8. 触れてはならないもの
フェリックス様もまた、スムーサーの魔力には抗えなかった。
銀色の鬣がパチパチと美しく輝いたかと思うと、あの毒舌な彼が「……悪くない」と一言残して、秒で深い眠りへと落ちていったのだ。
そして。いよいよ、セドリック様の番がやってきた。
彼は青紫の瞳を鋭く光らせ、警戒を解かないまま私の前に立った。呪いを受けてからというもの、彼は五人の中で最も感覚が鋭敏になっている。特に、闇に染まるこの姿の時は。
「……手短に済ませろ。俺はヴィンセントたちのように、無様に眠ったりはしない」
「は、はい。失礼いたします……」
私はごくりと唾を呑み、黄金に輝く彼の鬣に手を伸ばした。
(……すごい。他の四頭とは密度の桁が違うわ! 太く、力強く、それでいて気高い質感。右手のスムーサーで魔力を流し、左手で優しく筋肉の緊張を解すようにマッサージして……。ああ、黄金の毛並みが私の指に吸い付くようだわ……!)
「……っ」
セドリックの喉が、小さく鳴った。
今まで、こんな快感に包まれたことはなかった。
右手の魔道具から流れる心地よい振動と、左手の体温。それらが混ざり合い、彼の鋭敏すぎる感覚をダイレクトに揺さぶる。
花の蜜のようなベルの香りが、彼の理性をじわじわと削り取っていく。
(なんだ……? 自分の中の、何かが……引き摺り出されるような……違う。この感覚は……あの夜——)
それは安眠への誘いではなく、もっと根源的な、抗いがたい熱。
「触れられたい」という欲求が、理性の堤防を今にも決壊させようとしていた。
「やめろ!!!!!!」
「きゃっ……!」
突如として響き渡ったセドリック様の叫び。私は驚きで尻餅をつき、スムーサーを地面に落とした。
「え、え、どうしたのセド兄様!?」
思わぬ大声に、それまで気持ち良さそうに寝ていた三人も飛び起きた。
「どうされました、セドリック様! 敵襲ですか!?」
カスティエルが、寝起きの放心状態から一瞬で飛び起き、周囲を警戒する。
「はぁ……はぁ……いや……違う。……何でもない」
セドリックは青白い顔で肩を上下させ、荒い呼吸を繰り返している。いつの間にかその瞳は黄金に光り輝いていた。
その瞳は、まるで恐ろしいものを見るかのように、震える手で地面を這う私を射抜いていた。
「えっと……私、何か、気に障ることを……? 力が強すぎたでしょうか……?」
私が申し訳なさそうに、おずおずと尋ねる。
だが、セドリック様は私の顔を見ることさえできない様子で、顔を背けた。
「……見るな。今の俺は……まともじゃない」
その混乱しきった主君の様子を見て、眼鏡をかけ直したヴィンセント様が、冷徹な、しかしどこか確信めいた瞳で私を見下ろした。
「ベル様。……ひとまず今日は、このまま王宮に泊まっていただきます」
「え……? 泊まるって、あの、お父様たちが待って……」
「ご両親にはこちらから使者を出しておきましょう。特級魔導具師助手による魔導具の検証…という名目で。……よろしいですね?」
(え、ちょっと待って。幽閉されちゃうの!?私のスムーサーってそんな物騒なものだっけ!? ただの『毛並みツヤツヤ・超音波マッサージ機』だよ!? でも……確かに、セドリック様の黄金の鬣に触れたとき、私の指先に、なにかドロリとした熱い“塊”が流れ込んできたような気がする……それに瞳の色も…)
「ベル、お前は……」
セドリック様が、絞り出すような声で呟く。
「……お前は、何者なんだ」
その問いに答えられるはずもなかった。
私はただ、渡された客室への案内を手に、夜の王宮の奥深くへと連行されるしかなかったのだ。
* * *
案内されたのは、窓に鉄格子こそないものの、重厚な扉に守られた貴族用の客室だった。
愛用の魔道具や、人参クラッカーが詰まったトランクケースは「調査のため」という名目でヴィンセント様に没収されてしまった。
豪華な天蓋付きのベッドの上で、私は膝を抱えてしょんぼりと座り込む。
「……眠れるわけないよね」
(やっぱり私が何かやっちゃったんだ。前世から何も変わってない。やっぱりコミュ障の私が、現実の王子様たちに近づこうなんて無謀だったのよ……。遠くからひっそりと観察するぐらいが、私にはちょうど良かったんだ)
布団の中で小さくうずくまり、自分の浅はかさを呪いながら、私は一睡もできずに朝を迎えた。
一夜明けて。
部屋の扉が静かに開いた。
「お食事をお持ちいたしました」
「あ、ありがとうございます……」
運ばれてきた朝食は、王宮らしい贅沢なものだったけれど、今の私には砂を噛むような心地だった。全く、食欲が湧かない。
「はぁ……。お父様とお母様、心配してるだろうな。帰りたい……」
思わず漏れた独り言に重なるように、再び部屋のノックが響いた。入ってきたのは、昨夜の険しい表情とは打って変わって、冷徹なまでに落ち着いた表情のセドリック様だった。ただし、その目はどこか私を測りかねているように揺れている
「……っ。おはようございます、セドリック殿下」
私は慌てて立ち上がり、不器用なカーテシーを披露する。
「堅苦しい挨拶はいらない」
セドリック様はそこで一瞬だけ言葉を切り、わずかに眉を寄せた。
(……まだ、残っているのか)
ほんの一瞬、彼は無意識に私から距離を取るように一歩引いたが、すぐに何事もなかったかのように視線を戻し、椅子に力なく座る私を上から見下ろした。
「はっ、どうした。昨夜の勢いはどこへ行った、ずいぶん大人しくなったな」
「……殿下。私は、いつになったら家に帰らせていただけますか」
縋るような私の問いに、セドリック様は残酷なまでに首を横に振った。
「残念ながら、今の段階でお前を野に放つわけにはいかない」
「どうしてですか……!」
「お前には今、『魔女』、もしくは『魔女に通じたもの』として疑惑がかけられている。極秘だがな」
「魔女!? なんで!? 私が!? どこをどう見たら、人畜無害な魔道具師助手が魔女に見えるんですか!」
「人畜無害だと……?あの魔道具達は、君一人で開発したんだったな。この国の中枢を担う四人…いや、五人のユニコーンをあれほど容易く腑抜けにする力。魔女とまでは言わずとも、君一人で国を掌握することができるんだぞ?」
扉が開き、セドリック様の背後から全員が入ってきた。
「そんな、あれはただの…!」
「ベル様。あなたの疑惑が完全に晴れるまで、あなたは王宮の保護下に置かせていただきます。……少なくとも、あなたの魔道具が我々の呪いにとって、毒か、あるいは薬か、その答えが出るまでは」
ヴィンセント様の冷たい言葉が、部屋に重く響く。
私はただ、絶望的な気持ちで彼らの顔を見渡した。
……昨日まであんなに「尊い」と思っていたユニコーンたちが、今は逃げ場のない檻の番人のように見えた。




