閑話 氷の公子の焦燥と狂騒(アルベルト視点)
「放っておきなさい。婚約破棄されただけでも一族の恥だというのに、手紙一枚で夜逃げ同然に消えるとは。ローゼンバーグ公爵家の駒としての価値を自ら捨てた不届き者など、我が家に必要ない」
冷徹な父の言葉に、母も冷ややかな笑みを浮かべて頷くだけだった。
王宮から届いた、我が妹シャルロットの婚約破棄と国外追放の報せ。
そして、その直後に大商会の早馬が届けてきた、シャルロット本人からの手紙。
『隠居します。探さないでください』
あまりにも軽薄で、ドライで、そっけない手紙。
父上も母上も、完璧な貴族としての価値しか子供に求めない。役に立たなくなった娘など、どこで野垂れ死のうが興味がないのだ。かつての私なら、その冷酷な決定にただ無言で従っていたことだろう。
だが、この時の私は、冷徹な「氷の貴公子」の仮面の裏で、胸が張り裂けそうなほどの恐怖に襲われていた。
(嘘だろ……シャルロット。お前、正気なのか……!?)
脳裏をよぎるのは、まだ幼かった頃の記憶。
厳格な父上の目を盗んで、一度だけ庭の隅で一緒に泥んこになって遊んだ時のことだ。転んで泣きじゃくる小さなシャルロットの泥を払いながら、私は必死にお兄ちゃんぶって約束したのだ。
『私が一生お前を守ってやるから、もう泣くな』と。
我が家は氷のように冷たい。完璧でなければ居場所がない。だからこそ、私はシャルロットの前では常に冷徹な「完璧な兄」を演じ、いつか家を継いだ時に彼女を不自由のない安全な場所へ囲い込もうと、それだけを目標に生きてきた。
王太子との政略結婚も、王宮という安全圏に彼女を置くためのものだと自分を納得させていた。
それなのに、あの愚かな王太子は妹を泥棒猫のために追い出し、あろうことかシャルロットは実家に一言の相談もなく、忽然と姿を消してしまった。
王太子をはじめとする周囲の男たちを狂わせ、私にまで異様な執着で擦り寄ってきていたあの男爵令嬢。
周りがどれだけ彼女を可憐だと持て囃そうが、私にとっては「なぜか周囲を狂わせる、不気味な女」としか思えなかった。
なぜなら、私の頭の中は常に「妹をどう守るか」だけであり、あの女の不可解な媚びや誘惑など、ただ冷ややかに一蹴するだけの存在でしかなかった。
それほどまでに、私にとってシャルロットは脆くて守るべき存在だったのだ。
隠居? 冗談ではない!
あいつはいつも大人しく、私の後ろで怯えるように守られていた無力な人形のような妹なのだ。そんなあいつが、いつ凶悪な魔物や凶悪な夜盗に襲われるかもわからない、隣国の端の薄汚れた開拓村へ一人で向かった!?
(ふざけるな……! 傷心で頭がおかしくなったに違いない! 憤慨で、寂しさで、頭がどうにかなりそうだ!)
「……アルベルト? どこへ行く」
不審そうに声をかける父を無視し、私はすでに身体を動かしていた。
「執務に戻ります」
そう言い捨てて公爵邸の部屋を出るや否や、私は王宮の執務室へと引き返すことも忘れ、厩舎へ向けて全速力で駆け出した。
道すがら、王都の街道で偶然、これから私との合流を予定していた同僚のクロードと出くわした。
私の尋常ではない殺気と狂気を孕んだ気配を察したクロードは、いつも崩さない爽やかな笑顔を引きつらせて、
「ちょっと待ってアルベルト!? 冷静な顔して一体何処へ行くのさー!?」
と声を裏返して叫び、慌てて私の後を追ってきた。
だが、構っていられない。
人当たりの良い彼なら、私が不在の間の公務や両親への言い訳を完璧に裏で隠蔽してくれるはずだ。持つべきものは気の利く友人である。
「馬を出せ! 一番足の速い黒馬だ!!」
厩舎へ怒鳴り込み、驚く御者から手綱を引ったくる。
「おいアルベルト、正気か!?」と背後でクロードが絶叫していたが、もうその声すら耳に届かない。
護衛を連れていく時間すら惜しい。
あいつが泣きながら魔物に怯えているかもしれないと思うだけで、心臓が爆破しそうだった。
『探さないでください』だと?
あのそっけない文字の裏で、本当は泣いているのではないか。
私が守ってやらなければ、あいつは一瞬で壊れてしまう脆い花なのだ。
「待っていろ、シャルロット……! 今すぐ私が連れ戻してやる!」
馬の腹を蹴り、私は王都を飛び出した。
不眠不休。風を切り、泥を跳ね上げ、ただ妹の安全だけを祈って馬を限界まで走らせた。私の頭の中は、あいつを失う恐怖と、あまりに身勝手な手紙への怒りで完全に狂狂としていた。
――そして、数日間の地獄のような激走の末。
私はようやく、その「エデンの開拓村」へと辿り着いたのだ。
村の入り口に整列する平民ども。その中に、見違えるほど凛とした佇まいで立つシャルロットの姿を見つけた瞬間、私の焦燥は、安堵を通り越して別の怒りへと変わった。
(本当にこんな辺境で、隠居生活などをしようというのか……!)
だから私は、馬から降りることすら忘れ、高い位置からあいつを見下ろし、いつも通りの「冷徹な兄」の仮面を被って、これまでの恐怖をぶつけるように怒鳴り散らしたのだ。
『どこまで愚かなのだ、シャルロット! お前はただの政略の道具であり、我が家の駒に過ぎない!』
あいつを傷つけるためではない。そうやって私の庇護下に引き戻さなければ、いつ失うかわからないからだ。
なのに。
まさかその直後、あのおとなしかった妹から、馬が恐怖で嘶き、私の心臓が止まるほどの「地獄の底からの殺気」をぶつけられ、大衆の前で頭を下げさせられ、さらに交易所へと連行される羽目になるとは。
自分を後ろから大人しく見上げるだけだと思っていた妹が、まさか自分に対してあんなに強烈な威圧感を持って意見してくるなんて夢にも思っていなかった。
そして差し出された、ジャパイモとお茶。
「……うまい」
思わず口から漏れた、あまりにも情けない、しかし本心の言葉。
温かいお茶の湯気を前に、私の張り詰めていた心の氷が、じわじわと溶かされていく。妹が傷つくどころか、この地でのびのびと幸せそうに笑っている姿を見て、ようやく私の焦燥と狂騒は、静かに幕を閉じたのだった。
(……だが、だからといって、お前の家出を認めるわけにはいかないぞ!)
私は湯呑みをテーブルにガタッと置いて、再び厳しい表情を取り戻した。
あいつは私が守るのだ。
兄として、あいつを危険な辺境に置いていくわけにはいかないのだから。




