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悪役令嬢 玉藻前  作者: ニカオ


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第四話 怒り

小夜の姿が廊下の角へ消えた。玉藻は追わなかった。反対側から、いくつもの足音が迫ってくる。

「今の悲鳴は何だ!」

「千代様のお部屋だ!」

もう時間がない。玉藻は振り返った。昨日まで笑っていた千代が、動かぬまま横たわっている。

その傍ら、机の上には見覚えのある綴じ本があった。何度も千代が筆を走らせていたものだった。

――明日の夕方まで、待って。

千代が何を伝えようとしていたのか。もう、その口から聞くことはできない。玉藻は綴じ本を取り、懐の奥へ滑り込ませた。

直後、家人たちが部屋へ飛び込んできた。

「千代様!」

一人が駆け寄って膝をつき、肩へ手を触れる。何度呼んでも反応はない。別の家人が顔を覗き込み、息を確かめた。

その手が止まった。家人の顔から血の気が引いていく。

「……そんな」

昨日、十八になったばかりだった。祝いのために飾られた花も、贈り物も、菓子の甘い匂いさえ残っている。その中で、千代だけがもう応えない。

「玉藻」

家人の一人が、かすれた声で呼んだ。

「何があった」

「私が来た時には……もう、このように」

「誰か見なかったか?」

玉藻は一度だけ息を整えた。

「ここから走り去る人影を見ました」

「誰だ」

「分かりません」

「顔は?」

「見ていません」

「男か、女か」

「それも……分かりません」

そこから先は言わなかった。玉藻が見たことにしたのは、走り去る人影。ただそれだけだった。

「どちらへ?」

玉藻は、小夜が逃げた方角とは逆を指した。

「……あちらへ」

その時、廊下の向こうから低い声が響いた。

「何事だ!」

人垣が割れる。橘家の当主だった。

「千代は――」

部屋へ入った当主の声が止まった。

「千代!」

当主は娘の傍らへ駆け寄り、膝をついた。

「千代……おい、千代」

肩へ手を置く。頬へ触れる。何度呼んでも、返事はなかった。

「……千代」

二度目の声は、橘家の当主のものではなかった。娘を呼ぶ、父親の声だった。

昨日まで、料理は足りるか、菓子はあるか、花はどうしたと何度も確かめていた人だった。十八になった娘を、誰より嬉しそうに見つめていた人だった。

当主の手が千代の頬に触れたまま止まる。わずかに震えていた。誰も声を掛けられなかった。

しばらくして、家臣の一人が覚悟を決めたように口を開いた。

「旦那様」

当主は顔を上げない。

「……何じゃ」

「玉藻が、ここから立ち去る人影を見たとのこと」

当主の顔が上がった。

「何?」

「まだ遠くへは行っておりますまい。すぐに捜索へ出ます。お許しを!」

当主はもう一度、千代を見た。ほんの一瞬、目を閉じる。それからゆっくりと立ち上がった。

「……許す」

次の声は、屋敷中へ響いた。

「皆、探せ! 必ず捕らえよ!」

「はっ!」

家臣たちが一斉に走り出す。玉藻も頭を下げた。

「私も探します」

当主は玉藻を見た。

「……頼む」

その一言が、胸に重かった。

*

橘家の周囲は、すぐに騒然となった。家人たちは道へ散り、近隣の家々へ声を掛けて回った。

「不審な者を見なかったか!」

「こちらへ誰か走って来なかったか!」

「裏手も見ろ!」

驚いた人々が戸口から顔を出す。誰も事情の全てを知らないまま、断片だけが外へ漏れ始めた。

「何があったんだ?」

「橘家だろう?」

「姫様がどうしたって?」

問いに答えられる者はいない。それでも、人は聞いたことに自分の推測を足していく。噂はまだ形を持たないまま、細い糸のように町へ伸び始めていた。

玉藻は家人たちと同じ方向へ走った。一つ目の角ではまだ人目があった。二つ目で声が遠ざかり、三つ目を曲がったところで足を止めた。

振り返る。誰も見ていない。

玉藻は踵を返し、小夜が逃げた方角へ走った。

夕暮れはすでに終わりかけていた。春を待つ時季とはいえ、日が落ちるのはまだ早い。家々の軒先に灯りが入り、往来の人影も少しずつ減っていく。

「小夜!」

返事はない。

あれほど怯えていたのなら、大通りへは出ないはずだった。玉藻は細い道へ入り、橋の下、空き小屋の陰、積まれた材木の隙間を一つずつ確かめていく。

