第1話 白いワイシャツの記憶
川野製菓の社長令嬢である川野詩織は、女子校という狭いモザイク壁画の中で、常に単独で行動する「一匹雌オオカミ」の佇まいを保っていた。
同級生の茜がギャルとしてその天性のアイドル気質を発揮し、中学生になってスクールカーストの最上位へ一気に駆け上がっていくのを、詩織は頼もしそうな目で見守っていた。また、やはり付属幼稚園からの幼馴染であるまさ子がクラスのマスコットとして、誰からも「ぽやぽやした可愛いお人形」のように愛されているのを、いつも一歩引いた場所から見守っていた。
一匹狼とは言いつつ、面倒見がよく、ちゃきちゃきと立ち回る詩織は、女の花園で周囲の女子たちからは深く頼りにされていた。しかし、それは校外の男子から見れば「隙がなさすぎて、冗談半分でも口説いてはいけない子」という不可侵の裏返しでもあった。
バイト先などでの出会いがないわけではない。ただ、同年輩の彼らは詩織の前に立つと、その自立心と大人びた視線に気圧され、どうしても性別を超えた「頼れる仕事の仲間」の枠に彼女を収めてしまうのだった。
周囲の女子たちが放課後に繰り広げる浮ついた恋バナには、どうしても気のない相槌しか返せない。恋に恋する乙女たちの恋愛脳は、彼女の目には遥か遠い世界の出来事に映っていた。
「まあちゃん、恋愛脳ってあんたのことだよ。たまにはその『叔父さま、叔父さま』っていうのから少し離れて、もっと広い世界を見てみたらどうなの?」
放課後の家庭科室の隅で詩織は、のほほんとした顔で自作のハッキング用コードを見つめている親友を、そんな風にからかっては溜息をついていた。
まさ子が普通の女の子たちの浅い恋愛脳とは完全に一線を画した、常軌を逸するような「情念の塊」の持ち主であることは、詩織も理解していた。叔父である邦明へのまさ子の一途さの徹底ぶりには、呆れや恐れを通り越して、すでに一種の信仰心すら抱いている。
だからこそ、まさ子にとっても詩織は、自分の日陰の恋を打ち明けられる、世界で一番大切な相談相手だった。
「ふぇぇ、しいちゃんにそう言われてしまうと、照れてしまいますね……」
恋愛脳と言われ耳まで真っ赤にして幸せそうに微笑むまさ子は、ノートPCから視線を上げると、おっとりと首を傾げた。
「しいちゃん、何かお悩みですか?うちはサラリーマンのお父さまの、普通のおうちですから気楽ですが、しいちゃんのところは歴史のある大きなお家ですから、しきたりとか、色々あって大変そうです」
「まあね。お堅い家だから、目に見えないタブーだらけで息が詰まるのは本当。まあちゃんみたいにのほほんとした子がうちの娘だったら、即日座敷牢行きよ」
「ふぇー、座敷牢って、まだお宅にあるのですか〜」
「あるわけないでしょ! たとえ話よ、たとえ話!」
首をすくめるまさ子の様子が可愛らしく、詩織は思わず吹き出しながら、冷めかけた紅茶を口に含んだ。
伝統ある老舗の社長令嬢。しかし、詩織の両親の教育方針は、娘を真綿でくるんで箱に入れて可愛がるような甘いものではなく、徹底した「実質本意」の哲学が貫かれていた。
社長令嬢につきものである車での送迎など小学生の頃からなく、バスと地下鉄を乗り継いで自らの足で学校へ通っている。
「川野の家の者は、額に汗して働くことの価値を身をもって知らねばならない。一人娘が泥臭いアルバイトで働き、早いうちに労働の価値と世間というものを知っておくことは、本人の血肉となり、ひいては将来の川野家を支える大きな力になる」それが彼女の両親の骨太な考え方だった。
そのため高校生になってからは「武者修行」として、学校の規則としてはグレーゾーンであっても、外の様々な業種で働くことを静かに推奨されている。
「でもさ、そんな実質本意の両親の方針のおかげで、結構もういくつかのバイトを経験できているし、その積み重ねで、今の介護施設のバイト先では事実上のフロア責任者格なんて任されて、結構やりがい感じてるんだよね。それでね、今日の本題は、そこで信じられない再会をしちゃったって話なんだけど」
