第五話 真実
第五話
「……見つけた」
路地の先を、一人の男が走っていた。大柄な身体に似合わず、逃げ方はひどく不器用だった。角へ差しかかるたびに進む方向を迷い、そのたびに背後から迫る男たちとの距離が縮まっていく。
玉藻は少し離れた場所から、その様子を追っていた。あの男が誰なのかは知らない。何をしたのかも分からない。
ただ、数日前から藤原家の者たちが、人目につかない路地や空き家、物置ばかりを探していた。その探し物が、ようやく目の前に現れたのだ。今ここで捕まれば、自分が知りたいことまで失われるかもしれない。
「そこの方!」
玉藻が声を上げる。男が振り返った。
「え?」
「こちらへ!」
「誰だべ!?」
「説明は後です。早く!」
玉藻は細い脇道へ入った。男は一瞬戸惑ったものの、背後から迫る足音を聞き、そのまま玉藻を追ってくる。二人でいくつか路地を曲がる。
だが、追手の足は速い。このままでは追いつかれる。玉藻は足を止めた。
「あなたは先に行ってください」
「え?」
「この先をまっすぐ行けば川へ出ます。そこで待っていてください」
「でも、あんたは?」
「すぐに行きます」
男が後ろを見る。追手の声はもう近い。
「……分かったべ」
「早く!」
男は走り去った。玉藻は一人、その場へ残った。戦うつもりなどない。
勝てるはずもない。ただ、少しだけ時間を稼げればいい。話しかける。
問いを投げる。相手が足を止めている間に、あの男が遠ざかればそれでいい。やがて、角の向こうから数人の男たちが現れた。玉藻は道の中央に立つ。
「お待ちください」
先頭の男が一瞬だけ足を緩めた。
「先ほどの方は、何をしたのです?」
「退け」
「なぜ、あれほど大勢で追っているのです?」
「退けと言った」
低い声だった。玉藻はそれでも動かなかった。
「事情を伺うだけです。少しくらい――」
男の手が動いた。鞘から刃が抜かれる。玉藻の言葉が止まった。
「……え?」
問答をする気など、初めからなかった。男が踏み込み、刃が振り下ろされた。玉藻は反射的に身を引いたが、間に合わない。そう思った瞬間。
「――うちの者に何をしている!」
鋭い声と同時に、横から別の刀が割り込み、玉藻へ向けられた刃を受け止めた。金属音が路地に響く。玉藻の前へ、男が一人滑り込んでいた。
その後ろからも数人が駆け込んでくる。見覚えのある顔だった。
「皆様……?」
橘家の家臣たちだった。
「玉藻様、お下がりください」
一人が玉藻を庇うように前へ出る。
「何者だ!」
問いかけられた男たちは答えなかった。互いに視線を交わす。そのうちの一人が、先ほど男が逃げていった方向へ目を向けた。
だが、もう姿は見えない。ここで橘家の者たちと争う理由はないと判断したのだろう。男たちは名乗ることもなく、静かに刃を収めた。そして、そのまま路地の向こうへ退いていく。
「待て!」
橘家の家臣が追おうとする。
「いいえ!」
玉藻が止めた。
「追わないでください」
「しかし――」
「それより、私も行かなければ」
玉藻は先ほど男が逃げた方向を見る。
「どこへ行かれるおつもりです?」
「先ほどの方に、聞かなければならないことがあります」
「危険です」
「分かっています」
玉藻はそこで、ようやく家臣たちを見回した。
「ですが……どうして皆様がここへ?」
家臣の一人が答える。
「当主様のご命令です」
「当主様が?」
「玉藻様をお守りせよ、と」
玉藻は言葉を失った。どこまで気づいていたのだろう。小夜を逃がしたことか。
自分が何かを探っていることか。それとも、もっと先まで。そこまで考えたところで。
違う。
そう思った。これは策ではない。千代が死んでから、自分が一人で動き回っている。
それを見ていた。ただ、それだけなのだ。危ないことに首を突っ込んでいる娘を、そのままにしておけなかった。
――優しさだ。
「玉藻様?」
家臣の声で我に返る。玉藻は深く頭を下げた。
「ありがとうございます」
そして顔を上げる。
「ですが、今は行かせてください」
「……」
「当主様に、お伝え願えますか」
一度、息を整える。
「必ず――」
強く言った。
「必ず玉藻は、証拠と共に戻ると」
家臣はしばらく玉藻を見ていた。やがて頷く。
「……承知しました」
「ありがとうございます」
玉藻は走り出した。
*
川へ出ると、男は本当に待っていた。肩で息をしながら、何度も後ろを振り返っている。
「遅かったべ」
「待っていたんですね」
「待てって言ったべ」
「……そうでしたね」
妙に律儀だった。
「追ってきてるだか?」
「今は大丈夫です」
