7. ユニコーン、完堕ちする
白銀の月光が降り注ぐ王宮の秘密庭園。
そこには、昼間の華やかなパーティーからは想像もつかない、幻想的で神聖な光景が広がっていた。
闇を裂くように真っ白に輝く五頭のユニコーン。
一本の角を額に戴き、夜風に鬣をなびかせるその姿は、伝説そのものだ。
「カスティエルがここに来るなんて珍しいね。いっつも自室で大人しく過ごすのに」
フィリップが蹄で地面を軽く叩き、首を振る。
「……例の令嬢がこちらに来るのでしょう。護衛騎士として、万一のこともあり得ます。この姿でも殿下をお守りせねば」
赤髪の騎士カスティエルは、ユニコーンとなってもその鋭い眼差しは健在だ。
「さすがにユニコーン五頭もいれば、か弱い少女一人どうにでもなる気もしますけどね」
眼鏡をかけていなくても知的な空気を纏うヴィンセントが、呆れたように鼻を鳴らす。
「いや、妙な魔道具を作り出す女だ。何が起こるか分からないぞ」
フェリックスが冷たく言い放つ。だが、その視線はどこか落ち着きなく庭園の入り口を彷徨っていた。
(……くだらない。だが…あの時食べたものといい…あの魔道具、妙に気になるんだよな)
そんな会話を、茂みの陰から馬よりも激しい鼻息で聞き入っている令嬢が一人。
(夢かな……? 5頭揃ってるところが見れるなんて、これは夢よ……! ぐっ、痛い。頬を抓ったけど夢じゃない。夢じゃないわ……! ハッ! 私としたことがスケッチブックを忘れてきてしまったじゃないの! 一眼レフがないのが悔やまれる……! もはやこの図は国宝に値する絵画にできるのに……! 何あの筋肉の付き方! あの滑らかな曲線! 神様、私を今すぐ人参に変えて彼らに捧げてください! ……ハッ、いけない。どんなタイミングで入っていったら……『良い馬日和ですねー!』とか?)
一人で脳内会議を繰り広げていると、不意に背後に気配を感じた。
「何してんのさ」
「わわわわ! フィリップ様! ちょっと……あまりにも目の前の光景が神がかりすぎて、私のキャパが完全にオーバーしておりました」
「ふふ、相変わらず面白いね、君」
いつの間にか背後にいたフィリップが、鼻先でベルの背中をちょんと突いた。その感触だけでベルの鼻血が出そうだ。
(もうこのドレス洗わないで飾っとこ)
「きたか」
セドリックが重厚な足取りでこちらを向き、鋭い黄金の瞳でベルを射抜く。
「……で? その……例の魔道具は持ってきたんだろうな」
「はははははい! こちらに、揃っております!」
ベルは震える手で、カバンから『超音波式・鬣トリートメント・スムーサー』を取り出した。
「殿下、ここは私から。不審な点がないか、私が毒見ならぬ『毒磨き』を検分しましょう」
カスティエルが一歩前へ出る。その動きには一切の迷いがない。
「……カスティエル、無理はするな」
「ご安心を。たとえどのような魔道具であろうと、私は騎士として——」
ベルの手が、そっと鬣に触れた。
「っ……!」
一瞬、カスティエルの背筋がピンと伸びる。耐えるように、奥歯を噛み締める。
(ほ、ほう……?ポニは三秒で完堕ちするけど、さすが殿下の護衛騎士、初手で耐えるのね……いいわ、その誇り、私が粉々にしてあげる……!)
スムーサーが低く唸り、微細な振動が鬣の奥まで染み渡る。
「……くっ……! こ、この程度で……っ」
だが、その声は徐々に震え始める。
「騎士は……如何なる時も……っ、主を……守……る……べき……」
言葉が途切れた。
次の瞬間。
「…………ぁ」
崩れ落ちた。
前脚が力を失い、ゆっくりと地面に沈む。だがその表情は、あまりにも穏やかで——満たされていた。
「カ、カスティエルが……!」
騎士団長は最後の力で、かすかに蹄を持ち上げる。
——ぐっ。
親指を立てるような、完全敗北の合図だった。
( あの鋼のような筋肉が、私のスムーサーでふにゃふにゃに解けていったわ! ああ、騎士団長の鬣……手触りが最高すぎる! 剛毛かと思いきや、磨くほどにシルクの輝きを……! 指先に伝わるこの体温、鼓動! 職権乱用万歳! 生きててよかった!!)
