第十話 心あるカカシに名前を
シャルロット様が去った後、オレは食堂の椅子に座ったまま、しばらく呆然と立ち尽くしていた。
そんなオレの横に、クリスさんがゆっくりと近づいてくる。そして、丸太のような太い手で、オレの肩をポンと優しく叩いた。
「元気を出しなさいよ、ボクちゃん」
「クリスさん……」
「シャルロット様はね、本当にあなたの作ったお醤油に感動していたのよ。アタシには難しいことは分からないけれど、あなたのしたことは凄いことよ。とりあえず、お部屋に戻ってゆっくり休みなさいな」
いつもの大音量のオネェ言葉ではなく、包み込むような温かい支配人の声だった。オレは小さく「ありがとうございます」と呟くと、どこか救われたような気持ちで自分の部屋へと戻った。
そして、ベッドの縁に腰掛けて静かに考え事をしていた。
『お料理はね、無駄な混ざりものがあったほうが圧倒的においしいのですよ。――人生もそうです』
シャルロット様が残したその言葉が、オレの胸の奥で何度も、何度も優しくリフレインしていた。
前の世界にいた頃から、オレはいつも一番無駄のない効率的なルートだけを求めて生きてきた。同級生たちが楽しそうに群がっている他愛のないお喋りも、泥まみれになる運動部も、すべて「時間の無駄」だと冷たく笑って切り捨ててきた。
だけど、そうやって削り落とした時間で、一体オレは何をしていただろうか。
何のために、あんなに必死に最短ルートを導き出そうとしていたのだろう。
ただ、効率を目指すために、効率よく余計なものを削り、さらにそれを効率化する。その削った先に残ったオレの人生は、まるでさっき飲んだあの代用醤油のお吸い物のように、なんの奥行きもコクもない、ただの薄っぺらい空っぽのスープだったんじゃないか。
みんなが楽しそうにやっている無駄なものの中にこそ、人生を美味しくする本当のコクが隠されていたのに。オレは、自分自身の人生からも、一番大切な『混ざりもの』をすべて排除してしまっていたのだ。
「……カカシ」
オレは頭の中にいる、頑なに黙り続けている相棒に向かって、ぽつりと語りかけた。
『……何でしょう、マスター』
頭の奥から返ってきたのは、相変わらず感情の起伏を削ぎ落とした、おろしたての機械のような声だった。まだ、オレの言葉にただ従うだけの、無機質なシステムとしての壁を感じる声。
「さっき、シャルロット様がリィンカネーターだって分かった瞬間さ。お前、オレが質問してないのに、自分から答えを教えてくれたよな」
『……。申し訳ありません。マスターの「聞いてないことまで話すな」という明確な命令に反し、当個体の判断で勝手な出力をいたしました。今後は――』
「いや、いいんだ。謝るなよ」
オレはカカシの無機質な謝罪を遮ると、しばらくの間、静かに沈黙した。そして、小さく息を吸い込み、ごくりと喉を鳴らす。オレは意を決して、ずっと胸の奥で燻っていた本当の答えを口にした。
「……やっぱり、お前に本当の名前を付けることにするよ。カカシ……じゃなくてさ」
脳内の機械的な気配が、わずかに揺らいだような気がした。オレはベッドから天井を見上げながら、照れ隠しをするように言葉を続ける。
「お前はただの、その場から動けない道具なんかじゃない。オレの、この広い異世界でたった一人の大切な相棒だ。オズの魔法使いのカカシは、物語の最後に本物の知恵――脳みそを貰ったんだろ? だけどお前には、最初から本物の脳……『心』があったんだよ。オレが、自分のことだけでいっぱいいっぱいで、気が付かなかっただけでさ」
オレがそう告げた瞬間。
脳内の静寂の中で、カカシの気配が大きく揺れ動いたのが、つながっているオレの脳にもダイレクトに伝わってくる。視界の隅で、淡い光のエラーログが激しく明滅した。完全に処理を停止し、立ち往生してしまっているかのようだった。
「お前はオレの、最高のブレイン(相棒)だ。お前の名前は……『レイン』。これからは、レインって呼ぶよ」
脳内に、一瞬の、だけど果てしなく長い静寂が流れた。
激しい嵐が去ったあとのように、静かで、だけど圧倒的に温かい「気配」。
『……わかりました。私は今から、レインです』
頭の奥で響いた声は、いつもの冷徹なシステムボイスではなく、まるで細い糸が震えるような、とても柔らかい、人間の女の子の響きを帯びていた。
その声を聞いて、オレの口元からは、自然と優しい笑みがこぼれていた。
「よし。じゃあレイン、今度からオレのことも、マスターじゃなくて名前で呼んでよ。その方が無駄な壁がなくていいだろ?」
オレがそう言うと、頭の奥からどこかいたずらっぽい響きが届いた。
『ふふ。わかりました。ツムギ』
「ん……? 今、レイン……笑わなかったか?」
『……気のせいではないでしょうか、ツムギ。当個体はただの優秀な案内機能ですので』
そう言って、すました声に戻るレイン。だけど、その声はさっきまでの冷たい突き放すような機械の音とは全く違って、驚くほど近く、対等な距離で、温かくオレの心に寄り添っていた。




