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第二十八話 あの時の違和感(アイリス視点)

数日間の強行軍の末、ついに私はエデン村へとたどり着いた。交易所の人に場所を聞き、教えられた場所へと這うようにして向かう。一歩近づくごとに、手も足も、ガタガタと震えが止まらない。だけど、その場所に辿り着いた瞬間、私は自分の目を疑った。


そこに佇んでいたのは、中世ヨーロッパ風のこの世界には絶対に存在するはずのない、懐かしい日本の木造家屋だった。そして、その縁側に、一人の女性がちょこんと腰掛けていた。


かつて王宮の夜会で、高慢な笑みを浮かべて私を見下していたはずの悪役令嬢、シャルロット様だ。今は華美なドレスではなく、動きやすそうな服を着て、静かに外を眺めている。


心臓が、破裂しそうなほど高く脈打つ。私は、消え入りそうな、震える声でどうにか声を絞り出した。


「あ、あのー……」


気づいて、彼女がゆっくりと振り返る。怒りや憎しみの表情を覚悟して、私は思わず身をすくめた。

けれど、私の目に飛び込んできたのは、王宮では一度も見せたことのない、完全に屈託のない、まるでお日様のような優しい笑顔だった。


「いらっしゃい」


放課後に「お邪魔しまーす」と友達の家に上がった時のような、あまりにも自然で温かい一言。促されるまま、畳の敷かれた客間で、私は彼女と机を挟んで向き合った。


何を言えばいいのか分からない。喉がぐっと詰まって、発言を躊躇していると、私の目の前にコト、と二つの器が差し出された。


湯気を立てる、お出汁の香りがふんわりと漂う「イモ汁」。そして、香ばしい「緑茶」。

異世界に来てから一度も嗅ぐことのなかった、あまりにも優しくて懐かしい日本の匂い。自分が破滅に追い込んだはずの相手が、微塵の恨みも、責める色すらなく差し出してくれたその温かさに、私の目から堰を切ったように涙が溢れ出した。


ボロボロと畳を濡らして泣く私を、シャルロット様は慈しむような眼差しで見つめ、柔らかい声で言った。


「お食べなさい」


私は震える手で器を持ち上げ、イモ汁を一口、啜った。

フワリと鼻腔をくすぐる、どこか香ばしい麦の豊かな風味と、お豆の濃厚なコク――それは、この世界には存在しないはずの、優しくて温かい手作りの「麦みそ」の味だった。

お味噌とお出汁の味が五臓六腑にしみ渡ると同時に、これまで一人で抱え込んできた孤独と恐怖が、一気に決壊した。


「ごめんなさい……っ、ごめんなさい……!!」


私は器を抱えたまま、嗚咽混じりにこれまでの罪悪感をすべて吐き出した。


「私が、ゲームのシナリオ通りに進めないとバッドエンドになるのが怖くて……っ。王子を必死に攻略して、あなたを追い詰めたの! 私が、あなたの人生をめちゃくちゃにしたの……っ!」


シャルロット様は私の言葉を「知るよしもない」はずだった。ここはゲームの世界で、私は転生者だなんて、この世界の人たちなら気味悪がって突き放すはずの告白。なのに、シャルロット様はにこにことした穏やかな笑顔のまま、私の頭を優しく撫でて、こう言ったのだ。


「怖かったでしょうねぇ」

「……え?」


涙に濡れた目を丸くする私に、彼女は温かいお茶をすすりながら、クスッと上品に笑って告白を始めた。


「私が日本の記憶を取り戻したのはねぇ、あの王子様に『婚約破棄だ!』って怒鳴られた、まさにあの瞬間だったのよ。急に頭がシャキッとしてねぇ。目の前で若い男の子が顔を真っ赤にして怒っているのを見て、なんだか、前世で92歳で大往生した時の感覚がブワッと戻ってきちゃってね」


92歳。大往生した、おばあちゃん。


私の頭の中で、あの断罪劇の記憶が鮮烈に蘇る。


婚約破棄を突きつけられ、絶望するはずの場面で、彼女が王子に向かって放ったあの異質なセリフ。


『お腹を冷やさないように暖かくして寝るのですよ』



(だ、大往生したおばあちゃんだったからかぁぁぁーーー!!)



あまりの衝撃の事実に、私の涙は一瞬で引っ込んだ。

あの緊迫した場で、実家の孫を心配するかのように王子の体調を気遣っていた理由が、今すべて繋がった。


「あなたが必死に、泣きそうな顔で震えながら私を睨んでたのも、全部見てたわよ。あぁ、この可愛いお嬢さんは、何かに必死に怯えて、頑張って悪い子のフリをしてるんだねぇって、健気で愛おしくなっちゃって。あなたのせいじゃないわ、よく頑張ったわね」


おばあちゃんシャルロット様は、シワ一つない若い手で、私の頭を何度も優しく撫でてくれる。


「もう大丈夫よ。この村は静かで、お芋もたくさん獲れるし、誰もあなたを責めやしないから」


その手の温もりに、今度は罪悪感ではなく、心の底から救われた温かい涙が次から次へと溢れ出してきた。

前世の女子高生としての孤独も、異世界での生への執着も、すべてはこの92歳のおばあちゃんの圧倒的な母性の中に包まれて消えていく。


クソゲーの理不尽なシステムも、恐怖のヤンデレ王子も、この最強のおばあちゃんの前ではきっと形無しだ。私は久しぶりに、心からの笑顔を取り戻していた。

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