「どなたと、ですか?」
「うちの社員の戸崎皓一さん、という方。お祖父様のお見舞いに来て」
詩織は少し視線を落とし、かつて中学生まで家業の直営店を手伝っていた頃の記憶を、まさ子に語り始めた。自分より12歳年上で、自分の最初の教育係だったこと。いつも清潔にアイロンが掛けられた白いシャツの背中が、社会の道標のように格好よかったこと。
「『詩織さん、お菓子の箱を並べるときは、お客様の目線がどこに最初にいくかを考えなきゃダメですよ。私たちはただお菓子を売っているんじゃない、川野の暖簾を背負って、お客様に喜びを届けているんです』なんて、今でもそのままの口調で覚えているわ」
そして、彼が本社の要職へ異動して現場から消えてしまったとき、無意識のうちにぽっかりとした寂しさを覚えていたこと。
「何回か、しいちゃんのお話に出て来たのを覚えています。そんな大切な思い出の人が、しいちゃんの働いている施設に突然現れたのですね。 ……まるで映画のようで素敵です。……でも、しいちゃんは入所者の方のことを全部把握しているのに、どうしてそのおじいさんが戸崎さんのご親族だって、会うまで気づかなかったのですか?」
まさ子の疑問に、詩織はふっと、フロアを仕切る責任者としてのプロの顔付きになって答えた。
「それはね、入所されているお祖父様、高橋さんの『キーパーソン』、つまり身元保証人としての連絡先がね、息子さん……戸崎さんにとっての伯父さん名義になっていたからなの。姓が違っているから、記録の上からは戸崎さんと結びつかなかったのよ」
「なるほど。でも、お見舞いにいらっしゃる方の家系図みたいな記録もあるって、しいちゃんから以前聞いた気がしますが」
「よく覚えているね。確かにアセスメントシートの家族関係図には、お見舞いに来る可能性のある親族を書き込むのが普通よ。でも、そこにも『戸崎』の名前は一切なかった。たぶんだけど、戸崎さんのお母さんはそのお祖父様の入所にあまり関わっていなくて、戸崎さん自身も、あの日私とばったり会った時が、初めてのお見舞いだったんだと思う。あ、もちろんあんたのことだから大丈夫だと思うけれど、多少入所者の秘密に触れることを話しているから、口外無用でお願いね」
淀みなく施設の情報管理システムと、その裏にある家族の事情を分析してみせる詩織の姿を、まさ子は焦点の甘い瞳を丸くして、感嘆の面持ちで見つめていた。
「すごいです……しいちゃんは高校生のアルバイトなのに、そんなに難しい書類やご家族の裏側のことまで、全部把握してるのですね。やっぱりしいちゃんは、とっても大人です……」
「もう、まあちゃんにそんな感心されると調子狂うな。ただ、仕事だから完璧を目指してやってるだけよ」
詩織は少し照れくさそうに笑いながら、胸の奥の引き出しに仕舞い込んでいたはずの、あの春の日の夕方の光景を、鮮烈に思い出していた。
高校2年生になる直前の、まだ肌寒い春の初め。
面会室の窓外に薄暗い茜色の夕焼けが広がる頃、重いガラス扉が静かに開いた。入ってきたスーツ姿の男性の顔を見た瞬間、詩織は持っていたクリップボードを取り落としそうになった。そこに立っていたのは、紛れもない戸崎さんだった。
「……家の外で、スタッフさんに混じって汗水流して働いている私を見て、戸崎さんね、少し眩しそうに目を細めて言ってくれたの。『しばらく見ないうちに、ずいぶんと大人っぽくなったね、詩織さん』って」
詩織の声が、微かに熱を帯びる。
「その低い穏やかな声を聞いた瞬間、私、生まれて初めて胸の奥のスイッチが完全に押し込まれたのを感じたんだよね。それから毎週、同じ曜日の面会時間に彼が来るようになって、直営店の頃よりも深く、色々な世間話を交わすようになってさ……」
そして季節は初夏を迎えた、汗ばむ陽気のある日の午後。
戸崎さんは、少し照れくさそうに、しかし詩織の目を真っ直ぐに見つめて、こう誘ってきたのだという。
「いつも祖父がお世話になっているお礼として、今度、僕と二人で食事につきあってくれませんか?」
(了)