「助かったぁ……」
男がその場へ座り込もうとする。
「休むのはまだです」
「まだ走るだか!?」
「もう少しだけです」
玉藻は川下を指した。
「こちらへ」
*
川下へ着く頃には、空はすでに夕暮れの色を失い始めていた。川面には薄い闇が落ち、重綱の家から漏れる灯りだけが周囲を淡く照らしている。源重綱の家へ着くと、小夜が戸を開けた。
走り続けたせいで玉藻の胸は浅く上下し、喉には冷えた空気が張りついていた。武丸も肩で息をしている。川の匂いと湿った土の匂いが濃くなるにつれ、都のざわめきは遠ざかり、代わりに水の流れる音だけが耳へ残った。
「玉藻様!」
安堵した表情を見せたのも束の間、玉藻の後ろにいる大男を見て固まる。
「……どなたです?」
「私も、まだ知りません」
「え?」
小夜が男を見る。男も小夜を見る。
「オラ?」
「あなた以外に誰がいるんですか」
「熊谷武丸だべ」
玉藻はその名を頭の中で繰り返した。
熊谷武丸。
初めて聞く名前だった。
「それで」
小夜が恐る恐る尋ねる。
「熊谷さんは、何をした方なんです?」
「それを、これから聞きます」
奥にいた重綱も顔を上げた。玉藻は武丸へ向き直る。
「座ってください」
「はい」
武丸は素直に腰を下ろした。玉藻も正面へ座る。
「なぜ、あの方たちに追われていたのです?」
「それが、よく分からねえんだ」
「分からない?」
「仕事を頼まれてただ。でも、そのあと隠れてたら、オラを探し始めて」
「なぜ隠れたのです?」
「仕事が終わったか分からなかったからだべ」
玉藻は眉を寄せた。
「最初から説明してください」
「はい」
武丸は姿勢を正した。
「藤原家の偉い人から仕事を頼まれただ」
「どのような仕事です?」
「まず、噂の話をされた」
「噂?」
「明子様が千代様にいじめられてるとか、橘家が他の家を蹴落として上に行こうとしてるとか、そういう噂だべ」
小夜の顔が曇る。玉藻は黙って続きを促した。
「それで、その人に言われただ。“噂の元を断て”って」
「……それから?」
「“良い噂を流せ”って」
「その二つですか?」
「そうだべ」
ここまでは、はっきりしている。玉藻は続けて尋ねた。
「では、“噂の元を断て”という言葉を、あなたはどう受け取ったのです?」
「噂の中心は、明子様と千代様だと思った」
「それで?」
「でも明子様は藤原の姫様だ。手を出しちゃいけねえ」
武丸は当然のことのように答える。
「だから千代様を消せば、噂もなくなると思っただ」
小夜が固まった。玉藻も、すぐには言葉が出なかった。
「……消した、とは」
聞きたくない。けれど、聞かなければならない。
「どういう意味です?」
「殺したべ」
音が消えた。小夜の顔から血の気が引く。重綱も武丸を見る。玉藻は、目の前の男から視線を外せなかった。
灯火が小さく揺れた。誰も動いていないのに、部屋の中だけが急に狭くなったように感じられる。玉藻の掌へ爪が食い込み、そこで初めて、自分が拳を握っていることに気づいた。
――この男が。
千代の日記の文字が浮かぶ。来年も。玉藻と一緒に誕生日を祝いたい。
もう、その来年は来ない。指が強く握られる。目の前にいる。
千代を殺した者が。一瞬だけ。本当に、一瞬だけ。
殺したいと思った。けれど。ここでこの男を殺せば、何も分からなくなる。
なぜ千代が死んだのか。誰がこの男へ仕事を与えたのか。その先に何があるのか。
千代の死を。この男一人で終わらせるわけにはいかなかった。玉藻はゆっくり拳を開いた。
開いた指先には、爪の跡が白く残っていた。怒りは消えていない。むしろ胸の底へ沈み、重く形を持った。ただ、その重さに任せて動けば、千代が残したものまで自分の手で閉ざしてしまう。玉藻は一度だけ息を吸い、武丸の顔を真正面から見た。
「……“良い噂を流せ”という方は?」
「分からなかった」
「分からなかった?」
「どんな噂なら良い噂になるのか、聞かなかったから」
小夜が武丸を見る。
「聞けばよかったじゃないですか」
「あとから気づいただ」
「あとから……」
「千代様を殺したあとに」
小夜は額へ手を当てた。
「……この人、馬鹿なんですか?」
玉藻は小さく息を吐いた。
「どうやら、命令の意味を読むのが得意ではないようですね」
「でも隠れるのは得意だべ」
「そこは聞いていません」
玉藻は少し間を置き、話を戻した。
「その仕事を頼んだ方は、どなたです?」
「藤原家の偉い人だべ」
「お名前は?」
「知らねえ」
「名前も知らずに仕事を?」
「みんな、その人の言うこと聞いてただ。偉い人なんだと思った」
