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黒ウサギ  作者: 田中利佳
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第十章 二つの鍵(下)

『計画は、常時四つくらいまで考えておく』。

 実行犯第二班班長、伊藤貴志の信条である。

 というより、実行犯全班においてもこれはあてはまるかもしれない。

 今回だってそうだ。

 状況は秒単位で変化する。それも、思ってもみない方向に、ということもめずらしくない。

 班長は、その計画にこだわり過ぎない柔軟さ、洞察力。そして班員を迷わせない的確な指示力が求められる。

 班員もまたしかりで、まず練りに練ったその計画を複数個分、全部頭に叩き込みシミュレーションを繰り返しておくこと、当日どのような事態になってもあわてない冷静な頭脳。これが求められる。




 そのカフェは、恵比寿駅東口の坂を下った先にあった。

 23時37分。

 その日も細身の男…若月裕平が青白い顔で姿を見せた。

 ガラス張りの店内から、都道305号線がよく見える。

 若月は入ってすぐのところ、窓際から2番目の席に座った。

 水色の壁と総板張りの床、そしてその床とそっくりな色と風合いの机。椅子も同じく木製で、片側が壁際に取り付けられた一面のベンチシートになっている。彼の靴の音はコツリコツリとよく響いた。

 その日はめずらしく先客が居て、その内の一組は店の主人と知り合いのようだった。カウンターでコーヒーを淹れる主人とずっと談笑している。もう一組は観光客だろうか。小さなピンク色のキャリーケースを隣に置いて、雑誌を机に広げ何やら話し込んでいた。

 若月が席に座ると、女性の店員がすぐにやってきて、一言二言言葉を交わした。どうやらこれも顔見知りらしい。女性はにこりと頷くと、すらすらと伝票に書きつけてカウンターの中へと戻っていった。




 すぐ目の前の道には、街路樹に隠れるようにして警備の車が停まっている。

 若月はその車が目に入るなり、ため息をついた。

 大きな黒い双眸が伏せられ下を向き、その視線はハートマークのラテアートが美しいマグカップへと注がれている。そのまつ毛は女のように長かった。なのにひげの剃り跡が青々しくその顔はいわゆる馬面で、まゆ毛も濃く、やや高めの鼻筋の下で口はうすく引き結ばれている。なかなか忘れない顔だった。

(こんなはずでは…)

 なかった。そう。こんなはずではなかったのだ。

 全てはあの人事異動からおかしくなったのだ。


 それまでの若月は、順風満帆だった。

 誰もやりたがらない飛び込み営業を率先してやった。これまでの取引先への挨拶も、もちろん欠かさない。時に綱渡りのような取引を結んだこともあり、胃がキリキリしたこともあったが、元来人が好きで好奇心が強く、時に女性のようとも評される気配りの細やかさを持つ彼の性格は、営業にはうってつけだったと言えた。

 そしてその足が5年目にして、実を結び始めることとなる。

 数々の有名、著名人、政財界にコネクションを持っていた若月だったが、その彼が提案した企画が次々と成功を収めはじめたのである。

 今回のモレロエターナルライツだってそうだ。あの専用ケースを製造したS社。あれはたまたま取引先の紹介で知り合った会社で、ひょんなことから同僚の三浦一郎に進言してみたらあれよあれよと話が進み、おかげで自社で製造する予定だったケースが外注によって半額以下にまで抑えられたのである。

 しかし、それは突然やってきた。

 ある日、若月は呼び出された。相手は会った事もない、取締役付の人間だった。



 その後のことは、もう思い出すのもおぞましかった。

 あれから、プロジェクトを外れ営業担当も外れ、形ばかりの"秘書3課"という部署へ(まるで飼われた小鳥のように)入れられ。

「イヤだったら、断って良いのだよ。私は無理強いは好まない」

 マーク・ポズナーの低い声がかすれれるようにして言った。その眼はギラギラとして、唇がぬれぬれと赤く光っている。

 若月は戦慄した。

 自分が誠心誠意をもってしてきた会社に、その部下に、このようなはしたない私情を持ち込むのか。そんな人間がこの会社の会長を務めていたのか。若月はショックをおぼえた。

 また若月は男色ではない。幾人かの女性とはあっても、男性とそのようなことになった経験は一度も無い。この点が彼のショックに、さらに追い討ちをかけた。

 その日。若月は断固拒否するつもりでその車に乗り込んだ。

 ところが返事を促された瞬間突然記憶が飛び…、気が付いた時にはもう手遅れだった。

 今となっては断言できる。

 直前に飲んだシャンパンの中に、"何か"入っていたのだ。




 "はじめてのあの朝"の光景が突如フラッシュバックして、若月はがっ!と目をあけた。

 あれから今日までの日々。

 彼にとっては地獄だった。

 精神は断固として拒否しているのだ。

 それなのに、マークの愛撫はそれは凄まじいばかりで、あの指使いとねっとりとした舌使いが、彼の身体を女のそれのように狂喜せしめる。そうなってしまうともう何が何だか分からなくなるのだ。

