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第八話 夜を駆ける衝動

ガルバは、自分がどうやって宿舎の階段を駆け下りたのかすら覚えていなかった。


気づけば転げるようにして建物の外へ飛び出し、夜の帳が下りたエデン村の街道を、ただ無我夢中で突き進んでいた。


「はは……っ、あははは……っ!」


ゼエゼエと喉を鳴らし、肺がちぎれそうなほど激しく息を吐きながら全力で走る。


胸の奥からせり上がってくるあまりの嬉しさに、おかしな笑いが込み上げて止まらなかった。同時に、この一ヶ月間の過酷な日々が思い出され、目からは大粒の涙が次から次へと溢れ出して視界を遮る。拭う暇もない。鼻水まで垂れてきた。


格好なんてどうでもよかった。エース冒険者だった頃のプライドなど、もう微塵も残っていない。顔中を涙と鼻水でぐしゃぐしゃに汚しながら、ガルバはただ、がむしゃらに足を動かし続けた。


(嘘じゃなかった……シャルロット様の言った通りだった……!)


あの『ピクリ』という1ミリの衝撃が、足の痛みを、体の重さをすべて消し去っていた。


やがて、暗闇の向こうからサラサラという心地よい小川のせせらぎが聞こえ始めた。西の端にある、あの風変わりで質素な木造住宅のシルエットが、月光の中にぼんやりと浮かび上がってくる。


そして、ガルバの目に信じられない光景が飛び込んできた。


家のすぐそば、夜の澄んだ空気の中に、銀の髪を優しく揺らしたシャルロットが立っていたのだ。その隣には、護衛騎士のギルバートも一緒だった。


「シャルロット、様……っ!」


二人の姿を見つけた瞬間、ガルバの体に最後の力がみなぎった。一歩、また一歩と夜の芝生を蹴り上げ、彼女の元へと全力で滑り込む。


しかし、シャルロットのわずか数歩手前までたどり着いた瞬間、限界を迎えたガルバの足から一気に力が抜けた。糸が切れたように、その場に崩れ落ち、膝をついて激しくしゃがみこんでしまう。


「何事だ、ガルバ!?」


ただならぬ形相で現れ、泥まみれで倒れ込んだガルバの姿に、ギルバートが驚いて一歩前に出た。手元に緊張が走る。


だが、ガルバはギルバートを見る余裕さえなかった。首を持ち上げ、激しく肩を上下させながら、吸い込まれそうなほど美しい氷藍の瞳を見つめ返す。涙がボロボロと溢れ、声が激しく震えていた。


「しゃ、シャルロット様……っ。お、俺の、指が……俺の右手の指が、動いたのです……っ!」


夜の静寂の中に、ガルバの魂の叫びが響き渡った。


「な……んだと……?」


隣にいたギルバートが、あり得ないものを見るかのように目を見開いた。この世界の絶対的な常識を知る騎士だからこそ、ガルバの言葉がどれほど荒唐無稽で、しかし重い意味を持つかが分かったからだ。


しかし、シャルロットは驚かなかった。


彼女はガルバの言葉を待っていたかのように静かに目を細めると、長いスカートの裾が地面に触れるのも気にせず、ガルバの前にそっと膝をついてしゃがみ込んだ。


「ガルバさん。見せていただけますか」


シャルロットの凛とした、しかしどこまでも温かい声が、ガルバの荒い呼吸を優しく落ち着かせていく。


ガルバはゴクリと唾を飲み込み、泥に汚れた右手を、月明かりの下へと差し出した。上着の中でずっと固定されていた、あの冷たく痺れた右手を。


ギルバートが固唾をのんで覗き込み、シャルロットの氷藍の瞳がガルバの指先へと注がれる。


虫の音だけが響く静寂の中、ガルバは目をつむり、一ヶ月間毎日繰り返してきたように、脳の奥へ全力で意識を集中させた。動け。繋がれ。俺の肉体。


そして、もう一度だけ、強く念じた。


――ピクリ。


月光に照らされたガルバの右手の親指が、確かに、内側に向かってほんの1ミリだけ動いた。


魔法でも、ポーションでも成し得なかった、ガルバ自身の泥臭い努力が世界の常識を打ち破った、歴史的な『一歩』だった。

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