第七話 最初の『ピクリ』
エデン村にやってきて、一ヶ月が経とうとする頃。
過酷な労働と夜の訓練を支えるのは、交易所宿舎の近くにある食堂「パステル・コテージ」の美味い飯と、そこで自作のメイド服を揺らして元気に給仕をするアイリスたちの笑顔だった。そして、時折交わす騎士ギルバードたちとの手合わせ。それらの温かい交流に支えられながら、ガルバは一日も欠かさず、左手一本でのジャパイモ切り仕事と、夜の地道な訓練を積み重ねていた。
ある日の夕暮れ。一日の仕事を終えたガルバは、宿舎の自室へと戻り、いつものように一人で動かない右腕と向き合っていた。
この一ヶ月間、毎日欠かさず続けた地道な努力により、右腕の『感覚』自体はかなり戻ってきていた。
自分の左手で触れば、その冷たさや触れられている場所がはっきりと分かるところまで、眠っていたコード(神経)は繋がりつつある。
しかし、どれだけ感覚が戻ろうとも、腕は依然としてピクリとも『動かない』ままだった。どれほど脳が命令を下しても、肉体はその声を受け付けない。分厚い絶望の壁が、そこにはまだ厳然と存在していた。
ガルバはベッドの端に腰掛け、紐をほどいた右手をじっと見つめた。
そして、脳の奥で「動け、動け」と、祈るように、しかし命を絞り出すように強く念じ続ける。
その時だった。夕暮れの赤い光が差し込む静かな部屋の中で、未だに頑なに動かなかった右手の親指が、ピクリと動いた。
「……え?」
ガルバは最初、信じられないものを見た気がした。
(いや、目の錯覚だろう……)
すぐに頭を振って、激しく鐘を突くような心臓を落ち着かせようとした。これまでの日々で、この腕を動かすことがどれほど険しい道か、そんな甘いものではないことは、ここしばらく続けていた地道な訓練の中で誰よりも実感していたからだ。
しかし、荒い呼吸を整え、もう一度だけ、右手の親指を動かそうと脳の奥から強く指令を送る。
――その瞬間、間違いなく、親指がガルバの意志に従って、内側にピクリと動いた。
「っ……!」
錯覚なんかじゃない。世界の絶対的な常識をひっくり返し、眠っていた神経のコードが、ついに筋肉へと繋がった瞬間だった。
じわじわと込み上げてくる震えるような感動。ゴライアスたち、あの別れた仲間たちの顔が脳裏をよぎる。
「俺の腕は、まだ生きてる……!」
ガルバは動いた親指を愛おしそうに見つめながら、暗くなりかける部屋の中で、静かに涙を流した。
やがて涙が乾くと、ガルバの胸の内に、別の感情が激しく湧き上がってきた。
誰かに言いたくて、言いたくて、仕方がなくなったのだ。
この一ヶ月間の血の滲むような努力が、ついに実を結んだのだと、大声で叫びたい衝動に駆られていた。
しかし、一瞬だけ冷静になる。
(……いや、誰かに言ったところで、ピクリとしか動かない指を見せられたほうは対応に困るだろうな)
この世界の常識では、魔法やポーションで治らなければそこで終わりだ。ただ指が1ミリ動いただけで「腕が治る!」と大騒ぎする元冒険者を見れば、村の人々はきっと、哀れみの目を向けるか、頭がおかしくなったのかと困惑するに違いない。この『ピクリ』にどれほど途方もない価値があるのか、普通の人には理解できないのだ。
だが、ガルバの脳裏に、一人の女性の姿が鮮明に浮かび上がってしまった。
シャルロット様だ。
神経という概念のないこの世界で、唯一その存在を教えてくれた人。奇跡ではなく、泥臭い努力の先に希望があると信じさせてくれた、あの氷藍の瞳の少女。
彼女なら、この小さな1ミリの動きを、誰よりも一緒に喜んでくれるはずだ。
「……待っててくれ、シャルロット様!」
ガルバは胸の高鳴りを抑えきれないまま、右腕を再び紐で固定することも忘れ、ジークのナイフだけを腰に差して部屋を飛び出した。夕闇が迫るエデン村の街道を、西の川沿いにあるあの家を目指して、ただ夢中で駆け出していくのだった。