玉藻は小夜を見る。
「小夜。どなたか分かりますか?」
小夜は少し考えた。
「……もしかしたら」
「心当たりが?」
「“参謀”と呼ばれている方のことかもしれません」
「参謀?」
「はい。私も、その方から何度か使いを頼まれたことがあります」
玉藻の目が細くなる。
「どのような使いです?」
「文や、小さな袋を届けるものです。中は見ないように言われていました」
「届け先は?」
小夜は記憶を辿るように目を伏せた。
「宗次という方に、よく」
その名を聞いた瞬間。武丸が勢いよく顔を上げた。
「宗次様だべか?」
「知ってるんですか?」
「知ってるも何も、オラの先生だべ!」
「先生?」
「隠れ方とか、人に見つからねえ歩き方とか、色々教えてもらった」
その時だった。奥で、小さな音がした。重綱の手にしていた器が、わずかに揺れていた。
「……今」
老人の声が低くなる。
「宗次と言うたか」
「はい」
小夜が答える。重綱はしばらく黙っていた。
「その名を、また聞くことになるとはな」
玉藻が老人を見る。
「ご存じなのですか?」
「ああ」
重綱はゆっくり座り直した。
「宗次は、もとはわしの部下じゃ」
その一言を口にしただけで、重綱の肩からいつもの力が少し抜けた。懐かしさとも悔恨ともつかない色が目元に滲む。玉藻には、老人がいま目の前の部屋ではなく、ずっと昔の場所を見ているように思えた。
武丸の顔から笑みが消えた。小夜も黙る。
「若い頃から、何をやらせても出来る男でな。読み書きも、交渉も、武も。一つ教えれば十を覚えた」
重綱の目が、遠い昔を見る。
「麒麟児という言葉が、あれほど似合う者もおらなんだ」
けれど。宗次には一つ、大きく欠けたものがあった。
「人の心が、分からなんだ」
目的を果たすなら、最も早い方法を選ぶ。勝つためなら、最も確実な方法を選ぶ。そのために誰が傷つくか。
誰が泣くか。宗次には、それが重要ではなかった。
「わしは何度も言うた。人の道だけは踏み外すな、と」
宗次は答えたという。――あなたのやり方では生温い。
重綱も返した。――お前のやり方では敵を作る。
「それでも、いつかは分かると思っておった」
叱れば反発した。それでも翌日には、教えた技を前日より正確にこなしてみせた。腹が立つほど賢く、見捨てるには惜しい男だったのだろう。重綱の声音には、憎しみだけでは説明できない長い年月が滲んでいた。
だが、ある宴の席で。先代の親王が何気なく問うた。源と藤原。
どちらが優れているのか、と。藤原側は当然のように自らの家を誇った。源側は笑って流した。
「そんなものを競ってどうする、と皆は思った。じゃが、宗次は違った」
それからだった。宗次が藤原家のある男と頻繁に会うようになったのは。
「名は……」
重綱が記憶を辿る。
「確か、藤原兼隆という男じゃった」
小夜の顔が変わった。
「……え?」
玉藻が小夜を見る。
「知っているのですか?」
「その方……」
小夜が目を見開く。
「参謀さんです」
今度は武丸が小夜を見る。
「参謀?」
少し考えて。
「あ!」
膝を打った。
「オラに仕事を頼んだ人だべ!」
玉藻は黙ったまま三人を見る。宗次を藤原へ引き寄せた男。小夜へ使いを頼んでいた参謀。
武丸へ噂の件を任せた人物。それらが。今、初めて一人へ繋がった。
――藤原兼隆。
重綱は目を伏せた。
「今も、藤原家におるのか」
「はい」
小夜が答える。重綱は長く息を吐いた。そして、続きを話し始めた。
「ある日、宗次はわしの目の前で親方様を刺した」
小夜が息を呑む。武丸も口を閉じる。
「それだけではない。その前から全て準備しておった」
人の配置。金。証言。
噂。誰が何を言えば、誰が疑われるのか。どの順番で話が広がれば、それが真実に見えるのか。宗次は、そのすべてを先に作っていた。
「そして最後には、親方様を殺したのは、わしということになった」
玉藻は息を詰めた。
「止めようとした。じゃが、負けた」
重綱は傷を負った。主殺しの罪まで着せられた。そこへ残れば捕まる。逃げるしかなかった。
「後になって知った。源家は潰れたとな」
重綱の声が途切れる。
「あの時、わしが宗次と刺し違えておれば……」
重綱は膝の上で手を握った。その手には、とうに薄くなった古い傷が残っている。逃げ延びた日の痛みよりも、止められなかったという記憶の方が、いまも深く残っているようだった。
老人は自分の手を見る。
「今のお主らの状況も、少しは違ったのかもしれんな」
誰も答えられなかった。重い沈黙の中。小夜が、ふと思い出したように口を開いた。
「……でも」
「何じゃ」