 結局、逃げられずにいる。

(まるで蟻地獄だ…)

 若月はうつろな目になり、半分まで飲んで、まだ崩れていないハートマークのラテの上に、用意のシナモンシュガーを振った。

 ハートがシナモンの茶色でどんどんかくれていく。

 最後に若月は容赦なくスプーンでかきまぜ…全部飲んだ。




 警護の車のテールライトがチカチカと明滅した。

 出発だ。

 若月はポケットにその鍵があるのをたしかめると、すっと立ち上がった。

 と、その時だった。



 ドタンッ!!!チャリン!



「きゃあ?!」

 隣にいた観光客の女が思わず立ち上がり悲鳴を上げた。男も血相を変えて駆け寄る。

「大丈夫か!!」

 男の方が横ざまに倒れた若月を揺り動かす。

 ここでようやく、奥に居た店主と店員が気が付き、やってきた。

 男は若月の口元に耳を寄せた。何か言っているのだ。しかし口元が動くだけで何を言っているのかなかなか聴き取れない。

「め…めまいか!寒い、寒いんだな?!呼吸…ダメだ息が浅い、脈拍おかしい…ダメだ、誰か救急車!!!」

 男がそれでも何とか聴き取ったらしく、後ろで呆然と立ちつくす男女5人に怒鳴った。

 さっき若月と言葉を交わしていた女性店員がようやく、はっと気が付き、電話の子機を持ってきて迷わず119番を押した。

「救急です!男性です、意識はあるようなんですが倒れて動けません!場所は渋谷区恵比寿…」


 車から護衛の男二人が飛び出してきた。

 わづか10席しかない狭い店内は瞬く間に大混乱に陥った。




 これこそが、雪乃と畑野の作戦だった。

 観光客を装った雪乃は悲鳴を上げながら、実は若月の手から鍵が落ちてレジの手前まで転がっていくのを見ていた。そして直後店の人を呼びに行ったのだが、その際腰を抜かして転んだように見せかけ、実は例の鍵を回収していたのだ。その頃には流石に常連客二人組も何が起きたか分かってくれ、雪乃を心配して、「ネエちゃん大丈夫か!俺、呼んでくるから」と行ってくれ、代わりに呼びに行ってくれた。本当は若月が倒れた際畑野がり取る予定だったのだが、ここは臨機応変に二人が対応したということになる。

 そしてその後の混乱に乗じてシナモンシュガーの入った小瓶こびんを回収したのは畑野だ。

 これは若月の私物で、カフェに置かれている物ではない。

 ここ数日の張り付きで、二班のメンバーは若月がいつもこの小瓶を持ち歩いていること、中にはシナモンシュガーが入っていてカフェで半分飲み終わったコーヒーにそれを振り入れる習慣があること、さらにはその小瓶が恵比寿駅のアトレ(駅ビル)の3階にある雑貨屋で売られていることまでつきとめていた。

