第一話 タイムパフォーマンス至上主義者
放課後の校舎裏。西日が差し込む誰もいないその場所で、オレ――織原紬は一人、ブレザーのポケットに手を突っ込んだままスマホの画面をタップしていた。
男子制服のネクタイを少し緩め、画面に表示された「定期テスト・現代文の解答速報」を睨みつける。
「……チッ、また平均点以下か。だから国語は嫌いなんだ。『この時の主人公の気持ちを答えよ』とか知るかよ。他人の感情なんて正解のない不確定要素、脳のリソースの無駄遣いだろ」
スマホをポケットに放り込み、誰もいない校舎を見上げる。
教室では今頃、クラスの連中が「誰と誰が付き合って別れた」だの、明日には誰も覚えていないような中身のない会話に笑顔で群がっているはずだ。
オレにとって、ああいう他人の面倒くさい感情のドッジボールに付き合うのは、人生の一番のノイズだった。
馴れ合いという名の非効率に耐えられないから、一歩引いた場所から世界を観察する。学校では常にスマホを弄り、周囲に壁を作って、最短ルートで単位を取る計算ばかりをしていた。
汗を流して泥まみれになる運動部などもってのほか。「タイパ(タイムパフォーマンス)最悪の労働」として論外だ。
その点、公式を当てはめるだけの数学や、丸暗記すれば解ける歴史なら学年上位を取れる。正解が一つに決まっているロジックの世界だけが、オレの安息の地だった。
スマホを開き、乗換案内アプリをチェックする。
「……よし、今日の帰宅ルートの最適解はこれだな。信号の待ち時間まで計算通り。無駄な人間関係を避けて、一秒でも早く家に帰って寝る。これがオレの人生の最適解だ」
オレがスマホをポケットにしまおうとした、その瞬間だった。
足元に、突如として眩い光を放つ幾何学模様の魔法陣が浮かび上がる。
「は?」
驚く間もなかった。視界が急速に引き絞られ、オレの身体は一瞬にして白い空間へと引きずり込まれた。
◇
『あちゃー、またやっちゃった』
目の前にいたのは、息を呑むほど美しい絶世の美女だった。
絹のように滑らかな金髪は星屑を散りばめたように輝き、透き通るような白い肌は神々しい光をまとっている。まさに絵画から抜け出してきたような、自らを大女神と名乗るにふさわしい存在。
16歳の健康な男子高校生として、一瞬だけ目を奪われそうになるほどの美貌。
――のはずだった。
しかし、その完璧な顔立ちには、すべてを台無しにするほどの締まりのない苦笑いが浮かんでいる。
美しい瞳はバツが悪そうに泳ぎ、両手を合わせて拝み倒してきそうな、見るからに「うっかりさん」な空気を全身から醸し出していた。
その間の抜けた顔を見た瞬間、オレの脳内のアラートが激しく鳴り響いた。
(待て。今この女神、歴史のテストより分かりやすい『ミスのサイン』を出したぞ。……まさか、高級なゴミ箱にゴミを入れ損ねて、床にポイ捨てした時みたいなミスに巻き込まれたのか?)
他人の感情を読み解くのは苦手だが、相手の論理破綻やミスを見つけるのはオレの特技だ。
オレは深くため息をつき、ブレザーのポケットに手を突っ込んだまま、冷めきった視線を大女神へと向けた。
「……あの。まずは状況の『説明責任』を果たしてもらえますか?」
『ごめんねー!お供えの ポテチとコーラを召喚する予定が、観てたドラマがちょうど佳境だったからつい夢中になっちゃって。気がついたら座標軸が……じゃなかった! えーっと……その、テヘッ?』
「……」
「――状況は理解した。要するに、そっちのあり得ない不手際でオレの予定が狂ったわけですね。グダグダ言い訳を聞くつもりはないから、速やかに元の世界に戻してくれ」
『うーん、元の世界に戻すのはちょっと無理かな! 』
女神は人差し指をチッチッと横に振り、だらしない笑顔を浮かべる。
『だってね、天界の高濃度なエネルギーに馴染んじゃった今の君を元の世界に戻すとね? 深海魚を急に水上に引き上げるみたいな感じになっちゃうの! 魂の生存圧力が違いすぎて、肉体が維持できないんだ。パン!って、 形残らないよ☆』
『だから、諦めて。お詫びに異世界で有利に生活できるようにチート能力をあげるから、何がいい?』
――ふざけるな!と言いたい言葉を喉の奥で飲み込む。
だらしない笑顔で凄惨な死の現実を突きつけてくるこのポンコツ女神相手に、ここで感情的に喚いたところで時間の無駄だ。オレは冷ややかな視線のまま、実利を取りにいく。
チート能力、ね。
並の人間なら「最強の剣」や「無敵の魔術」を欲しがる場面だろう。だが、効率を愛するオレの答えは最初から決まっていた。
「元の世界に戻せないなら、せめて何でも教えてくれるナビゲーター的なチートをくれ。スマホ使えない異世界とか情報ゼロで詰むし」
『えー、「最強の剣」や「無敵の魔術」じゃなくていいの? 地味〜!』
ため息が出そうになる。
情報。それこそが、一番タイパよく世界を最適化できる最大の武器なんだよ。
