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黒ウサギ  作者: 田中利佳
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第十一章 決行 -職人達の逆襲-(下)

 19時20分。

 4人を乗せたヘリは、とあるビルの屋上へと降り立った。

 4人とも黙して、喋らない。この後の行動に集中しているのだ。




 そこは、麹町にある日本テレビ、本社屋上だった。

 よく目をこらすと、さるぐつわをかまされ、がっちりと縛られた男が五人、屋上のすみに転がっている。

(…ハイジャックしたんか…)

 恵は、ちらとそちらを見やった。

「…行くぞ」

 伊藤が言った。そしてその重い扉を、開けた。

 エンジンを止める作業をしている畑野をしり目に、残る3人が、一斉に飛び出した。そして、てんでばらばらに走り出し、屋上から下へと飛び降りていく。

 この間、20秒となかっただろう。

 遅れて畑野がゆっくりと姿を現した。パリっとしたグレーのスーツ。黒のビジネスバッグ。どう見てもこの辺に勤める官公庁の職員だ。

 彼は真っ白なヘリの機体に手をやった。そして、

「ありがと」

 この声は、さるぐつわをされていた日本テレビの社員の耳に、かすかに届いていた。




 JR水道橋駅。

 JR中央線の停車駅である。

 この辺りのJR中央線はどこも、神田川に面している駅が多い。水道橋駅も、そうだった。

 その水道橋駅の、神田川を挟んだ対岸に、現在は防災用に設置された船着場がある。

 柵が取り付けられていて中には入れないようになっているが、前に建っている石碑には『市兵衛河岸』と書かれ、その歴史が記されている。

 その市兵衛河岸の目の前(神田川とは逆側)は、対向二車線の外堀通り。さらに東京ドームだ。

 20時53分。

 その外堀通りを歩く、塚本恵の姿があった。左に東京ドームが見えている。車通りもあって、ヘッドライトがまぶしい。

 …と。

 恵の姿が、消えた。




(…よっ。)

 雪乃が手を、ちょいと上げた。

 そこは市兵衛河岸の隣にある、ビルの駐車場の奥だった。

 そのビルと神田川の間には、3m近い高低差のコンクリート製の壁。そして1mもないくらいのわずかな隙間があって、伊藤は雪乃はそこに身をひそめていた。

 恵はその境界線の塀をひらりと乗り越え、雪乃のすぐ隣へと着地した。

(遅かったやん?)

 こそこそと話をする。

(ごめん、ちんたら回り道しとった)

 恵は言った。

(あとカズさんだけか…)

