卒業放送④
腹いせもあった。憎しみもあった。苛立ちも、恐怖も。
それでも僕はどこか、この拳が金村に当たることはないんじゃないかって思っていた。
おかしなことを当然のように受け入れて、生徒達の悲鳴も怒号も涼しい顔で受け流す化け物だ。最悪、元凶の可能性だってある。
だけど僕の拳はあっさりと金村に当たって、あいつは床に倒れ込んだ。
嫌な、感触だった。
一瞬、僕は何も考えられなくなった。けれどすぐに、仕方ないと自分に言い聞かせる。
だって、そうじゃないか。僕らは一日一日を怯えながら過ごすのに、こいつは何食わぬ顔で授業を始める。自分のクラスの生徒が訳の分からない黒く醜い何かになるのに、それを祝福している。
殴られて、当然な奴だ。
僕はうつ伏せになった金村に馬乗りになった。シャツの乾いた触り心地も、人の体温も、全部無視した。
「……言えよ。全部知っていることを吐けよ!いや、あの放送を止めろよ!!」
「うっ……」
頭を腕で守って呻く金村に向かって僕はそう叫んだ。何度か、頭を殴りつけた。
拳が痛くて熱い。破れた皮膚から、裂けるような痛みがする。
でも、当然だ。
「元に戻せよ!翔太や、皆を元に戻せよクソ野郎!!……それでも先生かよ?大人かよ!?」
その当然さえ、もう感じられないんだ皆は。
僕は更に、怒りのままに金村に拳を振り下ろす。思い知らせるように。胸の中の感情をそのまま吐き出すように。
かつ、かつ、かつ。
不意に、理科準備室の扉の外から規則正しい足音がたくさん聞こえて来た。
いや、殴ることに夢中になっていて、近くで聞こえるまで気が付かなかったんだ。
扉は静かに開けられた。その先には、幾人もの先生たちが立って並んでいた。
整ったスーツやネクタイも、慌てる様子もない無表情も、全てが鬱陶しい。
「大丈夫ですか、金村先生?」
室内に入ってきた先生の一人が、平坦にそう聞いた。
「っ……ええ。問題ありませんよ。殴り方を知らない子供が相手ですから、受け止めてあげないと」
「この……っ!」
再び振り上げた拳は、幾つもの先生たちの手によって止められてしまった。
そのまま、ゆっくりと金村の上から引きはがされる。僕を掴む腕の数々もやっぱり金村と変わらない。
最悪だ。こいつらは人間だ。人間、なのに――
それに、ここまでこいつらがやって来た早さにも、これだけ集まっている事実にも怖気がする。
まるで僕が四六時中監視されているみたいな、手際の良さだ。
でも、本当に心底から体の力が抜けたのは、そんなことじゃない。
放送室の時もそうだ。先生や学校は僕自身を、僕の抵抗そのものを、どうにかしようとはしない。
そもそも相手に、していない。
よろよろと立ち上がった金村は、腕を擦りながらゆっくりと言った。
「やっぱり、ちょっと痛いなぁ……でも、俺が我慢しなきゃな。いつかお前が分かってくれると、納得してくれると、先生は信じているからな」
本当に偽りなく、そう考えているようだった。
……僕の暴力行為は、誰からも、何からも非難されることもなければ、問題になることもなかった。
職員室に呼び出されることもなければ、停学や退学になることもない。保護者すら、呼び出されない。
翌朝、金村は普通に教室に入って来た。
その腕に残った小さな腫れだけが、僕が成せたことの全てだった。
僕が話し終えると、屋上に居るクラスメートたちはざわめき出した。
「お前、マジかよ……それが本当なら、意外とやるなぁ!」
田中君がばんばんと僕の背中を叩いてくる。彼以外にも僅かなクラスメートは好意的に受け止めているようだったけど、多くのクラスメートは僕を嫌な目で見て来た。
こいつら、こんな状況になってもまだ、仕方のない暴力が悪いことだって考えているんだ。
羨ましい……なんて思えないな。
香田さんですら、眉を顰めていた。だけど彼女は気を取り直すように、ぱんっと手を鳴らした。
「話の通りなら、力尽くで情報を引き出すことは難しそうだね。私たち全員で金村先生を……タイミング良く襲っても、多分すぐに他の先生たちが駆けつけて来る」
「そうかぁ?もっと手ひどくやればいいんじゃねーか?ただびびってるだけならお前ら、こいつ以下だぞ」
田中君に指をさされた僕は、何とも言えない気持ちになった。
僕は……必要だと思ってそうした。でも、それだけだったんだろうか。
多分、義憤だけだとは言えない。
「次、同じようなことをやるつもりなら、俺を呼べよな。先公三人くらいなら、俺が何とかしてやっから」
やたらフレンドリーに親指を立ててきた田中君は、何だか僕を同類だと思っているみたいだ。
平時だったら、あはは……と笑ってやり過ごしていただろうな。
田中君の言葉に少し頭を抱えていた香田さんは、一つ息を吐き出して続けた。
「そう、田中君でも三人が限界なんだよ?私たちはもう十六人しかいないの。屋上に集まってくれている皆に限れば、十三人だよ?この学校に先生や用務員さんが何人いると思う?」
「知らねぇ。武器を用意すりゃいけんだろ。全員倒す必要もねぇしな。金村しめて放送を止めさせるか、クソッタレの呪いをどうにかする方法を吐かせりゃいいんだよ」
「それは……本当にそんな方法があったらの話でしょう……!」