遠くから、橘家の者たちの声が聞こえた。

「そちらはどうだ!」

「見つからん!」

時間がない。先に見つけられれば、小夜はそのまま連れ戻される。

その時、積まれた木材の向こうから小さな音がした。

玉藻は足を止めた。

「……小夜?」

「来ないで!」

震えた声だった。

「私です」

しばらく静寂が続いた。やがて、木材の陰から小夜がゆっくり顔を覗かせた。髪は乱れ、頬には涙の跡が残っている。

「私じゃありません」

玉藻が何か言うより先だった。

「私、千代様を殺してません。行った時には、もう……」

「分かりました」

「え?」

「今は、ここから離れます」

玉藻は手を差し出した。

「立てますか」

「……はい」

「来てください」

「どこへ?」

一人だけ、思い当たる人がいた。冷たい川から、泥にまみれた自分を拾い上げてくれた人。

「私を助けてくれた人のところです」

*

川下へ向かう道は遠かった。日は完全に沈み、都の喧騒も少しずつ背後へ遠ざかっていく。聞こえるのは、川の音と二人の足音だけだった。

小夜は何度も後ろを振り返った。そのたびに玉藻も足を止め、暗がりへ目を凝らした。追ってくる者はいない。

玉藻は何も尋ねなかった。宗次のこと、千代とのこと、あの日の密談。聞きたいことはいくらでもあったが、今ここで問い詰めるべきではない。

まずは、小夜を安全な場所へ。

川面へ目を向ける。黒い水を見た瞬間、胸の奥に冷たいものが蘇った。縄、泥、息のできない苦しさ、遠ざかる月。

玉藻は目を逸らし、歩き続けた。

やがて、川沿いに小さな家が見えてきた。

戸を叩く。

「誰だ」

「……私です」

少しして戸が開いた。かつて川から藻女を救い上げ、三月もの間その命を繋いだ老人――源重綱が立っていた。

重綱は玉藻を見て、その隣に立つ小夜へ視線を移した。

「じい様。お願いがあります」

「何だ」

「この人を……しばらくここに置いてもらえませんか」

小夜が深々と頭を下げた。

「お願いします」

重綱はしばらく二人を見た。それから何も聞かず、戸を大きく開けた。

「入れ」

「ありがとうございます」

小夜が戸口を跨ごうとして、振り返った。

「玉藻様は?」

「私は戻ります」

「今から?」

「戻らなければなりません」

自分まで姿を消せば、千代が死んだその日に二人の女が橘家から消えることになる。それでは何もかもが不自然になる。

「明日、また来ます」

小夜は不安そうな顔をしたまま、それでも頷いた。

「……はい」

玉藻は重綱へ頭を下げた。

「お願いします」

そして、再び川沿いの道へ戻った。

*

帰路の途中、頬に冷たいものが落ちた。玉藻が空を見る。一滴、もう一滴。ほどなくして、川面に無数の輪が広がり始めた。

雨だった。

玉藻は歩みを速めた。しかし、橘家までは遠い。雨脚は次第に強くなり、衣が水を吸い、裾が重くなる。濡れた髪が頬へ張りついた。

都へ戻る頃には、身体の芯まで冷えていた。

頬を拭う。指先を見る。

白い。

白粉だった。

もう一度、頬へ触れる。雨に流されている。

玉藻は俯いた。

化粧を落とせば、藻女だった頃とほとんど変わらない。

橘家へ着いた時には、すっかり夜になっていた。雨はまだ降っている。

門の向こうは静かだった。昼間、あれほど出入りしていた家臣たちの姿はない。皆、すでに戻っている。見つからなかったのだ。

玉藻は門をくぐった。

雨の向こう、屋敷の入口に松明の火が揺れていた。その傍らに、一人の男が立っている。

橘家当主だった。

玉藻の足が止まった。

「……当主様」

「遅かったな、玉藻」

低い声だった。

「申し訳ございません」

「お前が最後だ」

当主は玉藻の後ろを見る。誰もいない。

「……見つかったか?」

玉藻は顔を上げられなかった。雨で化粧が落ちている。

そして、小夜なら見つけた。自分で隠した。

「……いえ」

「そうか……」

当主は空を見上げた。月も星もない。松明の火が、雨風に揺れている。

しばらく、何も言わなかった。

「玉藻」

「はい」

「そんなに気に病むな」

玉藻の指が、わずかに強張った。

「わしが必ず見つける」

「……はい」

当主には、玉藻が俯いている本当の理由など分からない。娘を救えなかったことを悔いているように見えたのかもしれない。皆が戻った後も、一人だけ雨の中を探し続けていたように見えたのかもしれない。