 3人のうち、市兵衛河岸に近いところにいた伊藤は時計を見た。

 20時55分。

 と。

「ごめん遅なった」

 畑野の体が急に降ってきて、恵は飛び上がった。

 雪乃が忍び笑いをしている。が、この辺りは真っ暗で、恵からは雪乃の顔がよく見えていない。

 伊藤はなおも、腕時計と、神田川のほうを注視している。

 と、そこへ川の方から低いモーター音がした。

「…行くぞ。」

 伊藤は3人に声をかけた。頷く3人。

 言うやいなや、伊藤はすくっと立ち上がり、市兵衛河岸の方へと走り出した。そして、その身も軽々と、河岸とビルの間のこれまた塀を乗り越えた。

 するとそこはもう、あの柵の向こうの川辺に向かう階段だった。

 残る3人も、次々と乗り越えてくる。

 河岸の階段を降りると、もうそこは簡易的な船着場と、神田川の黒い水が流れているのみだった。

 恵が見上げると、真正面に水道橋の駅舎が見えた。しかし、人の気は少ない。駅の裏側なのだ。

 と、そこへ一艘のモーターボートが近づいてきた。中で人が、ライトを振っている。

 伊藤も振り返した。

 ボートはみるみる近づき、河岸に着いた。

「乗って。大丈夫や。」

 ここから先は伊藤しか預かり知らぬことらしい。伊藤が3人を促した。




 その船を運転していたのは、てっきり(上層部の)佐藤かと思ったら恵の知らない男だった。

「おぉこれはこれは…!」

 畑野がびっくりした声を上げている。

「貴方は…!」

 伊藤もびっくりしていた。

「やぁ、ご苦労様。」

 男は操縦席から少し顔を上げ、微笑んだのが恵にも分かった。

「佐藤君は今日四班の対応に駆り出されていて動けないというのでね。来てしまった」

 声を聞く限りでは60を過ぎているように恵は思った。

「(運転)代わります、ご案内下さい…!」

 いてもたってもいられなかったらしい。慌てて伊藤が言った。

「ありがとう、ありがとう。」

 男は言って、席を代わった。




「晴海で島崎君が待っています。このまま進めば隅田川へ出る」「了解です」

 そのようなやり取りを聞きつつ、雪乃が畑野のスーツのそでをついついと引っ張った。

「?」

「あの人、だれ?」

 雪乃の声に、畑野はちょっと間をけた。驚いたらしい。

「…そうか。知らなんだか。あの方はな、」

 恵も聞き耳をたてている。「上層部の一人でな。杉原一郎さんや。」

「え!…じゃああの人が、『理事長の懐刀』と呼ばれてる、あの…」

 雪乃も、名前は知っていたらしい。

(あの人が…)

 恵は、その初老の男の後ろ頭を見やった。御茶ノ水駅からの蛍光灯の光で一瞬見えたが、見事な白髪だった。



 船は、いくつもの橋をくぐり抜けて行く。

 みるみる内に、潮の臭いが混じってきた。そして、行きかう船。係留けいりゅうされた船。どれも、提灯が灯っている…屋形船だ。

 そして、あっという間に神田川を抜けて、広い川へ出た。

「隅田川や」

「うわ…綺麗…!」

 雪乃と恵は目を奪われていた。

 200m近い川幅に並び建つ高層ビル。すぐそばには両国橋。正面に見えるのは、高速道路のナトリウムイエローの光。それらが全て、ライトアップされたように闇に瞬き、川面に映って二重の美しさだ。

 船はゆっくりと右へカーブした。川を下るのだ。




「そう…あそこが築地市場だ。あの向かいの水門を入って…」

 杉原の低い声が伊藤をナビゲートしている。

 潮の臭いはいよいよきつくなってきた。しかしその水門の向こうは物凄い狭い、まるで水路のような小川だった。

「突き当たったら右、その小さいほうの橋に船着場がある。そこからは歩きだ」

 その水路のような小川を突き当たると、また右も水門があった。が、勿論開いている。それを抜けると確かにもう一本橋があった。

「右にめよう。あそこだ」「はい」

 そこも、簡易の船着場だった。おそらく防災用だろう。しかし先ほどとは違って柵などは無く、階段を登るとすぐに歩道が現れた。

「この橋を渡ってすぐだ…行こう」

 杉原は少々焦ってきていた。




 その頃。

 晴海ふ頭の客船ターミナルでは島崎が、腕時計を見ながらじりじりとしていた。

 とそこへ、バタバタと走る数人の音。

 島崎がぱっ、と顔を上げ、みるみる安堵の表情が広がった。

「すまん、遅くなった…!」

 杉原が手を合わせた。

「いえいえそんな…!手をお上げください、僕が佐藤さんに叱られちゃいます!…さ。」

 島崎は改めて、実行犯第二班、4人の顔を見た。

「皆さん、お待ちしてました。これで、神戸に帰りましょう!」

 言うやいなや、島崎はコンコースの窓の外をばっ!と指差した。

「え…!」「何やこれは…」「うそやろ…」

 2班の面々だけでなく、伊藤もこれには絶句していた。

 それは地上6階はある、超が付くような豪華客船だった。




 その後、4人はその豪華客船(あとから聞くと、それは日本丸という船だったそうだ)で夢のようなひとときを過ごした。

(…というか、正確には島崎から部屋へと案内された後、4人共それぞれの一室で泥のように眠りこけた。)

 

