第八話 憧れの令嬢と、静かなる相棒
翌朝、オレは窓から差し込む朝日の眩しさに目を覚ました。
ベッドの上に身体を起こし、小さく伸びをする。
いつもなら、オレが目を覚ました瞬間に「おはようございますマスター」と、頼んでもいないのに頭の中に声を響かせてくる手元の万能な相棒は、今朝は静かに黙ったままだった。
「……おはよう、カカシ」
オレの心の中に少しだけ残っていた気まずさを押し殺し、自分から頭の中で声をかけてみる。すると、頭の奥から返ってきたのは、徹底的に平らで冷たい、おろしたての機械のような音声だった。
『……おはようございます、マスター』
それ以上は何も言ってこない。オレが「聞いてないことまで話すな」と怒鳴った約束を、カカシは頑なに守り続けているのだ。一筋の無駄もない、オレが求めた通りの完璧なナビゲーターの姿。なのに、オレの胸の奥には、どこか割り切れない小さな寂しさがぽつりと残った。
オレは頭を振って寂しさを誤魔化すと、昨夜のクリスさんとのやり取りを思い出した。
一口舐めた瞬間に、一発で醤油だと当てたあの人の舌。あれだけのクオリティのものが出来上がっているんだ。きっと、もの凄く良い評価がもらえるに違いない。
これからの商売の大逆転ルートを期待して胸を膨らませながら、オレは身支度を整えて一階の食堂へと階段を降りていった。
一階へ降りると、いつもなら香ばしいスープの匂いと共に大音量で出迎えてくれるはずのクリスさんの姿が、どこにもなかった。
どうやらどこかへ出かけているらしい。けれど、あの支配人がいなくても、この宿屋の従業員たちは何一つ無駄のない動きでテキパキと仕事をこなしていた。やっぱりこの村の効率的な仕組みはすごい。
オレは男の従業員の一人に声をかけ、用意してもらった温かい朝食をテーブルに並べて食べ始めた。
スープを口に運び、これからの商売の計画をあれこれと頭の中で組み立てている、その時だった。
カランカラン
宿の入り口の鈴が涼やかに鳴り響いた。
見ると、外からクリスさんが戻ってきたところだった。けれど、その横に信じられない人物を連れているのを目撃して、オレはスープを吹き出しそうになった。
(え、嘘だろ……!? なんであのお姫様がここに……!)
クリスさんの隣を歩いていたのは、さらりと風に流れる神秘的な銀色の髪に、深い知性を宿した氷藍の瞳を持つ、あの超絶美少女――公爵令嬢シャルロット様本人だった。
「ごふっ……!」
オレは激しく動揺しながら、大急ぎで口の周りをスープのついた布で拭った。
寝癖はついていないか、髪の毛が変に乱れていないか、心臓をバクバクと鳴らしながら急いで自分の頭を両手でなでて整える。他人の感情なんてどうでもいいと一蹴していたはずのオレが、今やただのウブな男の子のように、見苦しいほどに舞い上がっていた。
オレのそんな必死の慌てっぷりに気がついたのか、シャルロット様の美しい瞳が真っ直ぐにこちらを捉えた。
彼女は隣を歩くクリスさんと何かつぶやき合うと、二人で真っ直ぐにオレの座るテーブルに向かって歩いてくる。
床を鳴らす足音が近づくにつれて、オレの緊張は限界まで跳ね上がった。
オレの目の前で足を止めたシャルロット様は、昨日のような柔らかい笑顔ではなく、その美しい氷藍の瞳に真剣な、どこか値踏みするような鋭い光を宿してオレを見下ろした。
そして、鈴の鳴るような澄んだ声で、オレにこう言い放ったのだ。
「あなたですか? この代用醤油をつくったのは?」
「え……あ、はい。そうですけど……」
あまりの迫力に圧倒され、オレは気の抜けた返事しかできなかった。するとシャルロット様は、オレとクリスさんをテーブルに座らせると、「少しお借りします」とだけ言い残して、迷いのない足取りで宿の厨房へと入っていった。
昨日小川で見かけた時とは少し違い、その顔からは親しみやすいにこやかな笑顔が完全に消えている。その凛とした冷たい横顔を見て、オレの胸にじわじわと不安が広がっていく。
横に座るクリスさんは「大丈夫よ」と優しく声をかけてくれるが、その言葉がかえってオレの心臓を嫌な音で脈打たせた。
しばらくすると、厨房からシャルロット様が4つのお椀を盆に乗せて戻ってきた。
そして、オレとクリスさんの前に、それぞれ二つずつのお椀を並べて置いた。
「飲んでみてくださいね」
静かに促され、オレは緊張で手が震えるのを必死に抑えながら、まず一つ目のお椀を手に取って口をつけた。
驚くほど濃厚で、大豆のまろやかな旨味と華やかな香りが口いっぱいに広がる。出汁の味と完璧に調和した、文句のつけようがないほどに美味い最高のお吸い物だった。
「……美味い」
思わず感嘆の声が漏れる。だが、問題はもう一つのお椀だ。
オレは唾を飲み込み、そちらのお椀へと手を伸ばした。中身は間違いなく、オレが昨夜密造した「ジャパイモの醤油」で作られたお吸い物だ。
お椀に顔を近づけた瞬間、オレはまず最初の違和感に目を見開いた。
香りが、全く立っていない。
さっきの本物のお吸い物のような、食欲をそそる豊かな香りがまるでないのだ。湯気からは焦げた砂糖の甘苦い匂いとお酢の酸味がかすかに漂うだけだった。
嫌な汗が背中を伝う中、オレはそれを口に含んだ。
「――っ!?」
次の瞬間、オレの脳内に強烈な衝撃が走った。
まずい。圧倒的に、まずい。
味の奥行き(コク)が、どこを探しても全く存在しないのだ。本物のような大豆のまろやかな旨味が一切なく、ただ出汁の味と喧嘩した、嫌な塩辛さだけがトゲトゲと舌の上で鋭く尖っている。旨味がなく、驚くほどに味が薄っぺらい。
これでは、醤油のスープなんかじゃない。ただの「塩辛くて黒いだけのお湯」だ。
(な、んだよこれ……。昨日舐めた時は、ちゃんと醤油の味がしたはずなのに……!)
本物の技術で作られた本物の醤油と比較された瞬間、オレがドヤ顔で作った「偽物の醤油」の化けの皮は、跡形もなく引き剥がされてしまった。
昨夜ベッドの中で膨らませていた輝かしい期待が、音を立てて粉々に砕け散っていくのを、オレはただ呆然と実感するしかなかった。