「それより、風邪をひいてはいかん。すぐに着替えよ」

「……ありがとうございます」

玉藻は深く頭を下げた。そのまま顔を上げず、当主の横を通り過ぎる。

濡れた足跡が、一つ、また一つ、廊下に残っていった。

*

その夜。部屋へ戻った玉藻は、濡れた衣を替え、髪を拭いた。外ではまだ雨が屋根を叩いている。

懐へ手を入れ、綴じ本を取り出す。千代の日記。雨に濡らさぬよう、川下からずっと胸元へ抱えてきたものだった。

玉藻はその日記を開いた。

そこにあったのは、玉藻が恐れていた答えではなかった。千代は玉藻が藻女であることを知っていた。知っていて黙っていた。知っていて、ずっと探していた。

家のことを調べ、藻女の家を取り戻そうとしていた。雅仁のことも、自分を助けるために考えていた。そして最後の頁には、来年も玉藻と一緒に誕生日を祝いたいと書かれていた。

読み終えた時、玉藻はしばらく動けなかった。

雨音だけが続いている。

玉藻は日記を胸へ抱いた。

「……ごめんなさい、千代様」

返事はなかった。

*

翌朝、雨は上がっていた。軒先から雫が落ち、濡れた土が淡く光っている。

玉藻は再び川下へ向かった。今度は、小夜から話を聞くために。

源重綱の家へ着くと、小夜はすでに起きていた。ほとんど眠れていないらしく、目の下に薄く影がある。

「玉藻様」

「小夜。聞きたいことがあります」

玉藻は向かいへ座った。小夜の肩が強張る。

「千代様のところへ、何度も来ていましたね」

「はい」

「なぜですか」

小夜は、少し不思議そうな顔をした。

「明子様のお誕生日の贈り物を、相談していたんです」

玉藻は黙った。

「……贈り物?」

「はい。千代様なら、明子様が何を喜ぶか分かると思って」

「では、『しくじりました』というのは?」

「ああ。欲しかったものが手に入らなかったんです」

「『まさか、バレてない?』は?」

「明子様にですよ。内緒にして驚かせようって話していたので」

小夜は首を傾げた。

「それが、どうかしたんですか?」

玉藻はすぐには答えなかった。

「橘家へ来るたび、誰にも止められなかったのは?」

「千代様が、私が来たら通していいって皆さんに言ってくださっていました」

「……そうですか」

昨日読んだ日記と、小夜が今話していることは食い違わない。玉藻の中で、これまで疑いの材料にしていたものが、一つずつ別の意味へ戻っていった。

「小夜」

「はい」

「あなたは、千代様を殺していませんね」

小夜は一瞬固まった。

「だから昨日からそう言ってるじゃないですか!」

思わず声が大きくなり、少し離れたところにいた重綱がちらりとこちらを見る。

「私、何回言いました!?」

「……何度か」

「何度かじゃありません!」

「すみません」

「ものすごく疑ってましたよね!?」

「……はい」

小夜は頬を膨らませた。

玉藻は少しだけ目を伏せる。

「本当に、申し訳ありませんでした」

今度は小夜も黙った。玉藻の声が、思っていたより真剣だったからだろう。

「……もういいです。でも忘れませんからね」

「それは困ります」

「困ってください」

ほんの少しだけ、張り詰めていた空気が緩んだ。

だが、千代を殺した者は別にいる。そこだけは、何も変わっていない。

小夜ではない。ならば次に見なければならないのは、宗次と小夜、その両方に繋がっていた場所だった。

藤原家。

*

その日の昼過ぎ。千代の死は、ようやく藤原家にも届いた。

明子は、報せを聞き返した。

「千代が?」

「はい。昨日、橘家で亡くなられたと」

「……そう」

驚きはした。だが、その後に浮かんだのは別の考えだった。

自分が千代を疎んじていたことを、父は知っている。娘の望みを叶えるためなら、あの人は昔から様々な手を尽くしてきた。

「……お父様、そこまでしてくださったのね」

同じ報せは、明子の父であり藤原家を束ねる男――藤原忠隆のもとにも届いた。

「千代殿が……死んだ?」

「はい。殺されたのではないか、との話も出ております」

忠隆は眉を寄せた。

頭に浮かんだのは、自分の側近だった。忠隆の意向を汲み、表に出せない仕事まで長く取り仕切ってきた参謀――藤原兼隆。

「……兼隆」

忠隆は低く呟いた。

「そこまでやったのか?」

その頃、当の兼隆は別の部屋で同じ報せを受けていた。

「……は?」

「千代様が亡くなったそうで」

「聞こえた。いや、ちょっと待て」

兼隆は額を押さえた。

何かがおかしい。いや、おかしいどころではない。

「死んだ?」

「はい」

「千代が?」

「はい」

「……武丸はどこだ」

「熊谷殿ですか? さあ。昨日から姿を見ておりませんが」

兼隆の顔が強張った。

*

少し前まで、兼隆には使いやすい男がいた。宗次。文字が読め、話が早く、十まで言わずとも七を聞けば残りの三を正しく理解する男だった。

「宗次。例の件だが」

「承知しております」

それで済んだ。

表立って命じにくい仕事ほど、そういう男は重宝した。小さな使いであれば女房に文や品を持たせることもあり、その一人が小夜だった。本人は、自分が何と何を繋いでいるのかほとんど理解していない。それでよかった。