「宗次さんなら、もう亡くなっていますよ」
重綱が顔を上げる。
「何?」
武丸も小夜を見る。
「先生が?」
「都で噂になっていました」
小夜は少し困ったように眉を寄せた。
「最初は、血まみれの女がいたとか。その女が宗次さんを殺したとか……そこから、人間じゃないんじゃないかとか、藻女の呪いなんじゃないかとか」
話すほど、小夜自身も馬鹿馬鹿しくなったのか、声が小さくなる。
「噂はめちゃくちゃでしたけど。宗次さんが亡くなったこと自体は、本当みたいで」
重綱は動かなかった。
「宗次が……」
武丸も呆然としている。
「先生、死んでただか……」
玉藻だけが黙っていた。少しだけ迷う。けれど。ここまで話したのなら。
「私が殺しました」
三人の顔が一斉に玉藻へ向いた。
「え?」
声が重なる。玉藻は静かに続けた。
「以前、宗次という方が人を殺しているところを、偶然見てしまったのです」
重綱の表情が変わる。
「気づかれて、追われました。逃げ切れず……最後には首を絞められて」
玉藻は無意識に、自分の首元へ触れた。
「殺さなければ、私が死んでいたのでしょう」
小夜の強張った顔が少し緩んだ。
「……ああ。そういうことだったんですね」
重綱は目を閉じる。
「……最後まで、変わらなんだか」
武丸だけが玉藻をじっと見ていた。やがて。
「すげえ!」
「……何がです?」
「宗次先生を殺せるなんて、玉藻様すげえべ!」
「そこを褒めるんですか!?」
小夜が声を上げる。重綱の口元が、ほんの少しだけ緩んだ。張り詰めていた空気が、一瞬だけほどける。
だが。小夜の表情が、すぐに変わった。
「……待ってください」
「小夜?」
「私……」
自分の手を見る。
「宗次さんに、何度もお使いしました」
文。袋。金らしきもの。中身を見るなと言われ、そのまま届けた。
「私がやってたことって……」
声が震える。
「もしかして、犯罪だったんじゃ……」
小夜は自分の両手を見つめた。何度も文を抱え、袋を渡し、何も知らずに帰ってきた手だった。思い返すたび、何気なく受けた頼み事の一つ一つが、今になって別の形へ変わっていく。指先が冷え、膝の上で小さく震えた。
玉藻はすぐには答えなかった。
「何のために運んでいたか、知っていましたか?」
小夜は首を振る。
「何も……」
「なら、今は自分を責めないでください」
玉藻は小夜を見る。
「覚えていることを、全部話してください」
「でも……」
「いつ。どこへ。誰から頼まれて、誰へ渡したのか。それだけでいいです」
小夜はしばらく俯いていた。やがて、ぽつりぽつりと話し始める。全部は覚えていない。
中身も知らない。それでも。残っている記憶はあった。
一つ。また一つ。小夜の記憶。
武丸の証言。重綱の過去。それぞれ別の場所にあったものが。同じ男へ繋がっていく。
藤原兼隆。けれど。玉藻はそこで止まった。証拠があること。
疑っていること。それは違う。武丸は千代を殺した。
だが、千代を殺せとは命じられていない。兼隆が何を意図していたのかも、まだ本人から聞いたわけではない。そして。
明子。安倍家が潰れた時も。父と母が死んだ時も。
自分が川へ落とされた時も。藤原へ繋がるものはあった。だから疑った。
何度も。けれど。明子自身が何をしたのか。
その証拠を、玉藻は一つも持っていない。今回も同じだ。千代の死を辿れば、明子を巡る噂へ行き着く。
明子を守ろうとする藤原家の動きも見える。しかし。それだけで、明子本人を犯人にはできない。
玉藻は目を閉じた。なら。動かしてみればいい。
誰が。何を守るのか。何を隠すのか。
その時。どこへ手を伸ばすのか。目を開く。
「……良い考えがあります」
玉藻の言葉に、小夜が顔を上げた。
「小夜。明子様へ、文を出してもらえますか」
「明子様に……?」
小夜の表情が揺れた。玉藻はその反応を見て、すぐには続きを言わなかった。小夜は長い間、明子に仕えてきた。自分が知らぬ間に何かへ利用されていたかもしれないと分かっても、それだけで昨日までの主人をすべて疑えるわけではない。
「助けてほしい、と書いてください」
「助けて……」
「あなたは千代様を殺していない。けれど今、藤原家の名まで噂され始めている。このままでは、どうすればよいか分からない。直接お話ししたい、と」
小夜は俯いた。
「明子様なら……」
ぽつりと声が漏れる。
「明子様なら、分かってくださるでしょうか」
その言葉を聞いて、玉藻は胸の奥に僅かな痛みを覚えた。昔の自分も。同じように思っていた。
「……分かりません」
だから、嘘はつかなかった。