田中君と香田さんが同時に押し黙った。それまで口を挟んでこなかった一人のクラスメートが我慢できないといったように、声を大きく上げた。
「そうだよ!それに、さっきまで皆で学校から出ようって話で纏っていたじゃん!今さら暴力をふるうなんて……私は出来ない!」
「田中の方法は放送がない日でも出来る。今日は木曜日で、今週放送はまだないんだ。今日明日のどちらかに必ず放送は起こる。だからまず、香田さんの方法を試すことに集中するべきだ」
「で、でも田中君の方法が上手くいったら、一気に全部解決するかもしれないよ……?もし香田さんの作戦が失敗したら、誰かがまたあれになるんだよ……っ!?」
「だったら香田さんの作戦だって、成功するかもしれないぞ。先生たちは俺たちを泳がしている感じなんだろ?少なくとも皆で学校から出ること自体は、邪魔されない可能性が高いじゃん」
一人が意見をいうと、また一人が口を開く。終わりのない予想や希望が話を膨らませて、際限なく議論が広がっていく。
むしろ、これまで良く黙っていた方だろう。この集まりのリーダーは香田さんなんだろうけど、彼女にしたって自分の作戦に絶対の確信は無いと言っていた。
それでもバラバラにならないように、クラスメートたちをギリギリのところで纏めているんだ。
ヒートアップするクラスメートの雑言の中、ぽつり、と香田さんが呟いた。
「体育祭のダンス、楽しかったよね。みんなで最優秀賞を取ろうって、放課後まで残って振り付けを確認したり、演出を話し合ったり」
眼鏡を取って軽く目元を拭う。言葉よりも、その仕草が加熱する応酬を落ち着けていった。
「受験勉強は頭が痛くなるし、部活が終わった後はへとへとだし……。三年生になってからほんと、凄く大変だった。だけど、でも、私は学校が楽しかった。それはみんなが居たから、このクラスだったから」
ふぅ、と息を吐いて香田さんはクラスメートたちを見回した。
「私は、田中君の方法もやってみるべきだと思う。みんなで助かる方法が少しでもあるなら、全部やるべきだって。私、弱いけど、シャーペン捌きなら得意だから!」
「はぁ?」
田中君は間の抜けた表情で疑問符を放った。
「だから、並行してやろう。学校から武器になりそうなものを集めて、隠しておく。そしてホームルームになったら正門の前にみんなで集まる。私の作戦が駄目だったら、その時は武器を持って金村先生を尋問しよう。これで、どう?」
「なんか感動的なことを言う流れだったじゃねーか。お前が俺の案にOKだすの、珍しいな」
「過激にさせているのは、この学校だよ。私たちは普通の学生で、普通に毎日を過ごしたかった。田中君は確かにあんまり生活態度が良くないし、成績も下から数えた方が早いし、言葉遣いも失礼だけど」
「おい」
「……でも体育祭ではノリノリだったし、先生に暴力を振るおうって当たり前のように言うような人じゃなかった。みんなだって、そうでしょう?考えたくない事、言いたくない事、この状況でそんなことばっかりさせられて来た」
その言葉に、何人かが俯いた。誰にだって少しは思い当たる節のある言葉だ。
僕たち3-Bの生徒は、普通の高校生活を過ごしているとはとても言えないんだから。
「だから絶対に……こんな考えが当たり前になる前にみんなで絶対に、この呪いから逃れよう!」
香田さんがそう言うと、クラスメートの一人が頷いた。促されるように、一人一人と続く。顔を押さえながら頭を縦にする人、渋々首肯する人、冷静に静かに深く頷く人。それぞれに思うことはあったんだろうけど、この場に居るクラスメート全員が確かに頷いた。
……少しだけ、疎外感があった。
僕はとっくの前に、仕方のない暴力をよしとした。
そしてそれを、悪いことだとは思わない。
だからちょっとだけ、退屈だった。
屋上での話し合いは、昼休みが終わる少し前に終わった。
真っ先に鍵を回して扉を開いた僕は同時に、たっ、たっ、と駆け足で何者かが階段を降りていく音を聞いた。
「……あのさ、誰かが階段を降りていくような音が聞こえた気がしたんだけど」
僕がそう言うと、後ろにいた男子生徒が首を捻った。
「本当か?俺は聞こえなかったけど……それが本当なら、まずいぞ。金村とか、他の先生に聞かれていたら全部おじゃんだ」
例え金村や他の先生が聞いていたとしても多分、僕たちを妨害することはない。
と、言っても信じられないだろうな。理科準備室で触れた先生たちの異様な雰囲気を、みんなは知らないだろうから。
早く進めよ、と少し後ろで待っているクラスメートが呟いた。そうだ、僕は出入り口を塞いでしまっているんだった。
皆に先を譲って、最後尾にいた香田さんにそのことを知らせると、彼女は腕を組んで顎に手を当てた。
「それが本当なら、用心する……しかないよね。金村先生や他の先生の様子を窺って、私たちを妨害しようとしているか分かればいいんだけど……」
「なら、僕がやるよ」
そう言うと何が引っ掛かったのか、香田さんは困ったように唇を小さく曲げた。
「もう、授業に出る意味が僕には分からないんだ。授業中に職員室や正門を見て回って、気付かれた様子があるかどうか、確かめて来る。ついでに、武器になりそうな物にも目星を付けてくるよ」
「……どうしてそんなに、授業に投げやりなの?」
はぁ?
