第十話 不穏な噂と、北への旅立ち
右手の構えと剣技をギルバードさんに立ち会ってもらい、ようやく神経の繋がりを証明した日から、数日後のこと。
ガルバはシャルロットに呼ばれ、西の小川沿いにあるあの質素な木造住宅を訪れていた。
「あ、ガルバ! いらっしゃい!」
縁側に向かうと、シャルロットと一緒に暮らしているアイリスが、いつも通り太陽のような明るい笑顔で出迎えてくれた。その隣に座るシャルロットも、ガルバの顔を見て優しく目を細める。
しかし、お茶を差し出すシャルロットの氷藍の瞳には、どこか真剣で、重大な色が含まれていた。
護衛騎士のギルバードも、シャルロットのただならぬ気配を察したのか、小さく息を呑んで居住まいを正す。
ガルバが縁側に腰を下ろすと、シャルロットは静かに口を開いた。
「ガルバさん。実は『マルク商会』のマルクさんに頼んで、密かに調べていただいていたことがあるのです」
「調べていた、こと?」
聞き慣れた商会の名前に、ガルバは器を持ったまま首を傾げた。シャルロットは小さく頷き、引っくり返るような不穏な噂を教えてくれたのだ。
それは、ガルバを置いて旅立った元パーティ――『スチール・ファング(鋼の牙)』の現在の動向だった。
「ゴライアスさんたちは、あなたの腕を治すためのポーションの購入で、無理をして莫大な借金を背負われました。普通の依頼をこなしていたのでは、高利貸しの返済期限にとても間に合わないと踏んだのでしょう。……彼らは先日、高難度な『討伐依頼』を無理に受けてしまったそうです」
「なっ……!」
ガルバの胸に、冷たい衝撃が走った。
普通の依頼では間に合わないから、命懸けの討伐依頼に挑む。ゴライアスがどれほど精神的に追い詰められているかが、痛いほど伝わってきた。
だが、何より恐ろしいのはそこではない。今の『スチール・ファング』には、前線で敵の攻撃を一手に引き受け、切り伏せるべきファイターである自分がいないのだ。
盾のゴライアスだけでは前線を維持しきれない。索敵のジーク、遠距離狙撃のリネット、後方魔法のセリア。前衛が一人足りない不安定な状態のまま魔物と戦うことが、どれほど全滅の危険を伴う無謀な行為か。ガルバには、他の誰よりも分かっていた。
「……あいつら、馬鹿野郎が。俺のためにそこまで……っ」
ガルバは奥歯を噛みしめ、膝の上の右拳を強く握りしめた。
だが、今の自分はどうだ。一ヶ月前の「ピクリとも動かない」絶望からは抜け出し、右手で剣を構えられるようにはなった。だが、ギルバードさんには軽くあしらわれたばかりだ。まだ回復の途中にすぎない。
(そんな半端な今の俺が……あいつらの前線に立って、本当に役に立てるのか? 足手まといになるだけじゃないのか?)
すぐに行くと叫びたい衝動の裏で、ガルバの胸に、黒い逡巡が渦巻く。自分を信じてくれたシャルロット様の前で、無謀な強がりを口にしていいはずがなかった。
ガルバはしばらくの間、じっと自分の右拳を見つめ、迷い、葛藤していた。
しかし、腰にあるジークのナイフの重みを感じた瞬間、ガルバの迷いは消えた。
完璧かどうかなんて関係ない。今、行かなければ、あいつらは死ぬかもしれないのだ。
ガルバは意を決して顔を上げ、シャルロットを真っ直ぐに見つめた。その瞳には、恐怖を乗り越えた本当の覚悟が宿っていた。
「シャルロット様。……その依頼の舞台は、どこなのですか」
「エデン村から見て、ずっと上の方……北にある『リヒトウェル』という街の近郊です」
リヒトウェル。
ヴァルハイト帝国アインハルト辺境伯領の北西に位置する、大きな鉱山を抱える街だ。その近くの危険な領域で、かつての仲間たちが今、命を懸けて戦おうとしている。
ガルバは深く息を吸い、シャルロットに向けて、一歩も引かない強い声で告げた。
「……俺、リヒトウェルに行きます。まだ完璧に元通りになったわけじゃありません。ギルバードさんにもボコボコにされました。でも……あいつらを死なせるわけにはいかないんです。今度は俺が、みんなを助けに行きます」
ガルバが逡巡の末に紡ぎ出した本気の言葉に、アイリスは「うん、行ってきなよ!」と満面の笑みで背中を押してくれた。
すると、シャルロットは静かに立ち上がり、家の中から一本の美しい木箱を持ってきた。
蓋を開けると、そこには琥珀色に輝く高級ポーションが数本、綺麗に並べられていた。
「これを持っていきなさい。旅の選別です」
「シャルロット様、これは……! こんな高価なもの、受け取れません!」
ガルバは慌てて手を振った。ゴライアスたちがポーションを買うためにどれほど苦しんだかを知っているからこそ、その重みが分かりすぎるのだ。
そこへ、傍らに控えていた護衛騎士のギルバードが驚愕の声を上げた。
「なっ、それはルミナリア教国の聖女様が作った最高級ポーション……! シャルロット様、本当によろしいのですか!?」
ルミナリア教国の聖女といえば、この世界で唯一、最高位の回復魔法『ハイヒール』を使える女性である。その彼女が作ったポーションとなれば、ただの贅沢品ではなく、文字通り国家予算級の価値を持つ奇跡の雫だった。
しかし、シャルロットは優しく、しかし毅然とした態度で木箱をガルバの前に差し出した。
「現実に流れる血を止めるためのポーションは必要です。ボロボロになった仲間を救うのは、今のあなたのその右腕と、これです。……違いますか?」
「…………!」
ガルバは胸が熱くなり、言葉を詰まらせた。シャルロット様は、ガルバが向こうで傷つくことだけでなく、ボロボロになって戦っているであろう『スチール・ファング』の仲間たちのことまで見据えて、このポーションを託してくれたのだ。
「……ありがとうございます。必ず、みんなを連れて戻ります」
ガルバは深く頭を下げ、その大切な木箱をしっかりと抱え直した。
◇
宿舎に戻り、最低限の荷物とシャルロット様から貰ったポーションを背嚢に詰めたガルバは、すぐに停留所へと向かった。
エデン村は交通の便が非常に整っている。幸運にも、北の鉱山街リヒトウェルへと向かう辻馬車が、ちょうど出発の準備を整えているところだった。
「おい、乗るのかい?」
「ああ、リヒトウェルまで頼む!」
ガルバは御者に銀貨を手渡し、辻馬車へと勢いよく飛び乗った。
ガタゴトと規則正しい振動を立てて、馬車が北へと走り出す。車窓から流れるエデン村ののどかな緑の景色を見つめながら、ガルバは右手の五本の指を、強く、強く握り込んだ。
待ってろよ、ゴライアス、セリア、リネット、ジーク。
みんなが繋いでくれたこの右腕と、シャルロット様から託されたこの力で、今度は俺が、『スチール・ファング』を絶対に救ってみせる。




