第二話 新天地、エデン村
地方都市グリーネを出発してから、どれほどの時間が経っただろうか。
ガルバは辻馬車の硬い木製の座席に揺られながら、窓の外を流れる景色をぼんやりと眺めていた。
追放されたあの日、宿屋の部屋でエデン村へ向かうと決めたガルバは、いくつかの街や村を経由して何日もかけて移動する覚悟をしていた。右腕が使えない今の体では、長旅はそれだけで苦行になるはずだったからだ。
しかし、ギルドの馬車発着場に向かってみれば、エデン村への直行便が出ているという。
拍子抜けするほどあっさりと乗り込めた馬車は、整備された街道を驚くほどスムーズに進んでいた。移動自体は、驚くほど楽だった。体力を削られずに済んだのは、今のガルバにとって何よりの幸運と言えた。
ガタゴトと規則正しい振動が体に伝わる。
ガルバはふと、胸元に視線を落とした。上着の内側では、麻紐でぐるぐる巻きにされ、胴体にぴったりと固定された右腕がある。揺れで不意に動いて邪魔にならないようにするための処置だ。
見た目には、高級ポーションのおかげで傷一つない。しかし、その中身は今も変わらず、氷の塊を埋め込まれたように冷たく、激しく痺れていた。左手で上から触ってみても、やはり自分の肉だという感覚はまるでない。
(もう、冒険者には戻れない。……これが俺の現実だ)
楽な旅路だからこそ、その残酷な現実がより鮮明に脳裏に浮かび上がる。
だが、ガルバは自嘲の笑みを浮かべるのをやめた。ゴライアスたちの涙を、ジークのナイフを思い出す。腐っている暇など、一瞬たりともないのだ。
「おい、あんた。エデン村に着いたぞ」
御者のぶっきらぼうな声に、ガルバはハッと我に返った。
背嚢を左肩に引っかけ、馬車から地面へと飛び降りる。
その瞬間、ガルバは目の前に広がった光景に、思わず息をのんだ。
「……すげえな、これが……」
地平線の彼方まで続いているのではないかと思えるほど、とてつもなく広大な農園が広がっていた。緑の葉が波のように揺れ、規則正しく区切られた畑がどこまでも連なっている。
噂には聞いていた。あそこは、この辺境を治める高名なエドワード辺境伯様が、国費を惜しみなくつぎ込んで整えた大農園なのだ。
この世界では、誰も考えつきもしなかった農業の手法――『輪作』。
同じ土地に毎年違う作物を順番に植えることで、土を枯らさず、果てしない効率で収穫を続ける奇跡のサイクル栽培。その最先端の技術によって、ここでは帝国全土の胃袋を支えるほどの膨大な農作物、主に『ジャパイモ』が生産されているのだ。
かつて冒険者として世界を見て回ったガルバの目から見ても、その規模は圧倒的だった。
広大な大地を埋め尽くすジャパイモの葉を見つめながら、ガルバは自分の動かない右腕をポンと叩く。
(これだけデカい農園だ。人手不足なら……俺みたいな片腕の男一人でも働けるはず)
かつて「頼れるエース」と呼ばれたプライドは、すでに王都の宿屋に捨ててきた。
今の自分は、ただ生きるために必死な、五体満足ではない一人の男にすぎない。ガルバは表情を引き締めると、農園の入り口に見える大きな管理小屋へと足を進めた。
「頼みます! ここで働かせてください!」
管理小屋の中、農園の責任者らしき初老の男の前に、ガルバは直談判に及んでいた。
だが、責任者はガルバの体にくくりつけられた右腕を一瞥すると、困り果てたように眉を下げ、首を横に振った。
「気持ちはありがたいがね、若い冒険者さん。うちの農園の雇用は、ここでの直接採用はやっておらんのだよ。すべて都市のギルドを通した『登録制』になっておる。勝手に人を雇う権限は、私にはないんだ」
「そこをなんとか……! 雑用でも、荷物運びでも何でもやります! 体力には自信があるんです!」
「規則なんだ、すまないね」
冷たく、しかし絶対的なお役所の壁だった。
