第九話 効率の涙と、令嬢の告白
本物の技術で作られた本物の醤油と比較された瞬間、オレが時間を削るためだけに作った「偽物の醤油」の化けの皮は、跡形もなく引き剥がされてしまった。
昨夜ベッドの中で膨らませていた輝かしい期待が、音を立てて粉々に砕け散っていくのを、オレはただ呆然と実感するしかなかった。
オレの愕然とした顔を、シャルロット様は静かに見つめていた。
だが、その美しい氷藍の瞳にあるのは冷徹な蔑みではなく、まるで迷子を優しく見守るような、とても温かい眼差しだった。
「あなた、お名前は?」
「え……あ、折原……紬、です……」
他人の感情に付き合うのは時間の無駄だと、自分の周りに高い壁を作ってきたオレが、喉の奥を震わせながら不器用に本名を答えていた。
シャルロット様はオレの名前を聞くと、ふわりと柔らかく微笑んだ。
「紬さん。私たちが、この村の職人たちと一緒に、一年近くの時間をかけて、じっくりと発酵させて作ったお醤油はおいしいでしょう?」
「……はい。敵うわけ、ないです……」
「お料理はね、無駄な混ざりものがあったほうが圧倒的においしいのですよ。――人生もそうです」
「え……?」
シャルロット様から放たれたその言葉は、静まり返った食堂の中に、驚くほど優しく、だけど決定的に響き渡った。
「私たちが作ったお醤油には、時間や、職人たちのこだわりや、目に見えないたくさんの『無駄に見えるもの』が混ざり合っています。だからこそ、あそこまでの深いコクと香りが生まれるのです。紬さん、あなたが作ったものは、確かに一番早くて無駄がないかもしれないけれど……それだけでは、本当の美味しさには届かないのですよ」
その言葉を聞いた瞬間、オレの胸の奥から、これまで必死に隠していた格好悪い本音がポロポロと溢れ出してきた。
「……お店でお醤油の値段を見て、すごく高かったから……安く手っ取り早く作れる仕組みを見つけられれば、大金が稼げるって思ったんです。オレ、手持ちのお金が残り少なくて……早く、一番楽な最短ルートでお金を稼ぎたくて……っ」
そこまで一気に白状したとき、オレの目から、熱いものが一気に溢れて止まらなくなった。
ボロボロと涙がこぼれ落ち、テーブルの上の「塩辛くて黒いだけのお湯」にポタポタと落ちていく。
「オレ……なんて浅はかで、最低な奴だったんだ……。時間を短縮して作ったこんな薄っぺらいもの、商品になるわけがないのに。他人の努力も時間の重みも何も知らないくせに、効率良く大金を儲けようとするなんて。効率を求めることだけが絶対にいいことだなんて、オレの勘違いだったんだ。本当に……オレが浅はかでした……っ」
他人の面倒な感情を切り捨て、孤高を気取っていたオレのプライドは、今ここで完全に崩壊した。
ただ要領よく生きることしか考えていなかった自分の身勝手さが恥ずかしくて、情けなくて、涙で視界がぐしゃぐしゃになる。オレは顔を伏せ、自分の犯した軽率な行動をただ激しく呪うしかなかった。
ところが。
オレの涙ながらの猛反省を聞いていたシャルロット様は、なぜか、きょとんとした顔をしていた。
そして、困ったような笑顔を浮かべると、愛おしそうにオレの作った「代用醤油」のお椀を両手で包み込んだ。
「いいえ、紬さん。そんなことはないですよ。あなたがしたことは、決して浅はかなことなんかじゃありません」
「え……?」
「……貴方のお醤油、私、とても懐かしい思い出を思い出しました。前の世界での、――あの太平洋戦争中の何もなかった時代。大豆などの材料不足から、配給も限られており、その中でも少しでもおいしく楽しく生きるために、当時の人たちが必死に求めたのが、まさにこの『代用醤油』だったのです」
「っ――!?」
オレの全身を、文字通り激しい衝撃が駆け抜けた。
喉の奥が引き攣り、目玉がこぼれ落ちそうになるほどに目を見開く。
(待て……。今、この人、なんて言った……!? 太平洋戦争!? 配給!? なんでこの世界の、それも隣国のお姫様が、オレのいた世界の世界史の言葉を――)
頭の中の計算回路が完全に爆発してパニックを起こしているオレの脳内に、ずっと頑なに黙り込んでいたカカシの声が、一瞬の遅れもなく鋭く響き渡った。
『マスター!緊急警告……!』
脳内に響くカカシの音声が、不自然に細切れに歪んだ。その声が、まるで極寒の中で歯の根を鳴らしているかのように、微かに震えている。
『目の前の個体、公爵令嬢シャルロットは、あなたと同じ世界からの記憶を持って生まれ変わった【リィンカネーター】の可能性が99.87%!あなたのような『転移者』とは異なり、リィンカネーターはこの世界の輪廻に混ざり込んだ、あの女神の力すら及んでいない完全なイレギュラー!不用意な動揺は、こちらの立場を著しく危うくします!冷静に!』
機械的な報告の奥から、冷たい汗を流すような「生物としての恐怖」が、生々しくオレの脳髄へと伝わってきた。
リィンカネーター。あのポンコツ大女神の管轄外の存在。
その事実を告げるカカシの声は、冷徹なシステムとしての体裁を保ちきれず、明確な『おびえ』を孕んでオレの精神を激しく揺さぶった。
横に座るクリスさんは、シャルロット様が口にした「太平洋戦争」や「配給」という言葉の意味が、全く理解できていないようだった。けれど、そこはさすが王国の高貴なお姫様、アタシたちの知らないどこか遠い国の高尚な歴史のお話をされているのね、と言いように解釈して、一人で深く頷いている。
クリスさんには絶対に分からない。
今、この空間で、オレとシャルロット様の二人だけにしか通じない、前の世界の秘密の通信が交わされているのだ。
冷や汗が止まらぬまま硬直しているオレを、シャルロット様は真っ直ぐに見つめていた。その美しい氷藍の瞳には、すべてを察した光が宿っている。そして、シャルロット様はオレに向かって、少女のような温かい笑顔を浮かべてみせた。
「あの時代の人たちは、あなたと同じように『どうすればもっと早く、安く、たくさんの人を救えるか』という効率を必死に追い求めて、この知恵を生み出しました。それは、飢えの中で命を繋ぐための、とても尊い効率化です。だから、自分を責めないでください。私は、このお醤油を飲んで、昔の、前の世界での家族を思い出しました。……作ってくれて、ありがとう――」
「あ……」
心の底から感謝を告げて、彼女は優しく微笑んだ。
完璧な醤油を作って大儲けするはずだったオレの計画は、完全に失敗した。
だけど、ただの金儲けの道具だと思って作ったオレの「偽物の醤油」は、この世界で最も完璧な知性を持つ憧れの令嬢の心を、最も深いところで救い、そしてオレの薄っぺらな心をも、優しく包み込んでくれたのだった。




