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3-6 牝狼の夢【 ザラメ砂糖三代記】  作者: maki_senokouji


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第2話 ぬるいお味噌汁の覚悟

 ガラス張りのファミリーレストランの窓際に、夕方の斜光が差し込んでいた。ドリンクバーのプラスチックのコップに溜まった氷が、触れ合ってシャリシャリと涼しげな音を立てる。

 その向かい側で、まさ子は、のほほんとイチゴパフェのクリームをスプーンですくい上げたまま口に運ぶ手を止めて、まるで自分のことのようにその柔らかな頬を紅潮させていた。

 「それはとっても、とびきり素敵なお話じゃないですか、しいちゃん! おデートですね!」

 まさ子の声は、いつものようにぽやぽやとした温かさに満ちていた。

 中二の春にあの衝撃の「お花畑の告白」を敢行した後、じわじわと時間を掛けて、「通い妻」の地位を、当の邦明すらじゅうぶん意識できないまま確立させつつある、この頃のまさ子である。

 この世で最も大切な親友に訪れた春の兆しは、無条件で祝福すべき慶事。これまでに詩織の口から断片的に聞いていた「戸崎さん」という男性の実直な仕事ぶりや誠実な人柄を思えば、これ以上の適任など、世界のどこを探してもいるはずがなかった。


 しかし、肝心の詩織の表情は、どこか冷めた灰色の影を宿していた。ストローの先でメロンソーダの氷をシャリシャリと執拗につつきながら、彼女は小さくため息をつき、いつものちゃきちゃきとした調子を抑えて呟いた。

 「まあちゃんは何一つ疑わずに、小さい頃からずっと叔父さま一筋で突っ走ってきたから、私のことをもどかしく思うだろうけれど。でもね、川野の家の一人娘にはそう簡単にはいかないのよ。手放しで喜べるような、単純な話じゃないの」

 詩織は、自分が江戸時代から続く老舗「川野製菓」の社長の一人娘であるという現実を、片時も忘れたことはなかった。そして、戸崎さんが本社で将来を嘱望されている若手幹部候補の筆頭であるということも。二人が個人的に接触し、ましてや二人きりで食事の席に着くということが、会社という組織の中でどれほど重い意味を持ち、どのような歪んだ噂を生み出すか。普段から同級生たちの深刻な相談を受け止め、大人の世界の裏表を早くから見てきた詩織の知性と観察眼は、戸崎さんからの誘いの背景にあるかもしれない「大人の事情」の可能性を、瞬時にいくつも弾き出してしまっていたのだ。

「戸崎さんは今、本社の経営陣のすぐ近くにいるわ。社長の娘である私に近づくことが、社内でどういう色のついた目で見られるか、あれだけの能力がある人が分からないはずがないのよ。今回の誘いがね、もし……ほんの少しでも、出世のための計算や、私という立場を利用して上に這い上がろうとする下心からきているものだとしたらって、どうしても考えちゃうの。そういう嫌な社内政治みたいな邪推が頭にこびりついて、素直に喜べない自分が本当に嫌になるわ」

 それは、甘やかされずに「実質本意」で育てられた社長令嬢としての、真っ当な防衛本能だった。甘いお菓子を売る家の娘でありながら、彼女の現実に向けられた視線は、同級生の誰よりも苦く、そして警戒感に満ちていた。他人のことならサバサバと解決できるのに、いざ自分のこととなると途端に臆病でうぶになる。

 叔父への盲目的な恋という純粋の極みに生きるまさ子には、きっとこの社会的なしがらみや、大人たちのドロドロとした計算の恐ろしさは伝わらないだろう――詩織はそう思い込んでいた。


 しかし、その言葉をすべて聞き終えた瞬間、目の前でパフェを食べていたまさ子の周囲の空気が、劇的に変転した。

 「……しいちゃん」

 まさ子の口から溢れたその声には、いつも周囲をふんわりと包み込んでいた「ふわゆる」な甘さが、一滴も残らず霧散していた。

 ぽやぽやしたマスコットのような少女の着ぐるみを脱ぎ捨て、その中から、神聖な祭壇の前に立つかのような、冷たく、深く、圧倒的な絶対の光を宿した瞳が現れる。それは、めったに表舞台には出てこない、物事の本質を見通す「巫女まさ子」の顕現だった。