何を、暢気に言っているんだ?
「どうしてって……今さらあいつらの授業を受けて何になるの?この学校から逃れられたら、その時は真面目に受けるよ。でも、今はそんな場合じゃない」
「それは、分かるけど……でも」
「ああいいよ。僕がやりたくてやるだけだから。あんまり、教室にいたくないんだ」
香田さんはまだ何かを言おうとしていたが、僕は会話を打ち切るように階段を駆け下りていく。
彼女がおかしいのか、僕がおかしいのか。そんなのどうでもいい。だいたいそれを誰が判断するんだ?そいつが、僕たちを助けてくれるのか?
ただ僕にあるのは、あの放送やこの学校がこのまま勝つなんて許せないって気持ちだけだ。奴らの思惑通りになるなんて、我慢ならないって感情だけだ。
授業の開始を告げるチャイムが鳴り響く中、僕は職員室へと向かって誰もいない階段を降りていく。
その足を、止める。踊り場に誰かが蹲っていた。顔は見えないけど、髪型や体格に何となく心当たりがあった。
「ふふっ。どうせ無駄なのに、い、意味が無いのに、ご苦労なことだね」
「……樫木?」
聞き覚えのある声が静かな踊り場に広がっていく。
僕は、そいつの名前を呼んだ。クラスメートの樫木は顔を上げる。血色の悪い頬と目の下にある隈は、彼を包む影よりも深かった。
そう言えばこいつ、屋上には居なかったな。もう、言葉もまともに通じないほど錯乱しているクラスメートは数人いて、こいつもそのうちの一人だと思っていたが……喋れはするようだ。
「お前、大丈夫か……?」
「大丈夫?はは、へ、変なことを言うね。大丈夫って、普通の状態の相手を想定しての言葉でしょ?この状況で、普通というのは僕たち人間のことなのかな?それとも、あの黒い影のことかな?あいつらが半分を超えたら、あ、あいつらが普通になるんだけど」
「いや……意味が分からないけど。僕は樫木の体調を心配しただ」
「う、うるさいよ!邪魔しないで!大丈夫なわけ、ないでしょ!!」
両耳を塞ぎながら、樫木はそう叫んだ。それから小刻みに何度もつま先を床に打ち付け、ギリッと歯を鳴らす。
喋れるだけで、まともに会話は出来ないかもしれないな。
「そうか。邪魔してごめんな」
そう言って立ち去ろうとすると、僕の背中に向かって樫木が言った。
「お、お前。お前、俺が臆病者だって思ってるだろ?自分は違うって思ってるだろ?幸せな奴だな」
「……はぁ?」
……ちょっと、面倒くさくなってきたな。
渋々振り返ると、樫木は真っすぐに僕を見ていた。その瞳の自信満々気な様子は、どこか気に食わない。
「はっきり言えよ。何がだ?何が違うって?何が幸せだって?」
抗おうともせず、こうやって意味の分からないことを言っているだけの奴に幸せなんて言われたくない。
だけど僕の疑問に答えようとはせず、樫木はぶつぶつと呟いた。
「0と1の間に数字を加えれば、その日は遠くなるんだ。だから数えるんだ。0.5。0.05。大丈夫。大丈夫。明日はきっと、来ない」
「……」
声を掛けなきゃよかったな。こんなことが起こる前は、ちょっと鼻につくけど意外と話の分かる物知りな奴だったのに。
何とも言えない気持ちで再び階段を降り始めると、後ろからまた小さな声が聞こえて来た。
「大丈夫。来週は来ない。来週さえ来なければ放送で呼ばれない。呼ばれない……」
僕はもう、振り返らなかった。
当初の予定より、少しだけ長くなりそうです。