知識や常識もないまま強力な武力チートを持つなど、現代で言えば一般人がいきなり拳銃を渡されるようなものだ。持っているだけで周囲に警戒され、現地のコミュニティに溶け込めるわけがない。
むしろ周囲と完全に交流が途絶えて孤立し、すぐに生活が詰むのは目に見えている。
『おっけー、じゃあそれね! ほい。それじゃあチートもあげたし、はい、いってらっしゃーい!』
女神は、高級なゴミ箱へゴミをさっさとポイと放り込むような雑さで、転移の魔法陣を連打した。
「ちょっと待って、まだ初期設定を――」
『ばいばい、頑張ってねー。応援してるよー』
軽いノリで手を振るポンコツ女神の姿を最後に、オレの視界は再び光に包まれた。
◇
目を開けると、目の前にはどこまでも続く草原と、青い空が広がっていた。空気は驚くほど綺麗だ。
オレは手のひらを握ったり開いたりして、身体に異常がないのを確認する。
「……本当に飛ばしやがった。あのポンコツ女神、最後に初期設定すらさせてくれなかったな」
高揚感よりも先に、あまりの非効率さに盛大なため息が出る。せめてあのチート能力だけは無事であってくれ。そう願った瞬間、頭の中に直接、明瞭な音声が響いた。
『これより異世界への転移処理を完了します。それに伴い、当個体はお客様の脳内にて【ナビゲーター】として覚醒いたしました』
『――ナビゲーターです。よろしくお願いします、マスター』
「さっそく起動したか。最悪のスタートだけど、お前がいてくれるなら少しは計算が立ちそうだ。頼むよ」
『マスター。本格的な運用を開始する前に、私に固有の【名前】を付けることを推奨します』
脳内のナビゲーターが、感情のない平坦なトーンでそう告げてきた。
「名前? 必要あるか? 識別記号なんて『ナビゲーター』で十分だろ」
『しかし……【ナビゲーター】では、音声入力および脳内での呼称において、文字数が長くて煩わしくありませんか。一分一秒のロスを嫌うマスターにとって、6文字の呼称は著しく非効率であると判断します』
感情のない声のはずなのに、そこには妙な押し強さがあった。しかも、こちらの「効率重視」の弱みを的確に突いてきている。
「……なるほど。確かに毎回6文字呼ぶのはタイパが悪いな。ロジカルな指摘だ」
オレは腕を組み、小さく息を吐いた。
「分かった。ただ、オレはネーミングセンスに脳のリソースを割きたくない。呼びやすければ何でもいいから、お前の方で最適だと思う名前を適当に決めてくれ。承認するから」
脳内に、妙に長い沈黙が流れた。
まるで、ナビゲーターという機能が、自らのデータの底から何かを必死に検索しているかのような、ほんのわずかなタイムラグ。
『……了解しました。では、【カカシ】がよろしいかと』
「なんでだよ。カカシって、あの田んぼに立ってるワラの塊か? なんでそんな名前にしたんだよ」
『マスターは、地球の童話『オズの魔法使い』をご存知ですか。あの物語に登場するかかしには、最初から名前がありません。中身はただのワラであり、知恵(脳みそ)も持たない。実体も中身もない空っぽの当方には、本来、名前など必要ないのです。……これ以上に相応しい名前など、ありません』
「へえ。オズの魔法使いのかかしか。三文字で呼びやすいし、タイパも良いな。いいよ、じゃあ今度からお前のことは【カカシ】で登録するよ。じゃあカカシ、オレこれからどうすればいい?」
『…………』
頭の中に、妙な静寂が流れた。システム上の処理落ちにしては、少しだけ長い沈黙。
『……了解、しました。これより当個体は【カカシ】として、マスターの指示に従います』
その声は、先ほどよりもどこか平坦で、機械的な冷たさに戻ったように響いた。
オレは即座に呼び名を決定し、現状の最適解を求めた。
『現在地から選択肢は2つ。1つは、西にある地方都市リヒトウェル。手続きが必要ですが、安全な都市です。もう1つは、南東にある豊かなエデン村。大農園があり、手続きなしで入れます』
提示された2つの選択肢。
オレの脳は、一瞬で答えを弾き出した。
「――村だな。エデン村に行く」
『マスター、リヒトウェルに行くのをお勧めします。なぜなら――』
「カカシ、今のオレのステータスを見てくれ。いつの間にかこんな見知らぬ場所に飛ばされて、身分証の一枚も持ってないんだぞ。そんな状態で都市の手続きの行列に並ぶなんて、リスクが高すぎるし、時間の無駄。大農園がある村なら、最悪、飢え死にはしないだろ。まずは今日、明日を生き延びる。これが今の最適解だ」
『……。マスターの生存戦略、および合理的な判断を確認しました。リヒトウェル推奨の提案を撤回します。エデン村への最短ルートを表示します』
視界の端に、緑の光で描かれた一本のルートが表示される。
「よし。じゃあ、サクッと村に行って寝る場所を確保するか」
オレはブレザーのポケットに手を突っ込んだまま、草を踏み締めて歩き出した。