 詩織は、初めて間近で触れる親友のその異様な威圧感と、魂の底まで見透かされるような凄絶な迫力に、思わず背筋を凍らせて言葉を失った。

 「それは、戸崎さんに対しても、ご自分の男性を見る目に対しても、とっても失礼な言いがかりです。猛省してください」

 巫女まさ子の言葉は、静かだが、一言一言が詩織の心の防壁を容赦なく叩き割るほどの重みを持っていた。

 「これまでしいちゃんが、嬉しそうに、誇らしそうに私に話してくれた戸崎さんという方は、そんな薄汚い出世欲や下心で社長令嬢に手を出そうとするような、卑しい人ではありません。今まで、彼がしいちゃんに対して、そういう男女の色がつくようなお誘いをいっさいなさらなかったのは、なぜだと思いますか? それは、彼が誰よりも実直で、しいちゃんの立場や川野の暖簾を大切に思い、周囲に誤解されるような行動を、血を吐くような思いで避けてこられたからです。もし、今回の食事が本当に出世のための計算だと分かれば……その時は、しいちゃんのご自分の男を見る目がなかったと諦めて、戸崎さんの顔にぬるくなったお味噌汁でも思いっきりかけて、さっさと席を蹴って帰ってくればいいだけのことです」

「お、お味噌汁って、あんた……」

 詩織はまさ子のあまりにも過激で、しかし一点の曇りもない合理的なアドバイスに、目を丸くすることしかできなかった。


 しかし、まさ子の追撃はそこで終わらなかった。

 「でも、私の想像は違います。戸崎さんは、きっと近いうちに川野製菓を離れるのだと思います」

 「え……? 嘘でしょ、彼は幹部候補で、お父様もあんなに期待して――」

 「嘘ではありません。そうでなければ、生真面目な戸崎さんが、大切に守り続けてきたしぃちゃんとの境界線を、自ら超えて誘ってくるはずがありません」

 巫女まさ子は、冷徹なシステムを起動させるように、二人の関係性と現状のデータを頭脳の中で精緻に分析していた。まさ子の恋は、誰かを蹴落として自分が、といった臭気や生臭い欲が一切ない、百パーセント正真正銘の純粋さで成り立っている。だからこそ、人間の行動の根底にある「純粋な気持ち」の変化や矛盾を、誰よりも正確に見切ることができるのだ。

 「会社を辞めて、もう川野の人間ではなくなるからこそ、最後に一度だけ、一人の男としてしいちゃんの前に立ちたかったのです。それが今までよくしてもらったお礼なのか、それとも、しいちゃんへの本当の想いを告白してくださるのか、そこまでは分かりません。でも……もしかしたらこれが、戸崎さんと会える、本当に最後の機会になるかもしれないのですよ」

 「でも、お家やお父様たちの手前、私からなんて……。それに、もしそんなことになって、私が家を出たあとのことは……」

 思わず弱音を漏らした詩織の目を、まさ子は真っ直ぐに見つめ、静かに、けれど絶対の真理として言い放った。

 「二人の気持ちさえ本当に通じ合えば、あとのことはどうとでもなります」

 年の差も、叔父姪という禁忌も、すべてを邦明への狂おしい献身だけで突破し、自らの領分を勝ち取ってきたまさ子。その実績を元にした言葉は、何よりも重く、詩織の胸に突き刺さった。

 「しいちゃん。下らない邪推で大切な時間を汚すのはおやめなさい。自分の気持ちをきちんと整理して、戸崎さんに伝えるべきです。後悔してからでは、遅いのですから」

 その凄絶な凄みに完全に圧倒された詩織は、しばらく呆然とまさ子の顔を見つめていたが、やがて、ストローを置いて深く息を吐き出した。防壁の奥にあった臆病な霧が、親友の冷徹な一言によって、綺麗に吹き飛ばされていた。

 「……分かったわよ。本当に、あんたには敵わないわね」

 詩織は「ありがとう」とだけ、いつになく言葉少なに、けれど確かな決意を宿した声で告げると、夕暮れの街へと帰っていった。

 その背中を見送りながら、まさ子は再びぽやぽやとした元の「ふわゆる」な少女に戻り、残ったイチゴパフェをのほほんと口に運ぶのだった。


(了)

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