第九話 覆る概念、動き出す右腕
月光に照らされたエデン村の庭で、ガルバの右手の親指が、確かに内側へとピクリと動いた。
「…………」
護衛騎士隊長のギルバードをはじめ、その場にいた4人の騎士たちは、声も出せずにただ呆然と立ち尽くしていた。
神官の魔法でも、ギルドの最高位ヒーラーの高級ポーションでも成し得なかった絶対の絶望。それが、目の前の男がたった一ヶ月、泥水をすするような地道な努力を積み重ねただけで、打ち破られたのだ。魔法も奇跡もない、ただ本人の意志の力だけで動かないはずの指が動いた。
自分たちの生きる世界の常識が根底から引っくり返された瞬間、あまりの衝撃に、鍛え抜かれた男たちの口から言葉は出なかった。
一方、シャルロットはその驚くべき成果に驚きを氷藍の瞳に宿しつつも、すぐに優しく目を細めた。ガルバのひたむきな日々を誰よりも信じていた彼女は、心の底から嬉しそうに微笑んだ。
「一度、神経が繋がれば、ここからの回復は急速です」
◇
シャルロットの言った通り、一度神経が繋がり始めてからの回復スピードは、自分でも恐ろしくなるほど凄まじかった。
昨日まで動かなかった指が、数日後には人差し指、中指と順番に脳の命令を受け付け始める。一週間が経つ頃には、五本の指が不格好ながらも開閉できるようになっていた。
ガルバは、これまで慣れない左手で必死にこなしてきたことを、少しずつ、次第に右手で行うようになっていった。
まずは、作業場でのジャパイモ切り仕事。ジークのナイフを右手に持ち替え、ミリ単位で行う刃物の制御を、右腕が少しずつ思い出していく。刃がイモを捉える感覚が、日に日に確かになっていくのが分かった。
次に、日常の精巧な動作。「パステル・コテージ」の食堂で、右手を使って器用にフォークやスプーンを扱い、山盛りの美味い飯を平らげる。アイリスたちも、ガルバの右腕が動くたびに「すごーい! また動いてる!」と我が事のように大喜びしてくれた。
そうして、親指の『ピクリ』からさらに一ヶ月が経とうとする頃。
夜の澄んだ空気が満ちる西の家の庭に、ガルバは静かに佇んでいた。
ガルバはゆっくりと腰のベルトに手を伸ばし、剣の柄を掴んだ。それは左手ではない。
数ヶ月間、ずっと麻紐で体に縛り付けられ、他人の肉のようだった、あの右腕だ。その右手の五本の指が、革の柄を、吸い付くように力強く握りしめる。
シャラン、と硬質な金属音が夜の静寂に響いた。
月光の下、ガルバはついに、完璧な美しさで『右手で剣を構える』。
その鋭く研ぎ澄まされたエースの構えを見たギルバートたちの顔に、かつて最強のパーティの一員だった男の完全復活を予感させる、熱い鳥肌が走った。
ガルバは真っ直ぐに騎士隊長を見据え、静かに闘志を燃やす。
「ギルバートさん……俺の訓練に、立ち会っていただけますか」
その頼れるエースの牙が戻った瞬間、ギルバートは驚きから一転、歓喜に満ちた不敵な笑みを浮かべた。腰の鞘から愛用の剣をスラリと引き抜き、一歩前に進み出る。
「ガルバ……俺も本気を出していいんだね?」
ガルバは快活に、しかし鋭い眼差しを崩さずに頷いた。
「頼みます。どこまで回復したか、シャルロット様に見せたいんです」
互いの視線が交錯した刹那、二人の体が同時に地を蹴った。
キィィンッ!
夜の闇を切り裂くような鋭い金属音が響き渡る。
正面から真っ向からぶつかり合った二人の剣が、激しい火花を散らした。
(――ぐっ……! なんて重さと速さだ……!)
ギルバートが放つ正統派の剣技は、まさに圧倒的だった。左手一本の時に手合わせしていた頃とは次元が違う、容赦のない剛撃がガルバを襲う。
しかし、ガルバもただやられるだけの男ではなかった。毎日毎日、左手一本でジャパイモをミリ単位で切り刻んできたあの極限の集中力が、右腕に戻った剣技に、恐ろしいほどの『精密さ』を与えていたのだ。
ギルバートの鋭い一撃を、ガルバは完璧な刃の制御で紙一重で受け流し、すぐさま最小限の軌道で鋭いカウンターを放ち返す。
肌がヒリつくようなハイレベルな剣戟。庭を囲む4人の騎士たちも、息をのんでその光景を見つめていた。
だが、勝負はやはりギルバートが一枚上手だった。
ガルバの鋭い突きを鋭い見切りでかわすと、ギルバートの剣がガルバの死角から電光石火の速さで迫る。ガルバはかろうじて右手でそれを受け止めたが、衝撃で剣を弾き飛ばされ、地面に突き刺さった。
ピタリ、とガルバの首元に、ギルバートの剣が突きつけられる。圧倒的な実力差。しかし、ガルバの顔に悔しさはなかった。
「……参った。やっぱりギルバートさんは、恐ろしく強いや」
ギルバートは剣を鞘に収めると、驚愕と、それ以上の感嘆の入り混じった表情でガルバを見つめ、不敵にニヤリと笑った。
「何を言うか。弾かれはしたが、お前の右手のキレと精密さは、以前よりも確実に進化している。完璧な復活だ、ガルバ」
ギルバートはリスペクトを込めて、ガルバの右肩を力強く叩いた。
ガルバもまた、じわりと熱い本物の肉体の感触を右腕に噛みしめる。
ガルバは縁側にいる恩人の元へと歩み寄り、深く頭を下げた。
「シャルロット様……俺、ここまで戻れました」
世界の常識をひっくり返し、自らの努力で掴み取った完全復活。
それを見つめるシャルロットは、優しく、本当に誇らしげに目を細めて微笑むのだった。