ここで引き下がれば、もう行く場所はない。都市のギルドに戻ったところで、片腕の元冒険者を農夫として登録してくれる保証などどこにもないのだ。
ガルバは躊躇わなかった。
バッと一歩後ろに下がると、そのまま床に両膝をつき、両手を突き、床に額をこすりつけた。
――土下座だった。
「お願いします……! どんなに安い給金でもいい!ここで働かせてください……!」
責任者が「おい、よせ、やめなさい!」と慌てて声を上げるが、ガルバは頭を上げない。かつての仲間たちなら、エースと呼ばれたガルバのこんな惨めな姿を見たら泣くだろう。だが、ガルバは同情されてでも、憐れまれてでも、この場所にしがみつきたかった。
その時、管理小屋の重い木の扉が静かに開き、部屋の奥に爽やかな風が吹き込んできた。
何事かと顔を上げた責任者が、入り口の方を見た瞬間に目を見開き、ガタガタと椅子を鳴らして立ち上がる。
「あ、あなた様は……っ! なぜこのような場所に!」
責任者のあまりの狼狽ぶりに、ガルバも額を床につけたまま、そっと視線だけを入り口へと向けた。
そこに立っていたのは、一人の少女だった。
思わず言葉を失うほどの、絶世の美少女だった。光を弾く滑らかな銀の髪。すべてを見透かすような、深く冷たい氷藍の瞳。年齢は17歳くらいだろうか。この泥臭い農園にはおよそ不釣り合いな、この世のものとは思えない神秘的な雰囲気をまとっていた。
彼女は、土下座をして泥にまみれているガルバの姿を、その美しい瞳で静かに見つめていた。
「どうかされましたか?」
その鈴の鳴るような、しかし凛とした声が部屋に響いた。
「こ、これは……これは、シャルロット様!失礼いたしました!」
さっきまで冷酷に規則を口にしていた責任者が、顔を真っ青にして慌てふためき、椅子の背をひっくり返さんばかりの勢いで頭を下げた。
シャルロットと呼ばれた少女は、責任者の狼狽ぶりには目もくれず、静かな足取りでガルバへと近づいてきた。
そして、ガルバの体にくくりつけられている動かない右腕を、じっと見つめる。
次いで、その奥にある、ガルバの真剣そのものの眼差しと視線を交わした。
「お立ちください」
彼女の静かな声が、ガルバの耳に届く。
ガルバは理解した。この農園の管理者がこれほどまでに怯え、顔を伏せるほどの存在だ。彼女がどういう立場なのかは分からないが、この大農園において、間違いなく絶対的な「権力」を持っている。
ガルバは立ち上がる代わりに、その17歳の少女に向けて、さらに深く地面に額をこすりつけた。
「お願いします、シャルロット様……! 俺には、もうここしか行く場所がないんです。片腕でも、人の倍は働きます。どうか、俺をここで雇ってください!」
22歳の元冒険者が、一回りも年下の小娘に頭を下げ、懇願している。その姿がいかに不格好で、惨めであるか。しかしだからこそ、ガルバの言葉には一切の嘘がなく、生きることへの強烈な一生懸命さが、ひしひしと伝わってきた。
責任者は青ざめたまま言葉を失っている。
シャルロットは、頭を下げ続けるガルバをしばらく無言で見つめていた。その氷藍の瞳に、かすかな揺らぎが走る。
「……何か事情があるのですね。あなたのその目、嘘をついているようには見えません」
シャルロットは静かに振り返り、部屋の外へと歩き出した。
「話を聞かせてください。ついて来てもらえますか」
その言葉に、ガルバの胸の奥でドクンと鼓動が跳ねた。
「ついて来い」ということは、まだ可能性が残されているということだ。格好をつける余裕なんて、とうに捨てた。同情を引いてでも、憐れみの目を向けられてでもいい。雇ってもらえるなら、どんな泥水だってすすってやる。
「――はいっ! ありがとうございます!」
ガルバは勢いよく立ち上がると、服についた埃を大雑把に払い、前を向いて歩き出した。彼女の銀の髪の背中を、必死の思いで追いかけた。




