第十七話 闇に舞う影
「来るぞ! 迎え撃てッ!」
私は叫ぶと同時に馬の鼻面を翻し、腰の長剣を一気に引き抜いた。
月明かりすら届かぬ鬱蒼とした森の広場で、我ら五人の騎士は馬を並べ、押し寄せる不気味な緑の濁流――『ゴブリンジェネラル』率いる軍勢を睨みつけた。
ギギィィィッ! ギャァァァア!
異形の咆哮が爆音となって木々を揺らす。暗闇のあちこちで、赤く濁った無数の眼光が、冷酷な悪意を持ってぎらぎらと蠢いていた。敵の数は優に数十。対する我らはたったの五騎。
せめて、あの奥に鎮座する、一際巨大な体躯を持つゴブリンの将軍さえ討ち取れれば、統率を失った群れを散らせるかもしれないが……。
「ギルバート様、囲まれました! ……くそっ、ここまでか!」
「諦めるな! 辺境伯様の騎士の誇りを見せろ!」
激しい金属音が闇に響き、交戦が始まった。だが、多勢に無勢。またたく間に我らの軍馬は包囲され、無数の粗悪な刃が四方八方から容赦なく突き立てられようとした、まさにその時――。
(やれやれ、夜道の森で軍ごっこなんて、とーってもお行儀がよろしくなくてよ?)
風が、鳴いた。
いや、それは風などではなかった。
頭上の木々の隙間から、まるで夜の闇そのものが滑り落ちてきたかのように、一人の『影』が音もなく戦場へと舞い降りたのだ。
「な……ッ、何だ!?」
あまりの神速。あまりの隠密。
月光を背に受けて逆光となったその影は、流麗なロングスカートを美しく翻しながら、信じられないほどの軽やかさでゴブリンの群れの中へと滑り込んでいく。私からは、その影の顔は陰になって全く見えない。ただ、背筋が凍りつくほどの絶対的な『強者』の気配だけが、その細い輪郭から放たれていた。
直後、戦場は言葉を失うほどの「静かな蹂躙」へと変貌した。
シュッ、と微かな衣擦れの音が響くたび、ゴブリンどもが悲鳴を上げることすら許されず、次々と泥のように地面へ崩れ落ちていく。
その影の手には、小さな手鏡のようなものが握られていた。影がそれを一閃させるたび、その硬質な面がゴブリンたちの顔面や顎を容赦なく捉え、叩き潰していく。不意の激痛と衝撃でパニックに陥った魔物たちの急所へ、その影は、寸分の狂いもない精密な一撃――その小さな手鏡のようなものから放たれる、恐るべき打撃をトントンと吸い込まれるように打ち込んでいった。
「ば、馬鹿な……。剣も使わず、あんなもので……!?」
私は剣を構えたまま、その光景に完全に硬直していた。一糸乱れぬ隊列を組んでいたはずの魔物の軍勢が、たった一人の影によって、まるで乾いた秋の木の葉のようにハラハラと散らされていく。
ギ、ギガァァァッ!?
自らの軍勢が瞬く間に消滅していく様に恐怖したゴブリンジェネラルが、巨大な戦斧を振り上げて影へと襲いかかった。だが、その一撃すらも、影はロングスカートを優雅に翻すだけの最小限の 足捌きで、音もなくかわしてみせる。
そしてすれ違いざま、将軍の胸元へ、影の細い指先が吸い付くように優しく触れた。
ゴフッ……!
凄まじい衝撃波が将軍の巨体を突き抜け、背後の大木をメリメリとへし折る。ゴブリンの将軍は、何が起きたのかすら理解できぬまま、白目を剥いてどさりと地面に頽れた。
全ての所要時間、わずか数秒。
気がつけば、あれほど我々を絶望に陥れた魔物の軍勢は、一匹残らず静まり返っていた。
「あ……、あぁ……」
戦慄のあまり、私の口から情けない掠れた声が漏れる。
衣類の乱れ一つなく、エプロンをパッパと払うような仕草をしたその影は、ふっと夜の闇に溶けるように、再び音もなく姿を消してしまった。
跡に残されたのは、静寂を取り戻した森と、おびただしいゴブリンの死体の山だけだ。
「ギルバート様……、今のは、一体……」
仲間の騎士が、ガタガタと全身を震わせながら私に問いかけてくる。
私は、手綱を握る手が恐怖と感動で激しく震えるのを止めることができなかった。
今、目の前で起きたことは、奇跡などという生温かいものではない。あれは、夜の闇から現れ、ただ冷徹に、迅速に、悪意の全てを刈り取っていく、絶対的な死の体現者。あまりの神速と、あまりの無慈悲なまでの美しさに、私の唇から、戦慄とともにその言葉が自然と零れ落ちていた。
「……殺戮の……天使……」
その圧倒的な影の正体が、一体誰であるのかを――私は、知る由もなかった。