だが、宗次は死んだ。

兼隆は代わりになる者を探した。腕が立つ。人目を避けて入り込める。じっと身を隠すことに長け、必要なら人も殺せる。

条件だけを見れば悪くない男だった。宗次を失った兼隆が、新たに使い始めた男――熊谷武丸。

ただし、一つだけ大きな違いがあった。

宗次ほど、頭が回らない。

それでも今回の命令くらいなら大丈夫だと、兼隆は思っていた。

忠隆から受けた言葉は短かった。

「噂の元を断て」

明子と千代を巡る噂が、藤原家に不利な形で広がり始めている。ならば別の噂で塗り替える。兼隆にとっては、これまでにもあった類の仕事だった。

武丸を呼び、言い渡した。

「噂の元を断てとのことだ。後は分かるな?」

武丸は真剣な顔で頷いた。

「はい!」

本当に分かっているように見えた。

兼隆はさらに付け加えた。

「良い噂を流すんだぞ」

「お任せください!」

あの時、なぜもう少し具体的に言わなかったのか。

現在へ戻り、兼隆はゆっくり息を吐いた。

「……探せ」

「は?」

「武丸を探せ。すぐにだ」

家人が走り出した。

兼隆は頭を抱えた。

自分は千代を殺せなどと、一言も言っていない。

*

一方、熊谷武丸は、その頃まだ都の片隅に隠れていた。

本人の中では、仕事は終わっていなかった。

命じられたことの一つは片づけたつもりだった。だが、兼隆は最後に言った。

――良い噂を流すんだぞ。

そこが分からない。

「……良い噂って、どうやって流すんだ?」

誰かに話せばいいのか。何を話せばいいのか。どこで話せば噂になるのか。

武丸は真剣に考えた。

一日考えた。

答えは出なかった。

とりあえず、考えがまとまるまでは人目につかない方がいい。そう判断した武丸は、得意なことをした。

隠れた。

物置の奥。使われていない家。人の寄りつかない場所。動かなければ、武丸を見つけるのは難しかった。

ところが、そのうち見覚えのある藤原家の者たちが、自分のいた場所を探し始めた。

「……俺を探してる?」

最初は、仕事の続きを聞きたいのかと思った。

だが、自分はまだ『良い噂』を流せていない。

「……まだ帰らない方がいいか」

武丸はさらに隠れた。

翌日も見つからない。

その翌日も。

藤原家の捜索は続いている。

「……あれ?」

さすがに武丸も首を傾げた。

「これ……しくじってる?」

では、何をしくじったのか。

そこから先が分からない。

「どうしよ」

考えた。

やはり分からない。

だから、とりあえず隠れたままにした。

*

数日の間に、橘家の周囲で生まれた噂は、少しずつ形を変えていた。

最初は、千代が死んだという話だけだった。やがて、橘家がその日の夕方から何者かを探し回っていたことが加わった。

さらに、近所の者が思い出した。

「そういえば、藤原家の女房が来ていたそうだ」

「小夜とかいう娘だろう?」

「千代様を最初に見つけたのも、その女だって話だぞ」

「その後、姿が見えなくなったとか」

一つ一つは、誰かが見たことだった。そこへ、誰かの推測が足されていく。

「じゃあ、藤原が?」

「まさか」

否定の言葉でさえ、噂を次へ運んだ。

その話が藤原家へ届いた時、明子はしばらく黙った。

「小夜が?」

「はい。千代様を最初に見つけ、その後行方が分からなくなったと」

明子は目を伏せる。

父が自分のために動いたのだと思っていた。ならば、使ったのは小夜だったのだろう。

「……小夜、しくじったのね」

小さく息を吐く。

「あの子、昔から少し抜けてるもの」

一方、同じ報せを聞いた忠隆は立ち上がった。

「何だと?」

「藤原家の女房が現場にいて、今は行方が分からぬとのことです」

忠隆の顔色が変わる。

