第一話 オッサン、完璧な張り子の虎
理不尽という言葉は、僕のためにあるのだと思っていた。
僕――柳瀬進太郎。前世は四十五歳の万年平社員。
チビでハゲでビール腹、上司の理不尽な怒号には胃を痛めながら平身低頭し、部下には陰で「無能」と舐められる。毎日「こんな会社、辞めてやる」と心の中で叫ぶものの、実際に辞める勇気など少しも持ち合わせていない、絵に描いたような冴えない男だった。
深夜までサービス残業をさせられ、冷たい雨が降る中、重い足取りで駅へと向かっていた。傘に打ち付ける雨の音と、遮断機の耳障りな警報音。
疲労で思考が完全に麻痺していた僕は、濡れた足元で足を滑らせ、そのまま線路へと転がった。
慌てて立ち上がろうとした瞬間、視界が真っ白な光に染まる。凄まじい風圧と、激しいブレーキ音。迫り来る電車の質量を前に、身体は恐怖ですくみ、指一本動かせなかった。
(あ、終わった。僕のしょうもない人生も、しょうもない幕切れだな――)
そう思ったのが、前世の僕の最後の記憶だった。
だが、目が覚めるとそこは真っ白な空間で、目の前には超絶美人だがちょっと抜けていそうな金髪の女神が困ったように微笑んでいた。
「あっちゃあ、死んじゃったか。うーん……、異世界に送ってあげるけれど、チートは何がいい?」
神々しい見た目に反して、あまりに軽くないだろうか。
だが、中身がビビリのオッサンである僕は、差し出されたチャンスに必死で食いついた。
「い、異世界?剣と魔法の?ぼ、暴力は嫌です!魔物と戦うなんて絶対無理!とにかく人生をやり直したいんです。若いイケメンの身体にしてください!」
「え、格闘スキルとか魔法無双とかじゃなくていいの? 変わってるね〜。はーい、じゃあイケメンね☆」
女神が微笑んだ瞬間、僕の目の前の空間に光が集まり、めまぐるしく形を変え始めた。
骨組みが作られ、筋肉が編み込まれ、美しい肌が覆っていく。それは「二十歳の完璧な若い男の肉体」がゼロから構成されていく光景だった。あまりにも神秘的な創造の瞬間。僕はただ、その不思議な感覚を言葉もなく見つめていた。
――そして、気がついた時には、僕はもう異世界の街にぽつんと立っていた。
近くにあった水たまりに、自分の姿が映る。初めてその姿を見たときの衝撃は、今でも忘れられない。
切れ長の瞳、無駄のない引き締まった肢体。前世のチビハゲビール腹のオッサンの面影など微塵もない、誰もが振り返るような超絶美青年の姿がそこにあった。
普通なら、ここで「チート能力で大暴れしてやるぜ!」と歓喜するのだろう。
だが、中身は四十五年間負け犬根性が染みついた極度のビビリオッサンである。
異世界に転移した僕が、最初の数日間でやったこと。それは冒険者ギルドへの登録ではなく、徹底的な「社会構造の調査」だった。
宿代を極限までケチりながら、毎日市場へ足を運び、物流を眺め、人々の暮らしと金の流れをじっと観察し続けた。石橋を叩いて叩いて、結局渡らないレベルの慎重さ。それが元サラリーマンの習性だった。
そして、リサーチを進めるうちに、この世界の「歪み」に気づいた。
文明レベルは中世ヨーロッパよりは少し進んでいる。しかし、便利な「魔法」が存在するせいで、かえって科学技術や、効率的な経済システムの発展を遅らせていた。
特に、市場システムは極めて原始的で、どんぶり勘定が当たり前。物価は天候や魔物の出現によって、大暴落と大高騰を激しく繰り返している。それなのに、そのリスクを回避する仕組みが、この世界には一切存在しなかったのだ。
(……待てよ。これ、突っ込めるところだらけじゃないか?)
僕の脳裏に、前世で嫌々勉強させられた、現代日本の経済知識が閃いた。
標的は「農産物」だ。生きていくために絶対に需要があり、不足した時の価格高騰が最も激しい分野。
(農産物ができる前に、直接農家と書面で契約を結ぶ。出来が良かろうが悪かろうが、あらかじめ決めた一定額を必ず支払って、全量を買い取る約束をするんだ)
現代日本でいう「先物取引」の概念。
農家側からすれば、凶作時の破産リスクを回避できるため、この奇妙な提案に飛びついた。一方の僕は、独自の市場分析から「近いうちに農産物が不足する」という確信めいた予想を立てていた。
結果は――大当たりの、大大成功だった。
予想通りに農産物が致命的に不足した瞬間、事前に安値で買い付ける権利を持っていた僕の元に、文字通り巨万の富が転がり込んできた。市場の主導権を握った僕は、若くして王国でもそれなりの地位を獲得し、「時代の寵児」とまで持て囃されるようになった。
だが、中身が万年平社員の僕は、ここで浮かれたりしない。
急激に膨れ上がった資産の数字を見て、真っ先にこう思ったのだ。
(やばい、帳簿の管理が追いつかない。この世界のどんぶり勘定な奴らに任せたら、一瞬で横領されるか、計算ミスで破産するぞ……!)
組織を大きくし、この富を確実に守るためには、手堅く冷徹に数字を扱える右腕が絶対に必要だった。そこで僕が目をつけたのが、商業ギルドで上司の不正を正直に指摘しすぎて睨まれ、居場所を失っていた十九歳の女性だった。彼女を「経理」として雇い入れ、彼女に実務の大半を任せることにした。
さらに、金と組織が手に入ったことで、僕の「ビビリ」は極限に達する。
(怖い。急にこんな大金持ちになって、絶対に裏で恨まれてる。いつか暗殺されるか、一瞬で破産するに決まってる……!)
二十歳の完璧なイケメンのガワをしていても、僕自身は暴力に対してあまりにも無力だった。
護衛が必要だ。そう考えていた矢先、病気の兄弟の薬代のために悪徳高利貸しに嵌められ、借金によって奴隷落ちする寸前だった二十二歳の女戦士と出会った。僕は彼女の借金を一括で肩代わりし、専属の護衛として雇うことにした。
こうして、僕の左右には常に二人の美女が付き従うようになった。
一人は、いつも冷静沈着に帳簿をめくり、僕の指示に「はい。こちらに」とだけ答える事務マシーンのような経理の女。
もう一人は、一歩引いた位置で無表情に気配を消し、僕の行動にただ「さすがです」とだけ呟く護衛の女戦士。
周囲から見れば「これほどの富と地位を得ながら私欲に走らず、ひたすら事業拡大に邁進し、美しい二人の女を完璧に従える、ストイックで冷徹な若き天才」と映っているだろう。
だが、二十歳の完璧なイケメンの皮を被った僕は、鏡を見るたびに、そこに映る「くたびれた前世のオッサン」の幻影に怯え、葛藤していた。
(ハゲでチビで、理不尽に怯えていた前世の僕は、この金で救われたのか……? 彼女たちが従っているのは、このこの完璧なガワと、歪んだ市場から掠め取った富のせいだ。本当の僕を見たら、絶対に軽蔑して去っていく――)
巨万の富を築いてもなお、僕の心は満たされない虚無の袋小路に迷い込んでいた。
オッサンの二度目の人生幕開けは、同時に、張り子の虎の孤独な戦いの始まりでもあった。