「明子様ご本人が来るかもしれません。誰かを寄越すかもしれない。何も返事がないかもしれません」
「では、何のために?」
「確かめるためです」
玉藻は静かに答えた。
「明子様を巡る噂が広がり、小夜が助けを求めた時――誰が、どう動くのか」
それ以上は言わなかった。明子自身が何かをした証拠は、まだない。疑いと事実を混ぜてはいけない。
だからこそ。相手に動いてもらう。それだけだった。
*
文は、小夜自身が書いた。
筆を持ったまま、小夜は何度も手を止めた。明子の名を書くだけで、長く仕えてきた日々が浮かぶ。笑って褒められたことも、叱られて落ち込んだこともある。その記憶が残っているからこそ、助けを求める一文を書くことが怖かった。
――明子様、助けてください。
――私は千代様を殺しておりません。
――けれど、今はどなたを信じればよいのか分かりません。
――お話ししたいことがあります。
――どうか一度だけ、お会いください。
最後に、会いたい場所と時刻を書く。文は小夜自身が封をし、内容を知らない使いに、明子本人へ渡すよう頼んだ。待ち合わせの場所を知るのは、文を開いた者だけになる。文を折り畳んだ小夜の手は、僅かに震えていた。
「これで……よろしいでしょうか」
「はい」
玉藻は内容を変えなかった。これは玉藻の言葉ではない。小夜自身が、主人へ助けを求めた文でなければ意味がなかった。
*
翌日の夕刻。待ち合わせに選んだのは、都の外れに近い人通りの少ない道だった。小夜は一人で立っている。
風が道端の草を揺らし、乾いた葉が地面を擦った。人の足音が聞こえるたびに小夜の肩が僅かに上がるが、通り過ぎる者ばかりだった。待つ時間が長くなるほど、明子が来てくれるかもしれないという期待と、来なかった時の恐怖が交互に胸へ浮かんだ。
少なくとも、外から見れば。すぐ近くには武丸が潜んでいた。ほんの数歩先。
何かあれば一息で飛び出せる距離だというのに、姿はまったく見えない。小夜は何度か周囲を見回した。
「……本当にいますよね?」
「いるべ」
「ひっ!」
すぐ近くから声だけがした。
「びっくりさせないでください!」
「聞かれただから答えただ」
「どこにいるんですか」
「ここだべ」
「分かりません!」
少し離れた場所から見ていた玉藻は、思わず口元を緩めた。頭はあれだが。潜伏だけは本当に見事だった。
重綱は玉藻よりさらに別の位置にいる。全員が小夜のすぐそばにいては意味がない。明子が自ら来るなら。
誰かを連れて来るなら。あるいは、まったく別の反応をするなら。その全体を見る者が必要だった。
日は徐々に傾いていく。小夜は何度目か、道の向こうを見た。誰も来ない。
――来ない?
玉藻は考える。文は届いたはずだ。それでも動かないのなら。
それも一つの答えになる。忠隆か。兼隆か。
あるいは明子自身か。噂には反応しない。小夜も放っておく。
そういう判断をした可能性もある。玉藻がそう考え始めた時だった。道の向こうに、人影が現れた。
二人。男だった。明子ではない。
玉藻の目が細くなる。小夜も気づいた。
「あの……」
二人はそのまま近づいてくる。
「明子様のお使いでしょうか?」
一人が小夜の前で足を止めた。
「小夜殿だな」
「はい」
小夜の表情が少し明るくなる。
「明子様は?」
男は答えなかった。
「お会いしたくて……」
一歩。男が近づく。小夜も、まだ逃げなかった。
「明子様に、お伝えしたいことが――」
男の手が動いた。刃が抜かれた。
「……え?」
小夜の顔から血の気が引いた。男が踏み込む。その瞬間。何もなかったはずの場所から、巨大な影が飛び出した。
小夜の足は動かなかった。助けを求めた相手から来た者だと思った、その直後に刃が自分へ向いた。理解が追いつくより先に、冷たい光だけが視界を横切った。
「危ねえべ!」
武丸だった。小夜へ振り下ろされるはずだった腕を掴み、そのまま男の身体ごと地面へ叩きつける。
「ぐっ!」
「武丸!?」
「だから近くにいるって言ったべ!」
「今そこじゃないです!」
もう一人が刃を抜いた。武丸は一人目を押さえている。小夜へ向かおうとした男の前へ、今度は重綱が出た。
「若い者が、随分物騒なものを持っておるの」
「退け!」
「嫌じゃ」
男が斬りかかる。重綱は半歩だけ踏み込み、刃を持つ手首を鋭く打ち上げた。男の指が緩み、刀が地面へ落ちる。
男の表情が変わった。武丸に仲間を押さえられ、自分の前には見た目とは裏腹に腕の立つ老人がいる。さらに遠くから玉藻がこちらを見ていた。
男は舌打ちした。逃げる。
「追うべ!」
武丸が顔を上げた。