 ここまで分かればあとは楽なもんである。




 今日の昼過ぎ、ようやく起き出した若月は、スーパーまで買い物に出かけていた。

 その直後、畑野と雪乃は彼の部屋へ入った。

 ここは雪乃のピッキング術が威力を発揮したことは言うまでもない。

 白手袋をはめ、地下足袋を履いた二人はほどなくして、スーツのジャケットのうちポケットに入りっぱなしになっていたその小瓶を発見した。

 畑野の手が目に停まらぬ早業で、その小瓶のふたを開け、白い粉を入れる。

 その傍らでは雪乃が、今朝買ってきたからの小瓶にシナモンシュガーを詰めていた。

 そのシナモンシュガーは台所の調味料入れの中…砂糖の隣にあった物を拝借した。どうも若月本人が作り置いているもので、シナモンと砂糖のほかにも何か混ぜているらしい。

 畑野が薬入りの小瓶を置く。

 雪乃が今入れた小瓶を置く。

 二つの小瓶に入った中身の量は全く、同じだった。色味もほぼ、変わらない。

「よし」

 畑野は短く言って持っていた小瓶を、もとあったジャケットの内ポケットへ。

 雪乃の小瓶は、自分のGパンの後ろポケットへ。

 作業は終了した。その分数、わずか3分。

 玄関は閉まっている。

 二人は窓へと向かった。

 そこはベランダの無い窓で、部屋は2階だった。

「先行け。」「了解」

 雪乃は迷わず、窓の桟を足がかりにまたもや横っ飛びで雨どいへ。

 畑野も外へ。

 そして両手両指、そして左足で窓の枠のわずかなスペースで自分の体重を支えたまま、右足で器用に窓を閉めた。

 よく見ると、窓の上部分から細い糸のような物が、上から出ている。

 畑野は両足で体を支えつつ、今度は右手でその糸をぐぐぐと引っ張った。

 するとどうだ。

 窓の鍵が、閉まったではないか。

 畑野はなおも糸を引き続けた。




 ここまで来れば、もうお分かりだろう。

 薬入りのシナモンシュガーを回収した畑野は、その後ズボンのポケットに入れていたあの、"そっくりの小瓶"とすり替えたのである。




 若月の痩せた身体がストレッチャーで救急車へと運ばれていった。

 護衛の男二人がどこかに電話をかけるが、つながらないらしくじりじりしている。きっと、マーク・ポズナー本人にかけているのだろう。

「あの…」

 そこへ店の主人へおずおずと声をかけたのは、観光客の女だった。その片手にはピンクのキャリーケースが握られている。

「あっ!どうも。ありがとうございました」

 実直そうな主人は頭を下げた。

「い、いえ…。大変でしたね。」

「いえいえ、もう僕呆然としてしまって、こんな事はじめてで…」

「ですよね。実は、あの、これ。」

 女は主人に鍵を渡して、「レジの前に落ちてたんです。ひょっとしたらあの人のかも…」

 と若月を指差した。

「分かりました。後であの警護の方に聞いてみましょう。」

 主人は言った。

「あの人たち、何なんですかね…?」

 女…雪乃は興味本位な顔になって聞いていた。




 こうして、例の鍵の写真は無事、撮影に成功した。




 一週間後。

 再び顔を合わせた、恵を除くメンバー三人の前には、二つの鍵があった。

 一つは雪乃と畑野の例の作戦によって複製された鍵。

 そしてもう一つは。

「S社製のケースの鍵や」

「…!これが…」

「見た目、ほとんど変わらんな。気を付けとかんと…」

 畑野が言った。

「…ですね。ちょっと今は片方テープ貼ってあるだけなんですけど…。当日は黒いウサギのキーホルダーでも付けとこ思てます。最悪、現場に残すかもなんで」

 伊藤はにこりと言った。

「うん。」

 畑野は頷きつつ、「こっちの鍵はどこから?」

「…この鍵は管理が甘くてですね。」

 ややあって伊藤が、「モレロ本社にもありますし、マーク=ポズナーも所持してます。それから実は、恵比寿ガーデンプレイスも所持してるんです。これは、展示中に電球が切れたり、災害が起きるなどのトラブルが発生した際、ガーデンプレイス側でも最低限の対応が取れるように、そうしているようですね。」

「…ほう。で、どこから行った」

「ポズナーの自宅に入りました。」

 伊藤は事もなげに言った。

(あの高層マンションに一人で行ったんか…)

 高層もさることながら、あそこのセキュリティは相当だったはずだ。雪乃は心の中で脱帽していた。

「屋上は、良い眺めでしたよ。盗聴器で男二人のあえぎ声聞きながらっちゅうのは辟易しましたけど」

 伊藤は苦笑いになった。

「ところで…」

 雪乃は屈託のある顔で、「あの薬…大丈夫なん?」

「ん?」

 伊藤はまた事もなげに、「あれは恵が調合した薬でな。無色無臭、服用するとめまいと強い貧血を引き起こす。ちなみに某市販薬にも含まれとってな…。一応、念の為病院のカルテも覗かせてもろたけど、ただの貧血で処理されとったわ…まぁ、バレへんやろ。」

(いつの間に病院入り込んでんやろ…?)

 今更ながら、雪乃はそら怖ろしくなった。

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