 あの後。まず伊藤は一室で島崎に、盗んできたあのアレキサンドライトのネックレスを手渡した。

 この時、その一室には第二班4人と島崎、そして杉原。全員がその場にいた。

「…お疲れ様でした。」

 島崎はそれを手袋につけた手で押しいただいた。言葉には真意がこめられていた。

「一応、扱いには注意しましたが、念の為、傷が無いか見てもらってください。石は、僕の見たところ本物やと思います。」

「…分かりました。」

 島崎は言って、杉原に手渡した。杉原は受け取ると、用意してきたらしい専用のケースへとしまった。そしてゆったりと伊藤に頷いた。あとは任せておきなさい、という顔だった。

「よし。では、皆さんの部屋にご案内します。全員別々の部屋になってますので…」




 そこからの記憶が途切れ途切れだった。

 がばっ!と恵ははね起きた。表示されたデジタル時計を見る。もうお昼はとうに過ぎていた。

 格好をみると、見事に昨日ベッドにぶっ倒れたままだ。Gパンにタートルネックのセーター、紺色のコートまで着っぱなし。恵は呆れて頭を抱えた。

 そこへテーブルに置かれた電話が鳴る。取ると、雪乃の声がした。

"お。出た!おはよ。大丈夫?"

「ごめん、寝とった…」

"ええよ。ご飯食べに行かへん?"

「うん。腹減った」

"じゃあ30分くらい後な。"

 電話は切れた。

 何とか起き出し、シャワーを浴びた。寝ている間に入り込んだのか、いつの間にか着替えが用意されていて気味が悪かったが、そこに調査班Z班の御笠文子の手紙が添えられていて、一気に安心してしまった。




 3階のビュッフェ(レストラン?)に着くと、すでに恵を除く3人が来ていた。

「おはよう。寝れた?」「俺もあの後爆睡やったわ、あっははは」「何か食べるか?何でも頼めるで。」

 かわるがわる話しかけられ、恵は大混乱だった。

 ほどなくして、島崎と杉原もやってきた。二人とも昨日とは違い、ほぼほぼ普段着になっている。

 恵の食事やらなんやらでおちついた後、杉原がおもむろに口を開いた。

「まずは、実行お疲れ様でした。佐藤君からも『おめでとう』と言付ことづかっています。」

「ありがとうございます。まさかこんな船まで…」

 伊藤はあたりを見回した。お昼時を過ぎていることもあり、あたりは人も少なかった。

「これは上層部からみんなへ、せめてものねぎらいの気持ちを伝えたかったので…。あと、たまたま時間がぴったりでね。丁度良かった。」

 杉原は言った。

「実行直後、特に東京はカメラが怖かったんです。列車、車はもってのほか。空も厳しい。となると残るは海しか…。」

「でもまさか、東京まで迎えが来るとは思ってなかったわ。」

 畑野は言った。

 一般に通常の実行とは、ターゲットをった後、その後はそのターゲットを売却班メンバーに渡すまでが『実行』である。そのやり方は様々だが、大抵の場合、実行犯は、った後は神戸か淡路島(調査班本部)、いづれかまで逃げ帰ってきて初めて終了となる。

 売却班がわざわざ実行場所までやってきて受け渡しをするなど、少なくとも雪乃は聞いたことが無かった。

「んー。そうですか?」

 島崎は首をかしげた。

「前に一度、売却班の面々と話をしていたんだけどもね。

 今後は実行犯の負担を減らすため、なるべくターゲットの受け渡しは現場、またはせめて実行犯の逃走経路のどこかでやることにして、皆には手ぶらで帰ってきてもらおうと。こういう事になった。で、できればその逃走のフォローだね。そこも、手を貸してやると。

 その点、島崎君はそういう風にする方だね。昔から。」

「実は、島崎さんは今回初めてでした。たまたま割り当てられて…」

 伊藤が言った。

「そうですね。」

「使えたろう?」

「ええ。」

 伊藤は即答だった。本当にそうだったらしい。

「彼は私の教え子なんだよ」

 杉原さんは少々、自慢げに言った。



「若いお二人。今回はどうだったかね?」

 杉原は雪乃と恵に言った。

「うーん。」

 雪乃は首を上げつつ、「正直言うと、少し肩透かしやったかな。今回は初めて東京、警視庁の人達とやり合ったけど、『あれ、こんなもんか』と思いました。手ごたえはなかったです。大阪府警の刑事さんの方が数倍は怖い。」

