遠い、親戚の、アイリス、と申します……! これ、シャルロット様が、皆様にって……出来立てのお裾分けを……っ!」
拒絶の言葉を覚悟して、私はギュッと目を瞑り、籠を前に突き出した。
張り詰めた静寂が台地を包む。
けれど、次の瞬間、私の耳に届いたのは、弾けるような明るい歓声だった。
「まぁ! シャルロット様のご親戚の方!? よく来てくれたわねぇ! ……って、わぁ、これってあの、シャルロット様のとーっても美味しいおイモ料理じゃない!」
「おイモ!? わーい! あのおいしいお芋だー!」
私が目を開けると、お母さんは私の手から優しく籠を受け取り、子供たちは目をキラキラ輝かせて大はしゃぎしていた。
お母さんはすぐに「ほら、おねえちゃんにお礼は?」と子供たちの頭を撫でる。子供たちは、温かいハッシュドポテトを小さな手で手づかみでポイポイと口に放り込み、ザクザクと美味しそうな音を立てながら、お口の周りを油とお塩でツヤツヤにさせて、私に満面の笑顔を向けてくれたのだ。
「おねえちゃん、ありがとう! すっごくおいしい!」
「お裾分け、わざわざ届けてくれて本当にありがとうねぇ、アイリスちゃん」
トゲの一片すら、敵意などひとかけらもない、純度100%の「ありがとう」。
王宮では、常に自分を偽ってお面を被り、利用し合う関係しか知らなかった。誰かからこんな風に、真っ直ぐな温かい言葉を貰ったことなんて、この世界に来てから一度もなかった。
おばあちゃんがこの村を愛し、村の人たちを幸せにしてきたからこそ、そのおばあちゃんの家族である私のことを、彼らは何ひとつ疑わずに、こんなにも無条件で温かく受け入れてくれるのだ。
「う……う、あ……っ」
胸の奥の頑なな負い目が、彼らの笑顔のなかに、綺麗に溶けて決壊していく。自分が犯してしまった「間違い」の重さに押し潰されそうだった心の突っ張り棒が、一気に外れてしまった。
私はお家の前で、ボロボロと大粒の涙を流しながら、子供たちのようにぐしゃぐしゃの顔で、生まれて初めて心からの「ありがとう」の言葉を、何度も何度も口にするのだった。