「いいえ!」
玉藻が止める。
「一人いれば十分です」
逃げた者の背中を目で追いながら、玉藻はそう言った。今、必要なのは逃げた者を追うことではない。捕らえた一人を、確実に生かして連れ帰ることだった。
*
男は重綱の家へ連れて行かれ、手を縛られた。小夜は少し離れた場所に座り、何度も男の顔を見ては目を伏せていた。
「この方に、ここで何かを聞くのですか」
小夜の問いに、玉藻は首を振った。
「いいえ。私たちが問い詰める必要はありません」
「では……」
「橘家へ連れて行きます。誰なのか、誰に頼まれたのか。そこから先は当主様にお任せします」
小夜は黙った。文は封をして明子本人へ届けた。待ち合わせの場所は、その中にしか書いていない。それでも玉藻は、そこで答えを決めつけなかった。
「まだ、明子様だと決まったわけではありません」
小夜がゆっくり顔を上げる。
「ですが、この方があの場所を知っていた理由は必ずあります。それを、きちんと調べてもらいましょう」
その夜、男は重綱と武丸が交代で見張った。誰も深く眠れないまま、夜だけが静かに過ぎていった。
小夜は横になっても、何度も目を開けた。戸の向こうで物音がするたびに身体が強張る。明子へ送った文の言葉を思い返しては、布団の中で指を握り直した。玉藻も眠らなかった。小夜の浅い呼吸と、見張りを交代する足音を聞きながら、夜が明けるのを待った。
*
翌朝。玉藻は橘家へ戻った。小夜。
武丸。重綱。そして捕らえた男。門の前で待っていた橘家当主は、玉藻の姿を見ると静かに立ち上がった。
「戻ったか」
「はい」
玉藻は深く頭を下げた。
「お約束通り」
顔を上げる。
「証拠と共に、戻りました」
当主は玉藻の後ろに並ぶ者たちを見る。小夜。大男。
見知らぬ老人。縛られた男。
「……話せ」
*
長い話になった。当主は途中で遮らなかった。まず。
武丸が千代を殺した。その事実。
「……お前か」
声は低かった。怒鳴り声ではない。それがかえって重かった。千代の父として武丸へ飛びかかりたい感情と、当主として最後まで話を聞かなければならない理性が、同じ身体の中でせめぎ合っているのが玉藻にも分かった。
当主が低く言った。武丸は逃げなかった。
「はい」
いつもの笑みもない。
「オラが殺しただ」
「誰かに命じられたのか」
「違う」
武丸は首を振った。
「噂の元を断てって言われた。明子様と千代様の噂を聞かされて、オラは……千代様を消せばいいと思った」
当主の拳が震えた。玉藻は目を逸らさなかった。
「殺せとは言われていなかったのだな」
「はい」
「……そうか」
当主は目を閉じた。長く息を吐く。
「藤原家に関わる件を洗い直す。それが終わるまで、こやつの処分は保留する」
武丸は黙って頭を下げた。当主はそれ以上、彼を見なかった。許したのではない。今はまだ、怒りより先に確かめなければならないものがある――その区別を崩さなかった。
千代を殺した事実が消えるわけではない。だが今ここで武丸を失えば、千代の死の先にあるものまで失う。それを当主は分かっていた。
次に。小夜が語った。かつて、藤原家で“参謀”と呼ばれていた人物から文や袋を預かり、宗次へ運んでいたこと。
武丸が仕事を頼まれた藤原家の男も。重綱が昔、宗次と頻繁に会っていたと知る男も。すべて同じ。藤原兼隆。
重綱は、宗次が源家にいた頃から、兼隆との関係が始まっていたことを話した。そして最後に。小夜が明子へ助けを求める文を送ったこと。
その文に書いた場所へ二人の男が現れ、小夜へ刃を向けたこと。そして、そのうち一人を生きたまま連れ帰ったこと。
当主はしばらく何も言わなかった。
「小夜」
「はい」
「千代は、生前、お前が来たなら通せと家の者へ言っていた」
小夜が顔を上げる。
「事件の日も、お前は正面から屋敷へ入っている。こちらでも確認した」
「……はい」
「お前が千代を殺したとは、もう思っておらぬ」
小夜の唇が震えた。涙が一つ落ちる。
「……ありがとうございます」
「礼を言うことではない」
当主は静かに答えた。
「疑うべき者を間違えぬ。それだけだ」
それから玉藻を見る。
「それと」
「はい」
「お前を襲った男たちのことも、家臣から聞いている」
玉藻は黙って頷いた。
「身元は分からぬ。名乗りもしなかったそうだな」
「はい」
「だから今のところ、あれをどこかの家の者と決めつけるつもりはない」
「……はい」
玉藻は少しだけ安堵した。そこを混ぜてはいけない。見たことと。
推測していること。別のものだ。
「だが」
当主は言った。