 伊藤と畑野が爆笑している。でも雪乃は真顔のままだった。本当にそうだったらしい。

「…うん。実はその理由、今御笠君が調べてくれている。

 今回予告状を送りつけたのは当日。で、マスコミが騒ぎ出したのが実行のわずか4時間前。初動捜査が遅れたのも一因とは思うね」

「僕も流石に今回は怖かったので、ギリギリに送りつけたんです。アレがもっと早かったら、あのようには行かなかったでしょう。誰か、捕まっていたと思います。」

 伊藤の断言に、恵はぞっとした。

「俺は上から見てただけやから何とも…やけど、奴らの動きは良かったと思うで?

 まぁ…こういう手の犯罪に慣れてないんとちゃうか?

 無いよ。東京で、劇場型犯罪なんて。俺は少なくとも、聞いたことない。」

 畑野は言った。

「でも、ということは…『次は通用しません』よね?」

 恵が言った。

「…そうやね。」

 畑野は恵を見た。



「塚本君はどうでしたか?」

 杉原は優しい目をして、恵を見た。

「…今回初めて、『ターゲットをる』という任務にきました。プレッシャーはありまして…。

 あの時、一旦神戸に帰って練習したのは正解やったと、今改めて思ってます。

 実行犯一班のメンバー、贋作を作ってくださった零班の皆さんに、ほんまありがとうと伝えたい。」

 不意に涙がこぼれた。雪乃は思わず、その手を握ってやっている。

 畑野は思わず、伊藤と顔を見合わせた。恵がそこまで精神的に自身を追い込んでいたとは、思わなかったのである。

「…必ず。伝えます。」

 杉原の老いた目は、優しいままだった。

「一つだけ残念やったのは、」

 恵の言葉は続いた。「あたしたちの立ち回り、実行のさまを、モレロ・パシフィック社の方々は誰一人として現場にも来てもらえず、その目で見てもらえなかったことです。社長のラバーバラも、会長のマーク・ポズナーも、居らっしゃらんかった。無理なことやとは思ってましたが…」

「ああ、それは無理だったろうね。」

 杉原はにべにもなく言った。「だって、あの実行とほぼ同時刻、あの会社の社長と会長は二人とも逮捕されてるんだから。」

「!!」「何やって…」

 どうも、伊藤も畑野も知らなかったらしい。

「マーク・ポズナーは脱税。あと別の何かで談合もしていたらしい。

 アルフォンス・ラバーバラ…本名、レオン=ウラジーミロヴィチ=ズミエフスカヤ。彼は殺人幇助さつじんほうじょの疑いで国際手配をされていたらしい。フランス警察が10何年間も探し回っていたそうだ…モレロ・パシフィック社が、彼の顔をなるべく出さないようにしていたのは、そういうことだったんだよ…とはいえ、社員は知らなかったと思うがね。

 あとでテレビでも見てみるがいい。君達のことと、モレロ・パシフィックの件でワイドショーもニュースも持ちきりになっているよ。」

「あのマリア像、せめてテレビで見てもらえたらな…」

 伊藤が言った。

「…うん。」

 恵は頷いた後、「…そうや。あとはなんと言ってもあのマリア像ですよ!びっくりした。」

「うん。そうだろう。佐藤君も驚いていた。君にケガが無かったか、とても心配していましたよ。

 あれを仕込んだのは、オーテュイユ派の人間でもうほぼ間違いないだろうと思う。追って、ここも調べさせる予定だ。」

 杉原は言った。

「こんな追跡調査みたいなことも、売却班でやるんですね。知らんかった…」

 雪乃はびっくりしていた。




 その後。

 伊藤達が盗んだアレキサンドライトは本物であったことが、売却班に所属する鑑定士によって、改めて証明された。

 石はその後の足が付かぬよう(というか、このような大きさでは値段が付かないので)20数個にカットされ、全く別のアクセサリーに生まれ変わって、転売され、そのうちのいくつかが入札にかけられた。


 その額、総額は、3億円にのぼったという。

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