第七話 深夜の試食会
部屋の机の上に置いたコップの中で、怪しく艶めく黒褐色の液体。
オレはそれをじっと見つめた後、意を決して、指先につけたそれをもう一度ペロリと舐めてみた。
「……うーん。やっぱり、よく分からん」
見た目はどう考えてもお店で売っている高級な醤油そのものだし、味も確かに醤油だ。だが、これが調味料として「本当に美味しいのか」「お店で売れるレベルなのか」と聞かれると、オレの舌ではまったく自信が持てなかった。
考えてみれば当然だ。前の世界にいた頃のオレは、ただの16歳の男子高校生。実家で母親が買ってきた徳用醤油を、目玉焼きや冷奴に何も考えずにドバドバかけていただけのガキだ。醤油そのものの味の深みや、職人がこだわるコクの違いなんて、最初からオレの舌の記憶には存在しないのである。
「自分の知識で作れる限界はここまでか。だったら、この世界の誰かに確認してもらうのが一番手っ取り早いんだけど……」
そう考えた時、オレの頭に浮かんだのは、この宿の受付にいるあの人物の顔だけだった。他に知り合いなんて一人もいないのだから選択の余地はない。
だけど、正直に言って、あのややこしすぎる塊のような人とは、あまり積極的に会いたいわけではなかった。
「……いや、背に腹は代えられない。お金のタイムリミットの方が深刻だ」
オレは偽物の醤油が入ったコップを慎重に手に持つと、部屋の扉を開けて廊下へと出た。
ツムギが醤油づくりに一生懸命になっているうちに、時間はすっかり夜遅くなっていた。
昼間はあれほど激しく馬車が行き交い、泥臭い活気に満ち溢れていた村は、今や嘘のように静まり返っている。
ギシギシと軋む木造の階段を静かに降りて、一階の食堂へと向かう。
食堂の営業時間はとっくに過ぎ去っており、広々とした食堂は必要最小限の薄暗い明かりしか灯されていなかった。昼間はクリスさんのつけている高級な整髪料の香りが漂っていた空間は、今はすっかり冷え切っていて、静かなものだった。
カウンターの奥を覗き込んでも、誰もいない。
「……これ、出てこないのなら、それはそれで仕方ないか」
誰もいないなら部屋に戻って寝よう。オレは心の中でそんな言い訳を用意しながら、食堂の闇に向かって、いつもよりずっと小さな声で呼びかけてみた。
「……クリスさーーん」
出てこなければ、明日また考えればいい。そう思って踵を返そうとした、その瞬間だった。
奥の暗い調理場から、ゴソゴソ、と何かが動く重苦しい音が響いた。
オレの身体が本能的にビクッと強張る。
薄暗い明かりの向こうから、ゆっくりと、信じられないほど大きな人影が姿を現した。
丸太のような二の腕に、はち切れんばかりの大胸筋。昼間の賑やかな光がないこの状況だと、その規格外のシルエットは、まるで夜の闇から這い出てきた本物の怪物のようだ。
ゆっくりと近づいてくる巨体に圧倒され、オレは思わず生唾を飲み込んだ。だが、怪物のような影がオレの前に立ち止まった瞬間、そこから返ってきたのは、昼間よりも少しトーンを落とした、本当に申し訳なさそうな優しい声だった。
「……あらあら、どうかしたの? もうお店の営業時間は終わっちゃったのよ。お腹空かせちゃったかしら、ごめんなさいね……」
宿の支配人として、遅れてきた宿泊客を純粋に気遣ってくれているのが伝わってくる。昼間のあの、ぐいぐい迫ってくるオネェの勢いは少し鳴りを潜めており、その根の優しさにオレは少しだけ拍子抜けしてしまった。
だけど、今のオレにとって夕食なんてどうでもよかった。
早くこの手にある液体の正体を、この世界の住人の舌で確かめてもらいたかった。
「あの、夕食じゃなくて……ちょっと、これの味を見てほしくて。オレが自分の部屋で作った、醤油に似た味の調味料なんですけど」
オレは正直にそう言って、さっき部屋で作った黒い液体の入ったコップを、震える手でクリスさんに手渡した。
「あら、これボクちゃんの故郷の調味料なのかしら?」
クリスさんは不思議そうに首を傾げながらも、太い指で器用にコップを受け取った。そして、その黒褐色の液体をじっと見つめた後、小指の先を少しだけ浸して、自分の舌の上にちょんと乗せた。
じっと見守るオレの心臓が、ドクドクと激しく脈打つ。薄暗い食堂の中に、時計の針の音だけが響くような、奇妙な時間が流れた。
クリスさんの動きが、ピタッと止まった。
「ん? これ、醤油よね……? 見た目も味も醤油なんだけど……」
薄暗い明かりの中で、クリスさんの氷のように鋭い視線が、コップの液体とオレの顔を交互に行き来した。いつもの乙女チックな仕草は完全に消え去り、そこにはかつてレッドドラゴンを沈めたという、元一流冒険者の冷徹な顔があった。
オレは緊張で少し喉を鳴らしながら、核心の質問をぶつけてみることにした。
「あの、オレ……これを商品にして、お店で売ろうと思ってます。どうでしょう? 売れそうですかね?」
この世界の住人に、このジャパイモの醤油がどこまで通用するのか。オレのこれからの生存戦略が、クリスさんの次の言葉にかかっていた。
しかし、クリスさんはじっと黙り込んでしまった。
食堂の中に、重苦しく、そして何かを測るような不思議な間が流れる。他人の感情を読み解くのが苦手なオレにとって、この沈黙は心臓に悪すぎた。
どれくらいの時間が経っただろうか。クリスさんはゆっくりと顔を上げると、少し真剣なトーンの低い声でオレに告げた。
「うーん……。ちょっと、これアタシに預けてもらえるかしら?」
「え、預ける……ですか?」
「ええ。ちょっと知り合いに、これの詳しい価値がわかる人がいるのよ。その人に一度、見てもらいたくてね」
クリスさんの表情からは、その本心を読み解くことはできなかった。
だけど、自分の舌だけではこの調味料がどれほど通用するのか、正しい評価を下すことはできない。現地の、それもこの村の流通をよく知っている人にしっかりと評価してもらえるなら、それに越したことはないはずだ。
「……分かりました。じゃあ、それでお願いします」
「ありがとね、ボクちゃん。預からせてもらうわ」
クリスさんはそう言って、黒い液体の入ったコップを大事そうに受け取った。
オレはクリスさんに挨拶をして、自分の部屋へと戻った。
静かな部屋でブレザーを脱いでハンガーにかけ、ベッドの中に潜り込む。
枕に頭を沈めながら、オレはさっきの食堂での出来事を思い出していた。
(そういえばクリスさん、あの薄暗い中で一口舐めた瞬間に、一発で『醤油よね?』って当てたんだよな……。オレの作った偽物の醤油、相当クオリティが高いんじゃないか?)
本物の醤油とは少し違うところはあっても、現地の人間が醤油だと一発で認めるレベルのものが出来上がっている。
これなら、もしかすると、本当にここから大金を稼ぎ出す大逆転のルートが開けるかもしれない。
「ふふ、明日が楽しみだな……」
これからの商売の成功への大きな期待を胸に抱きながら、オレは心地よい興奮に包まれて、異世界での二度目の眠りへと落ちていった。