「娘を殺された父親が、お前一人に何もかも調べさせていたと思うな」
玉藻が顔を上げる。
「家の者にも聞かせていた。千代が死んだ前後に何を見たか。誰が出入りしたか。見慣れぬ者はいなかったか」
「当主様……」
「お前が何かを追っているのも分かっていた」
一度、言葉を切る。
「だから守らせた」
玉藻の胸の奥が僅かに温かくなる。やはり。あの日のことは。自分が思った通りだった。
「ここから先は」
当主が立ち上がる。
「橘家の仕事だ」
*
刺客の身柄は、そのまま橘家に預けられた。小夜の文を運んだ使いからも事情を聞き、封が破られずに明子本人へ渡ったこと、待ち合わせの場所が文の中にしか記されていなかったことを確認した。そのうえで橘家が男を取り調べる。すぐには口を割らなかったが、やがて男は、小夜を消すよう命じたのは明子だったと認めた。
そこで初めて、玉藻が抱いていた疑いは、明子本人へ直接つながる証言を持った。
*
藤原家は、簡単には崩れなかった。当然だった。長く都に根を張った家が。
問いが向けられるたび、部屋の空気は少しずつ硬くなっていった。証言は増えている。だが証言が増えるほど、それぞれが示す範囲もまたはっきりする。玉藻は、疑いを強くすることと、事実を確定することが同じではないと改めて思い知らされた。
数人の証言だけで、すぐに全てを失うはずがない。藤原兼隆は、武丸へ命令したことそのものは認めた。
「明子様と千代殿を巡る噂が広がっておりました」
落ち着いた声だった。
「その噂の流れを止めるため、武丸へ仕事を任せた。それだけです」
「“噂の元を断て”と?」
「はい」
「“良い噂を流せ”とも?」
「言いました」
「千代を殺せという意味ではなかった?」
「当然です」
兼隆は即答した。
「噂の出どころを探り、広がりを止めろ。必要なら明子様や藤原家への悪評を打ち消す話を流せ。そのつもりでした」
武丸の解釈とは。まるで違う。
「武丸が千代殿を殺したことまで、私の命令とされては困ります」
玉藻は黙って聞いていた。そこは兼隆の言う通りだった。少なくとも。
武丸から聞いた命令だけで、千代殺害を兼隆が命じたとは言えない。藤原家当主であり、明子の父でもある忠隆もまた。娘を守ろうとしたことは否定しなかった。
「明子の名が傷ついていた」
忠隆は言った。
「親として、放っておけなかった。それだけだ」
それだけ。言葉にすれば。まだ逃げ道がある。
宗次と兼隆の過去についても。小夜の使いについても。兼隆は簡単には崩れなかった。
「宗次が後に何をしたかまで、私の責任だと言われては困ります」
重綱が知る過去は。確かに重い。だが。
それだけで今の事件すべてを証明できるわけではない。玉藻は思った。
――やはり。
簡単ではない。それでいい。証拠というものは。
都合よく一つの形にはならない。だからこそ。一つずつ。逃げ道を塞ぐ。
*
最後に。明子本人が呼ばれた。
戸が開く音に、玉藻の身体が僅かに強張った。何度も思い出した顔だった。幼い頃から隣で笑い、何でも話し、両親を失った時には自分を抱きしめた女。その顔が、今は疑いの中心に立っている。
「私は何もしておりません!」
部屋へ入るなり。明子は否定した。
「では、小夜へ送られた男は?」
「知りません!」
「男は、お前の命令だと話している」
「嘘です!」
忠隆が娘を見る。
「明子」
「お父様、本当です!」
明子は父へ縋るように近づいた。
「私がそんなことをするはずありません!」
玉藻は明子の顔を見ていた。昔と同じ。追い詰められた時。
唇の端が僅かに震え、視線が部屋の中を忙しく彷徨う。その癖まで覚えていた。昔はそれを見ると、玉藻の方から声を掛けた。大丈夫だと、何度も言った。今は、何も言わなかった。
明子はまず。自分を信じてくれる者を探す。やがて。明子の視線が小夜を捉えた。
「小夜!」
小夜の肩が揺れる。
「あなたなら分かるでしょう?」
明子が近づく。
「私はずっと、あなたを大切にしてきたわ」
「……」
「何とか言って」
小夜は俯いていた。
「小夜!」
やがて。小夜が顔を上げた。
「……私」
声が震える。
「明子様に、助けてくださいって書きました」
明子の表情が止まる。
「私、怖くて」
「……」
「千代様を殺してないって、信じてほしくて」
涙が滲む。
「明子様なら、助けてくださると思ってました」
「小夜……」
「でも」
小夜は唇を噛んだ。
「来たのは、私を殺そうとする人でした」
小夜の声は細かったが、途切れなかった。言い終えた瞬間、肩が小さく落ちる。長く握っていた何かを、ようやく手放したようだった。
明子の顔が歪む。