藤原家の女房がいる。千代が死ぬ。その女房が消える。外から見れば、それだけで十分だった。

「参謀を呼べ!」

忠隆が怒鳴った。

「兼隆を今すぐここへ!」

*

兼隆にとっても、事態は最悪の方向へ進んでいた。

小夜まで消えた。これでは、武丸一人の失敗では済まない。藤原家そのものが疑われ始めている。

「人数を増やせ」

兼隆は家人へ命じた。

「武丸を見つけろ。何としてもだ」

「しかし、熊谷殿は身を隠すことにかけては……」

「知っている!」

だから使ったのだ。こういう時だけ、その長所が腹立たしい。

「見つけたら捕らえろ」

兼隆は一度、言葉を切った。

「抵抗するなら……殺しても構わん」

家人が息を呑む。

「急げ」

その日の夕方。

隠れ場所を変えようか迷っていた武丸は、路地の向こうに藤原家の者たちを見つけた。

すぐに身を潜める。

男たちは、武丸がすぐ近くにいるとは気づかず話していた。

「本当に殺してもいいのか?」

「兼隆様の命だ。見つけたら捕らえろ。抵抗するなら殺しても構わんと」

武丸の目が大きくなった。

「……え?」

声を出しかけ、慌てて口を塞ぐ。

殺す。

誰を。

自分を。

「……やばくない?」

そこでようやく、武丸は理解した。

少なくとも、隠れたまま考えている場合ではない。

逃げる。

武丸は潜伏場所を離れた。

それが失敗だった。

身を隠している間は見つからなかった。だが、逃げることまで得意なわけではない。

角を曲がったところで、藤原家の家人と目が合った。

一瞬。

互いに止まった。

「……武丸?」

武丸も止まった。

「あ」

「いたぞ!」

武丸は走った。

*

その頃、玉藻も都にいた。

小夜の話を聞いた後、宗次と小夜、その両方に繋がっていた藤原家を外から見ていた。すぐに踏み込むつもりはない。今の自分には、証拠がない。

ただ、藤原家の邸から出ていく者たちの動きが、数日前から明らかに変わっていた。

何組にも分かれ、朝から夕方まで何かを探している。

最初は、小夜を探しているのだと思った。

だが、見ているうちに違和感が積み重なった。

小夜は女だ。藤原家の女房で、顔を知る者も多い。それなら町の者へ尋ねて回ればいい。

ところが彼らは、人目につかない路地や空き家、物置、身を隠せそうな場所ばかりを確かめている。探しているのは、小夜ではない。

なら、誰を。

玉藻は彼らを追うことにした。

自分で闇雲に探す必要はない。藤原家がこれほど必死になって探している者なら、彼らの後を追えばいい。

距離を取る。近づきすぎない。角を一つ遅れて曲がり、人が多い場所では足を緩める。

やがて、前方で声が上がった。

「いたぞ!」

男たちが一斉に走り出す。

玉藻も足を速めた。

狭い路地の先を、一人の男が走っている。体つきは頑丈だったが、逃げ方は上手くない。曲がるたびに追手との差が縮まっていく。

「回り込め!」

藤原家の者たちが散った。

男は別の道へ飛び込む。だが、その先にも人影が現れた。

「熊谷武丸! 止まれ!」

玉藻の足が止まった。

熊谷武丸。

宗次を失った藤原家が、これほどの人数を使って探し、捕らえようとしている男。

その男が、今、必死に逃げている。

玉藻は物陰から、その横顔を見た。

藤原家が隠したいもの。

千代が殺された直後から消えた男。

そして、数日間にわたり、藤原家自身が追い続けてきた男。

胸の奥で、点だったものが一本の線へ変わった。

玉藻は目を細める。

「……見つけた」


第四話 了

読んで下さりありがとうございます。

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