第三十話:あの頃に諦めた、朝の音(アイリス視点)
「……ん、ふあ……」
差し込む柔らかな光の温かさで、私はゆっくりと目を覚ました。
枕元から漂ってくる、とーっても香ばしいお出汁と、慣れ親しんだお味噌の匂い。
驚くほど体が軽くて、シーツを抱きしめたまま上体を起こした私は、ふと自分の頬に触れてハッとした。
カサカサに乾いた、一筋の涙の跡。
(私……昨日、あんなに泣いたあと、いつの間にか寝ちゃってたんだ……)
前世の日本の記憶を取り戻し、乙女ゲームのヒロイン「アイリス」として生きるようになってから、私の夜はいつも真っ暗な恐怖と隣り合わせだった。
普段は完璧で冷静に見えるけれど、怒らせると本当に怖いジーク殿下。彼にいつ破滅させられるか分からない。自分の心を殺して必死に張り付けていたお面が剥がれたら終わり。そんなプレッシャーの中で、毎晩心が冷え切ったままガタガタ震えて、まともに眠れたことなんて一度もなかったのに。
夕べ、92歳の大往生おばあちゃんだったシャルロット様――おばあちゃんに会えて、温かいいも汁を食べさせてもらって、よしよしと頭を撫でてもらった。
ただそれだけなのに、私はあの瞬間、張り詰めていた心の糸がぷつりと切れて、赤ちゃんのように深く深く、安心して眠ってしまったのだ。
「トントン、トントン……」
お台所の方から、規則正しい包丁の音が響いてくる。
お野菜を刻む、優しくて小気味よい日本の音。
おばあちゃんがお家のお庭の畑で採れた大豆と、大農園の麦で作った特製の「麦みそ」を、お鍋の中で優しく溶いているのだろう。お台所から満ちてくるその芳醇な朝の匂いに、私の目頭はジワジワと熱くなっていった。
(あぁ、これ……私、もう二度と味わうことはできないって、ずっと諦めていたんだ……)
日本の実家で当たり前だった、お母さんが朝ごはんを作ってくれるあの光景。
宮廷のどれほど立派な宮殿に住もうが、どれほど贅沢なドレスや豪華な宮廷料理に囲まれようが、心が冷めきったまま、ただバッドエンドを避けるためだけに必死だった日々の中では、生きていることを心の底から楽しむなんて絶対にできなかった。
目頭がじわじわと熱くなって、また涙が溢れそうになったその時、客間の引き戸がトントンと優しく叩かれた。
「アイちゃん、お目覚め? 朝ごはんの用意ができたわよ」
服の上に、お気に入りのエプロンを締めたおばあちゃんが、いつものお日様みたいな笑顔で、ひょっこりと顔を覗かせてくれた。
「しっかり温まりなさいね」と、それだけ言ってまたお台所へ戻っていくおばあちゃんの背中を見送った瞬間、私の心の内側から、今まで抑え込んでいた温かい感情が、堰を切ったようにドッと溢れ出してきた。
もう、あの冷たい乙女ゲームの、保身だけの世界に戻る必要はないんだ。
私には、いつでも温かく迎えてくれる、こんなに素敵なおばあちゃんがいるんだから。
私はあふれそうになる涙を必死に引っ込めて、寝癖のついた頭をぽんぽんと叩きながら、お台所に向かって元気いっぱいに声を張り上げた。
「おばあちゃん、起きたよー! いまいくっ!」
彼女を「おばあちゃん」と呼ぶのは、これが初めてだった。けれど、戸惑う理由なんてどこにもない。それが当たり前で、一番しっくりくる普通のことだと、私の心がちゃんと知っていた。
冷え切っていた私の異世界転生ストーリーが、おばあちゃんちの台所の音と一緒に、今度こそ本当に、温かいハッピーエンドに向かって新しく動き始めた気がした。




