第3話 蒼き牝オオカミの野望
戸崎さんとの食事デートがあった翌日。詩織からの突然の、切羽詰まった呼び出しを受けたまさ子は、久しぶりに彼女の自宅の部屋を訪れていた。
部屋の扉を開けると、ペルシャミックスの姉妹、たまえとたまみが、のほほんとした様子でお出迎えしてくれた。かつてまさ子と壮絶なキャットファイトを繰り広げた気高き御猫様・パールお母様の面影を残す穏やかな姉妹は、赤ん坊猫のころからまさ子とは大の仲良しだった。
「たまえさん、たまみさん、ご無沙汰しております。今日も上品な柄でとっても可愛いですね」
まさ子が行儀よく床に正座をし、姉妹のふさふさとした見事な毛並みを優しく撫でさせてもらっているときだった。奥のキッチンからお茶を持って入ってきた詩織が、トレイを床に置くやいなや、まさ子の小さな体に後ろからすがり付くようにして、激しく泣き始めたのだ。
「まあちゃん……! あんたの言ったとおりだった……! 戸崎さん、うちの会社、お辞めになるんだって……!」
詩織のあの普段の学校でのサバサバとした頼りがいのある姉御肌がすっかり鳴りをひそめ、そこには、涙で顔をくしゃくしゃにした、ただの17歳の子がいた。
まさ子は驚くこともなく、たまえとたまみをそっと下がらせると、詩織の背中を小さな手でぽんぽんと優しくあやしながら、おっとりと問いかけた。
「それで、戸崎さんは何とおっしゃったのですか?」
「今までよくしてくれたお礼だって……。お父様の期待を裏切って途中で会社を去る結果になって、本当に申し訳ありませんって、頭を下げられたの。戸崎さんのお父さんの会社が今、すごく経営難に陥っていて、このままじゃ潰れちゃうから、長男である自分が戻ってどうしても手伝わなきゃいけないんだって。……そんなこと、あたしに言ってどうすんのよ! あたしは、そんなお別れの挨拶が聞きたかったわけじゃないのに……!」
涙に濡れた親友の顔を見つめながら、まさ子はふっと、悪戯っぽい微笑みを浮かべた。もちろん、傷ついた親友の魂に火をつけ、猛烈に焚きつけるための、確信犯的な笑顔である。
「それなら、しいちゃんから告白してしまえばいいじゃないですか。今どきは、女の子の方から告白するのが大流行りなのですよ?」
「私だって……私だって、できることならそうしたいわよ!」
詩織はまさ子の手をぎゅっと握りしめ、悔しそうに涙を拭った。
「でも、できない。私は川野の家の一人娘。お父様とお母様を裏切って、我が家を捨てて出て行くような、そんな親不孝なこと、私には絶対にできない……!」
親との深い絆、そして社長の一人娘としての責任。その堅牢な鎖が、詩織の足を縛り付けていた。
しかし、まさ子はのほほんとした顔のまま、その鎖をたやすく木っ端微塵に砕く言葉を放った。
「きっと、戸崎さんもそれが痛いほど分かっているから、しいちゃんへの告白をしなかったのですね。しいちゃんを困らせたくないから、綺麗にお礼だけを言って去ろうとした。……だからこそ、しいちゃんが告白するしかないのですよ。お家のことなんて、その後の戦略次第で、いくらでも何とでもなるのですから」
「え……? 戦略って、あんた何を……」
「思いつきですが、いっそ、戸崎さんのお父様の会社と、我が川野製菓を結びつけてしまえばいいではないですか。一人娘のしいちゃんの、これからの力次第です。もちろん、今すぐには無理かもしれない。でもね、一人娘だとか川野の家柄だとかいう社会の決まりごとと、しいちゃんの戸崎さんへの想い、戸崎さんのしいちゃんへの想いというのは、まったく、何の関係もないのですよ」
びっくりして目を見開く詩織の手を、まさ子は力強く握り返した。
誰に認められるかではなく、ただ愛する人の唯一の器になるために、日陰の中で自らの最大限を尽くし続けている末娘の言葉には、絶対的な説得力があった。社会の常識の壁を前にして、まさ子はそれをあたかも「そこにないもの」であるかのように、のほほんとすり抜けて見せるのだ。
詩織の手の力が、みるみる強くなっていく。
「……もう、あんたって人は。そんな小学生みたいなぽよぽよした顔をして、なんて恐ろしいことを言うのかしら。全部、まあちゃんの言う通りだわ。だてに楽しく日陰者をやってないわね!」
「ふふ、最高の褒め言葉として受け取っておきます」
ふわゆるな笑顔の中に、ほんの少しだけ、大人の領域を知る女性としての複雑な色を交えて、まさ子は美しく微笑んだ。
「きっと、お姉さまたちに聞いても、お母さまに聞いても、うちの人たちはみんな同じようなことを言うと思います。我が家は少し、世間の常識から離れているのですよ」
その後、まさ子に魂の導火線に火をつけられた詩織は、戸崎さんの元へと走り、その想いを真っ直ぐにぶつけた。
当然、そこからは川野家やその親戚筋も巻き込んだ大すったもんだの嵐が吹き荒れることとなった。しかし、巫女まさ子が「大丈夫」と言い切った未来が、覆るはずもなかった。
数年後、戸崎さんは川野家の婿養子として正式に迎え入れられ、彼のお父様の会社は、川野製菓へと買収され、その主要な一部門として組み込まれるという、完璧な経営戦略としての決着を見ることになる。
それを「川野家のお嬢様の個人的な我が儘」とは周囲に誰一人として言わせないよう、買収がまとまる前に会社を完全に立て直した上、堂々と川野製菓の業務拡大の一翼を担うまでにして、実力を証明してみせた戸崎さんの男の意地。そして、それを裏でちゃきちゃきと支え続けた詩織の深い愛。
世の重い禁忌すら「関係ない」と言い切る親友の教えを胸に、一匹牝オオカミだった少女は、自らの手で最高のハッピーエンドをもぎ取ったのだった。
(牝狼の夢 完)