「次! 僕! 僕やってベル!」
フィリップが我慢できずに割り込もうとするが、それをヴィンセントが遮った。
「待ってください。まだ安全が完全に保証されたわけではありません……。次は、私が」
「そんなこと言って、自分もやってほしいだけだろヴィンセント」
フェリックスの毒舌が飛ぶが、ヴィンセントは動じない。
「そんなことはありません! ほらベル嬢、早くしなさい! 職務としての検分です!」
有無を言わさぬ圧力(と、期待に満ちた瞳)に押され、ベルはヴィンセントの鬣にブラシを当てる。
―――数分後。
「ヴィンセント様……? おやすみなさい」
知略の宰相も、スムーサーの魔力には勝てなかった。彼は完全に「虚無」の境地に達したような穏やかな顔で、スヤスヤと眠りについてしまった。
(ひゃあああ!! あの冷静沈着な宰相様が、こんな無防備な寝顔を晒すなんて! 普段の眼鏡越しの冷徹な瞳が閉じて、まつ毛の長さが強調されて……って、今はまつ毛より毛並みよ! ほら見て、この首筋のライン! 芸術だわ! 額の角をちょっとだけ……ああっ、ダメ、不敬罪になるけど、でも指が勝手に吸い寄せられる……!!)
私がその完璧な寝顔に見惚れていると、背後でセドリック様が信じられないものを見るような目で鼻息を漏らした。
「……おい、嘘だろ。ヴィンセントが寝たのか……?」
「ヴィンセント様、そんなに寝つきが悪いんですか?」
「ああ。彼は特にこの姿にされてから、常に周囲を警戒して、なかなか眠ることができなくなっていたんだ。……万年寝不足のあいつが、これほど深く眠るなんて。ベル、お前、一体何をした……?」
「と、特に何も特別なことは…」
セドリック様の黄金の瞳に、困惑と、そして少しばかりの「羨望」が混じるのを私は見逃さなかった。
残されたのは三頭。フィリップとフェリックスが、火花を散らすように睨み合う。
「「じゃんけーーーん……」」
月光の下、二頭の白いユニコーンが向かい合い、真剣な眼差しでタイミングを合わせる。
(な、何が起きてるの!? ユニコーンたちが向き合って……あ、あれは、馬式ジャンケン!? 可愛い、可愛すぎて心臓がもたないわ! 頷いたり首を振ったり……世界よ、今すぐ時間を止めて! この尊い儀式を永遠に録画させて!!)
「「ぽん!!」」
フィリップは勢いよく首を上に跳ね上げ(パー)、フェリックスは深く一度頷いた(グー)。
「わーい! 僕の勝ち! ベル、早く早く!」
「くそっ……!」
フェリックスが悔しげに前足で地面を掻いたその時、背後から圧倒的な威圧感が放たれた。
「待て」
「セド兄様!?」
「……次は、俺だ。この国の王太子として、これ以上臣下を無様に眠らせておくわけにはいかないからな」
「ええぇぇぇ、ずるいよ! そんなもっともらしいこと言って、自分が一番やりたいだけでしょ!」
フィリップの抗議に、セドリックは王族のプライドをかなぐり捨てて提案した。
「……ならば、俺と勝負だ。ルールは分かっているな?」
「くっ……仕方ないな。王太子特権は認めないよ!」
(王太子様がジャンケンに参加したぁぁ!! あの黄金の鬣を激しく揺らして……! ああ、もうどっちが勝っても私へのご褒美でしかないわ! さあ、もっと首を振りなさい、跳ね上げなさい!!)
ベルが心の中で悶絶する中、王国のツートップによる頂上決戦が始まった。
「「じゃんけーーーん……」」
フィリップは首を横に振り(チョキ)、セドリックは深く頷いた(グー)。
「あぁぁぁぁ!!」
崩れ落ちたのはフィリップだった。勝利の余韻に浸り、セドリックが鼻息を荒くしてベルに近寄る。
「ふんっ、これで俺が――」
「兄様」
背後から、低く冷ややかなフェリックスの声がした。まだ勝負を捨てていなかったらしい。
「……フェリックス、やるのか」
「まだ、俺とは勝負してないからね ……「ぽん」!」
不意打ちのタイミング。セドリックは反射的に首を跳ね上げ(パー)、フェリックスは首を横に振った(チョキ)。
「…………っ!」
セドリックの黄金の瞳が絶望に染まる。
「兄様は昔から、俺の『チョキ』には弱いんだよね。……ベル、早くしろ」
フェリックスは勝ち誇ったように、美しい銀の鬣をベルの目の前に差し出した。
「は、はい! 喜んでぇ!」
ベルはもはや「奉仕できる喜び」で手が止まらない。
『スムーサー』がフェリックスの銀の鬣を滑るたび、パチパチと魔力の火花が美しく散る。
だが、その様子をじっと見つめるセドリックの視線は、もはや単なる「ブラシへの興味」だけではない熱を帯び始めていた。
(まさかこの令嬢は……魔女に通じているのではないか……? 俺たちをこれほどまでに骨抜きにして、国を乗っ取ろうとかそういう……。だとしたら恐ろしい女だ。
だが――なぜ俺は、その恐ろしい女の指が、早く俺の鬣を掻き乱すことをこれほどまでに望んでいるのか……)
魔道具の微かな振動音と、ベルの抑えきれない興奮の吐息。
そして――それを渇望する視線が、一つ。
静寂の庭園は、すでに“普通の夜”ではなくなっていた。