「違う」
「……」
「違うわ!」
声が大きくなる。
「私は知らない!」
明子が一歩下がる。
「誰かが勝手に――」
「明子様!」
突然。大きな声が響いた。全員がそちらを見る。
武丸だった。明子の顔に。一瞬だけ。希望が浮かんだ。
「どなたか存じませんが……」
必死に笑顔を作る。
「あなたは、私を信じてくださいますわよね?」
武丸は満面の笑みを浮かべた。
「今日も美しいですな!!」
「…………」
誰も言葉を発さなかった。小夜が目を閉じた。重綱は額を押さえた。
忠隆は武丸を見つめたまま固まっている。兼隆だけが、小さく息を吐いた。玉藻は。静かに前へ出た。
「もう」
明子が玉藻を見る。
「いいでしょう」
「……何よ」
玉藻は明子の正面まで進んだ。
「諦めなさい」
明子の顔が引きつる。玉藻は。昔。
何度もそう呼んだように。その名を口にした。
「あなたの負けよ――あきこ」
その呼び方は、何年も前と同じだった。白粉の下の顔も、整えた髪も、玉藻という名も、その一瞬だけ明子には届かなかったのかもしれない。目の前にいる女と、死んだはずの友の記憶が、明子の中で重なった。
明子の瞳が。大きく見開かれた。
「……え?」
声。目。自分の名を呼ぶ。その響き。
明子が一歩。後ろへ下がった。
「……いや」
玉藻は何も言わない。
「まさか……」
明子の呼吸が乱れていく。
「あなた……」
指先が震える。
「藻女……?」
忠隆が娘を見る。
「何を言っておる」
小夜も。武丸も。重綱も。玉藻を見る。
明子だけは。もう周囲が見えていなかった。
「違う……」
一歩。また一歩。
「そんなはずない」
壁際まで下がる。
「死んだはず……」
玉藻の表情は変わらない。
「川で……」
明子の声が震える。
「あなた……生きて……?」
そして。恐怖の中に。別の感情が混じった。
「何が目的なの?」
玉藻は答えない。
「私に何をするつもり?」
明子は玉藻を指差す。
「復讐なの?」
その声がさらに大きくなる。
「だって……だって、あの時――」
そこまで聞いた瞬間、玉藻の胸の奥で何かが鋭く動いた。怒りではない。まだ確かめきれていないものを、明子自身の口で決定的な形にしてしまう危うさを悟った。
「あきこ!」
玉藻の声が響いた。明子の口が止まった。室内が静まり返る。玉藻は。
明子だけを見ていた。
「分かるわね?」
静かな声だった。怒鳴ってはいない。それでも。明子の顔から。
一瞬で色が消えた。
「その先にあるものが、何か」
沈黙。明子の唇が震える。何かを言おうとした。けれど。
声にはならない。忠隆が二人を見比べる。
「……何の話だ」
兼隆も。初めて。表情を変えた。だが。
明子は答えなかった。唇を固く閉ざし、玉藻から目を離せないまま立ち尽くしている。忠隆がもう一度「何の話だ」と問うても、明子は何も言わなかった。兼隆もまた、二人の間に何があるのか測るように黙っている。
玉藻は、その沈黙を見ていた。
――分かったのね。
少なくとも明子は、玉藻の言葉が何を指しているのか理解している。それだけは、顔色と、止まった言葉が示していた。そして先ほど、明子自身が口にした。死んだはず、川で、と。
玉藻は明子の目を見た。そこには、かつて自分へ向けられていた親しさはもうなかった。驚きと恐れ、その奥に、知られてはならないものへ触れられた者の硬さがある。玉藻はそれを見逃さなかった。
それはまだ証拠ではない。けれど玉藻にとっては、それまでの疑いとは違う手応えだった。父を失った。母を失った。
家を失った。名を失った。そして。千代を失った。
それでも玉藻は、怒りを飲み込んできた。疑いだけで誰かを憎まぬように。憎しみだけで、真実を決めてしまわぬように。ずっと。
抑えてきた。けれど今。明子の沈黙を見た、その瞬間。胸の奥で。
これまで押さえ込んできた感情が、初めて産声を上げた。怒り。憎しみ。そして――復讐。
川から生還した日に生まれた小さな化け物は、もう息を潜めてはいなかった。宗次を刺した夜に揺れた細い影も、千代の日記を抱いた夜に広がった何かも、すべてがここへ繋がっている。名もなかった感情が、ようやく自分の名を得たようだった。
一つ失うたび。玉藻の中では、何かが増えていた。一本。また一本。
誰にも見えない尾が。その先にいる女の名は。
一本は喪失から。一本は疑いから。一本は怒りから。まだ九つには届かない。それでも、狐と呼ばれた少女の背後で、見えない尾は確かに増え続けていた。
――あきこ。
玉藻は、昔の友を見つめた。今度は。もう目を逸らさなかった。
第五話 了




